アンナ・ターニヤ(1)

 私は頭が真っ白になるのを感じながら目の前のアンナさんを見つめた。

 

 この人は……誰なの?

 

 いつも優しい笑顔や眼差しで見てくれた人。

 とても強いけど、時々夢見がちでちょっとおっちょこちょいな所もある人。

 でも……いつも私の味方で優しく暖かく包んでくれた……


 目の前の人は……誰? こんな人、知らない……


 気がつくと私はへたり込んだまま後ずさりしていた。

 頬が……痛い。

 

「なぜ逃げるのです? 死にたいのでしょう」


 その言葉に私はハッと我に返った。

 そうだ……このまま生きてたって、私は災いしか……迷惑しか生まない。

 そうだよ。

 勇気を出して、自分のお片付け……しなきゃ。

 私はガチガチと鳴る自分の歯の音に焦りながら頷いた。


「そう……だよ。だから、邪魔し……ないで。せっかく勇気……出してた、のに」


 そう言うとアンナさんはフッと短く笑った。


「勇気? それが? あなたの行き着いた『勇気』ってそれ? 私たちが憧れ、追いかけていたリム・ヤマモトの『勇気』って、そんなゴミだったのですね」


「……あなたに何がわかるの? 私、あなた達と同じ人間じゃないの! 万物の石だったんだよ! 悪い病気をもたらし、色んな人を惑わせた。おじいちゃんだってコルバーニさんだって、ライムだってみんなそのせいで運命が狂っちゃった。私が生きてる限り、何も生み出さない……迷惑ばっかなの!!」


「で? それがどうしたの。あなたはどうしたいの?」


「え……」


「私はヤマモトさんのが聞きたかった。でももういいです、話すだけ無駄ですね」


 そう言うとアンナさんは私に近づくと、あっという間に荷物のように抱え上げた。

 

「はな……して。やだ……」


 精一杯の抗議にも全く反応せず、アンナさんはそのままさっきの手すりに近づき……私の身体を手すりの向こう……漆黒の海面に乗り出すような状態で止めた。


「……!」


 全身が総毛立ち、胃が丸ごとせり上がる感触と共に、下を向いた私の目の前に漆黒の海面が迫っていた。

 なに……この……広いし……暗い。

 こんなに……真っ暗なの?

 その暗闇の合間に生物の立てているであろう「ちゃぷ」と言う不気味な音が聞こえる。

 

 あの音……何?


 その時、自分の身体がアンナさんの両手のみで空中に留まっているのを実感し、感じたことの無い恐怖が湧き上がって来た。

 

「海の生き物は元気ですね。もうすぐ手に入るであろう獲物の匂い……さっそく感じたみたいですよ」


 アンナさんの冷ややかな声に私は血の気が引くのを感じた。

 

「さて、後はあなた待ちです。何でもいいので合図をもらえればこの手を離します。それでお望み通り……死ねますよ」


 そうだ……やらなきゃ……私。

 だって……みんな……めいわ……く。

 言うんだ……いう……ゆう……き。


「あ、そうそう。餞別にあなたのこれからの運命を教えてあげます。今、向こうの海面に見えている背びれはヘル・フィッシュ。体長5メートルの肉食魚。奴らは賢いので、娯楽と言う概念を持ちます。獲物をすぐには殺しません。海面で死なない程度に何度も噛みつき、投げ飛ばして遊ぶんですよ」 


「や……め、て」


「でも安心してください。奴らは獲物を決して逃さないので、長くいたぶられた後ではありますが、確実に死ぬことが出来ます。骨も残さず。しかも……確認できる限り3匹はいます。しばらく奴らのボール代わりを我慢すれば、うっかり生き残る事はないでしょう。良かったですね」


 私はすでに声も出なかった。

 歯がどうかなるんじゃないかと思うくらい激しく音を立て、涙も止まらない。自分の股の間から生暖かい物が流れ出したのも分かった。

 気がついたら、アンナさんの腕を爪が食い込むくらい握り締めていた。

 

 海面が……海が……近い……

 なに……これ?

 こんな暗いの……やだ。


「声が出ないですか? 私にかかってるのは……失禁ですか。死にたがってるのに不思議。仕方ないですね。元、従者の最後の慈悲で今から10数えたら投げ落とします」


 え……じゅう……

 私は思わずアンナさんを見た。

 だけど、暗闇のせいで表情が見えない。

 

「いち、に、さん……」


 わたし……いきてちゃ……だめ。

 いき……てちゃ。

 海……暗いよ。

 ボール代わり……何、それ?

 でも……めいわく……やだ……でも、すぐ……死ねない……の?

 いた……いの? ずっと……くるし……いの?


 やだ……いや……だ。


「ろく、なな、はち……」


 その時。

 私の目の前の漆黒がゆらり、と揺れてサメのような何かの鼻先が見えた。

 その瞬間、私は自分の物とは思えない声で泣き叫んだ。


「助けて! 死にたくない! やだよ! やだ……助けて! 死にたくない! いやだ!」


 その時。

 目の前の景色がぐるり、と大きく回って私は甲板に投げ落とされた。

 

「あ……あ」


 私はそのまま床にへたり込むと、流れ続ける失禁にも構わず子供のように声を上げて泣きじゃくった。

 

 たす……かった。

 

 暗い海面と怖い魚から介抱されて泣きながら安堵に浸ってると、アンナさんが床の失禁の汚れにも構わず座り込んだ。

 腕の服は私がさっきギュッと掴んでいたため破れていて、むき出しの両腕からは血が流れていた。

 私と目線を合わせたその瞳は……冷たく暗く……そして、とても悲しそうだった。


「あれが死です。死ぬと言うことはああいう事です。美しくも雄々しくも気高くもない。ただ痛みと血に塗れ、迫る恐怖に醜く泣き叫び、最後は物言わぬ、臓器と血の詰まった袋となる。死体はそのうち虫が湧く。生きてる者からは忘れ去られる。死ぬ間際は、どんな英雄も賢者も王も等しく恐怖に支配され、醜く暗黒に落ちる。あの海のような。……まだ死にたいですか?」


「や……だ。いや……だ」


「なら生きなさい。死にたくなくば生きるのみ。生きる事の意味。それは死なないための一生をかけた足掻き。日々の命を鷲掴みにするための積み重ね。勇気とはそのための道しるべです。……生きる事って綺麗じゃなくていいんです。死にたくないからただ生にしがみつく。今日、生きる事ができた。明日も生きていたい……あなたが愛する者のため。あなたを愛し、信じている者たちのため。そのため這いずっても生きる。それも……勇気なんじゃないですか」


 そう言うと、アンナさんは静かに立ち上がり私に背を向けた。

 そして、船室の入り口に向かって言った。


「クロノ、ライム。後は任せた。私はもう……ヤマモトさんを支える資格は……ない」


 その言葉は途中から酷く震えているように感じた。

 でも、私は立ち上がることも声を出すことも出来ず、ただ驚いた表情でこっちに来るクロノさんとライムを見ることしか出来なかった。

 

 そして……歩いて行くアンナさんの背中を見ている事しか……

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