第3話 付き人
どうしよう。NEROのライブに行くことになってしまった。しかも本人に誘われて。最推しの椿様に誘われて。は?どういうことだもう意味がわからない。とんでもない事になってしまった。俺、カラスに花付きの雑草をお供えしただけなんだけど……。
「どうしよう、服とか、あと、着ていくものとか羽織るものとか……。あれ?全部同じか」
完全にパニックになっていた。椿様の後ろ姿を見送ってからもうずっとパニックだ。今夜八時からライブに行かなければならない。何を着ていけばいいんだ!どうしよう!もう何も分からない!とにかく一旦顔を洗おう。今何時だ?夕方の四時か。会場には一時間前には着いておきたいし、電車で行くにしても一時間はかかる。あと二時間。あと二時間で完璧に支度しなくては。
まず俺は洗面所に向かった。絶妙に汚い感じに伸びた髭を剃る。これを椿様に見られたのだと思うとショックでさらに気が狂いそうだったがなんとか耐える。次に顔を洗って、死んだような顔色を整えるために化粧下地を塗る。一応メイク道具一式は揃っている。化粧男子というよりかは、ただV系メイクに憧れていた時期があっただけだけど。もう殆ど無くなりかけているリキッドファンデを全身全霊で絞り出しながら、ふと我に返って、さっき椿様と話したことを思い出した。手が震える。あんなに至近距離であんなに長い間会話したなんて信じられない。最初にインターホンのモニターで見た時、詐欺かなとか思って本当にすみませんでした。一生悔やみながら生きていきます。
一通り顔面の補正が終わったので、くりくりにカールした変な癖毛をヘアアイロンでストレートに戻していく。しばらく髪を切っていなかったので、丁度今の椿様と同じぐらいの長さだ。お、お揃いだ。前髪なんかは伸びきってワンレン風になっているけどこれはこれで良しとする。
最後に服だ。夜は今よりもっと寒くなるだろうし、何を着ていこうか。クローゼットを開けて、最初に目に留まった黒のコートを手に取る。これでは動きづらいか。ならばこれはどうだろう。俺がデザインしたオーバーサイズの黒いジップパーカーだ。これなら暖かいし肩周りも楽だろう。よし、上着はこれでいいだろう。中に着ていくのはこの薄手の黒いニットでよさそうだ。下は、このいつも履いている黒いボトムスでいいかな。よし、思ったよりすんなりと服も決まった。
時計を見るとまだ五時前だったが、待っていてもそわそわするだけなのでもう駅に向かうことにした。玄関に備え付けられた全身鏡で身だしなみをチェックしてからドアを開けると、目の前に大きな黒の機材車が停まっていた。何だ何だ、と思って訝しげにその車を見ていると、運転席のドアが開いた。中からバンドマン風の若い男が降りてきて、こちらに向かって歩いてくる。
「春さんっすよね?椿さんに言われて、お迎えに上がりましたっす。まだ早えっすよって言ったんすけどね。もう行くっすか?」
すっすすっす言っているこの男は多分ローディーか何かだろうか。雰囲気で何となく分かる。
「あ、はい、犬伏です。よろしくお願いします。お迎え、ですか?」
「はい!椿さんが春さんを迎えに行けってうるさいんで、来ちゃいました!」
椿さんが、俺に気を使って?恐れ多すぎて足が震える。
「春さん、椿さんの大ファンなんすよね。俺もなんすよ!車内で椿さんのこと色々話しましょうよ!」
「ぜ、是非。ファン同士よろしくお願いします」
少々押しの強いローディーに促されて、俺は車の助手席に乗った。
「俺は
「ああ、はい一応。全然売れてないのでニート同然ですけど。そんなことより椿さんが俺の話を?」
「そうっすよ!もうずっと春さんのことばっか話してて!命の恩人だ、とか、運命の人だ、とか言ってんすよ!」
命の恩人は……多分違うと思う。だって初めて会った時死んでたし。
「は、はあ……。椿様、急に俺の話をしだしたんじゃないですか?」
「確かに言われてみればっすね。今まで春さんの名前すら出てこなかったっすけど、数週間前ぐらいから急に話すようになったっす」
「やっぱりですか」
やっぱり俺がカラスを見つけた時ぐらいから俺の話をするようになっている。椿様、颯に俺との出会いをどうやって説明したんだろう。まさか、カラスの時の記憶が蘇って、とか説明するはずもないし。
「春さんと椿さんってどうやって出会ったんすか?」
「えっ?どうやってって、何て言ったらいいのかな」
思ったそばから痛いところを突いてくる。どうやって誤魔化したらいいんだ?正直には言えないし、即興で上手い言い訳を考えられそうにもない。
「そのお、俺じゃなくて椿様に聞いてください……」
俺はもう笑ってはぐらかすことしかできなかった。
「ふーん、まあいいっすけど。てかお二人は付き合ってんすか?」
「はい?!そ、そんな訳ないじゃないですか!何を言って……」
何だこいつは!けしからん!そんな馬鹿げた話があるか!
「別にいいじゃないっすかあ。椿さん、女の人より綺麗っすもんねえ。そりゃ好きにもなりますよねえ」
「えっ、いや本当に違──」
「お幸せにっす!」
……無理だ、話が噛み合わない。颯の声がでかすぎて俺が何を言っても多分聞こえていない。もうどうにでもなれ。
車を走らせている間、俺は颯から椿さんの話をノンストップで聞かされていた。野外ライブの日に台風が直撃してセットが崩壊してしまったものの、そのままライブを強行したことや、ライブやグッズの売上を、経営難に陥っている小規模ライブハウスに全額寄付したこと、ライブ中に肺気胸という病気が発症してしまい、肺が片方完全にしぼんだ状態になってしまっているにも関わらず、激痛に耐えながら最後まで歌い切ったことなど、とんでもない武勇伝は数しれず、大橋BLACK.Bに着くまで颯の言葉が途切れることはなかった。
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