再生:対話



「あれ?久しぶり?」

「は?」


前後がよく思い出せないが、気が付くとなぜかわたしは白い空間にいて、しかもなぜかそこには死んだはずの兄がいた。


もうずっと見られなかった、ミルクティーのような兄。

いつもどおり、柔らかく微笑んでいる。


真っ白だけど、足元はしっかりしていて、兄のところまでまっすぐ行けた。


そして目の前まで来ると、兄は桜の木の下に座っていることに気が付いた。

なぜか、桜の木と話している。それも楽し気に。兄らしいけど謎だ。


「ね?だからもういいと思うんだよ」

「何話してるの?」

「ん~?なんていうか……世間話?」

「なんで疑問形……というかここ何?夢?」


兄の意識はこっちに向いているのに、どうしても木と話したいようだ。


「いいじゃん、もうさ。僕って結構面白いでしょ?」


木は返事なんてしないのに、兄はうんうんと頷いている。

ところどころ訂正や否定もしている。なんなんだ、これは。


「僕だけでいいと思うけどなぁ」


静寂。


「妹はやめてくれない?」


静寂。


「ほら、僕の分も楽しんでもらわなきゃだし彼女との接点もほしいし伝えてほしいこともあるし……」


静寂。


「言いたいこともわかるよ?そうなるようにされちゃったんだもんね」


静寂。


「だからってそれはよくないって言ってるじゃん?」


わたしが係わっていることは確かだろうが、話が見えない。

でも、いつもの、まだ忘却の予兆もなかったころの兄だ。最後の日のような。


「僕ならずっといてあげるし、もういいんじゃない?」


なんだか木を説得しているようにも見える。


「桜守はもういいよね?」


静寂。


「僕らの時は止まったままだけど、それでも外には時間ってやつがあるんだよ」


静寂。


「だからほら、もうやめよう?」


怒ることなく、でも根気強く。


「こんなこと続けたって意味がないのはわかるでしょ?なら楽しい方がいいじゃん」


静寂。


「おじいちゃんもここにはとどまらなかったし、きっとこれからだって僕しかいないよ?」


静寂。


「僕ならきみが終わるまでいてあげるし」


静寂。


「だから、ほら――」


やっと、琥珀色の瞳がわたしを映す。


「妹は諦めてくれる?」


兄が腰を上げ、こちらに歩いてくる。


「大きくなったね」

「ねえ、これって夢?」

「夢って言いたいところだけど、こんなに頑張ったからそうは言えないな」

「ここ何?木と何を話してたの?木ってしゃべるの?」


兄はわたしをまっすぐ見つめている。

なぜか喉が変に鳴ってしまう。しゃっくりだろうか。


「お父さんやお母さんにも色々言いたいけど、それは誰かが言ってくれるから」


別れの予兆に、また喉が鳴る。うまくしゃべることができない。


「彼女に、伝えてほしいことがあるんだ」

「……やだ」


兄の顔が歪んで、やっとわたしはわたしが泣いていることに気が付いた。


「ずっとここにいる、ずっと、ずっと、さみしかった」

「わかってたよ」

「わたしもね、忘れてくの。だんだん、なんでも、忘れてることも忘れちゃうの」

「うん。でも、もう大丈夫だから」


大丈夫?ぜんぜん大丈夫なんかじゃないのに。わたしだけじゃない。お母さんだって、お父さんだって、お姉さんだって、ずっとずっとさみしくて悲しかったのに。


「前に僕が言ったこと憶えてる?」

「……なんだっけ」

「もし忘れていくことになったら僕が何とかしてあげるよって言ったでしょ?」

「そうだった……そうだけど、でも」

「頑張るって言ったでしょ?ほんとに頑張ったんだから!」


死んだ人の顔じゃない。ここにいてほんとに笑ってるのに。


「ほら、そろそろ起きないとだからちゃんと聞いてね」

「……起きたくない」


だって、これがやっぱり夢だってことになってしまうもの。


今度こそもう会えなくなる気がするんだ。


夢でさえ会えなくなっちゃう気がするんだ。


「ちゃんと見てるから」

「……かえってきて」

「それは頑張っても無理だなぁ」

「おねえさんも、ずっとさみしいんだよ」

「うん、だから迷ってたんだけど……それでも伝えてくれる?彼女のことが本当に本当に、大好きで大切なんだって」


だめなんだな。夢の壊れる音がする。世界が遠くなる音がする。


「ちゃんと、伝える……忘れたりしない」

「頼んだ!それから……」


頭を撫でられる感触に涙がまた落ちた。これが夢だなんて、信じたくない。


「好きなものは好きだって、好きな人には好きだって、ちゃんと伝えること」

「……わかった」

「大丈夫。きっと全部覚えてるから」

「お兄ちゃん!大好きだ!」


ちょっとだけさみしそうに兄が笑う。


嵐のような耳鳴りがして、真っ白な光がわたしを包んだ。



「あ……起きた!?良かった、ほんとに……あなたまでいなくなったら私、どうしたらいいかわからなかった……!!」


目の前でお姉さんが泣いていた。


起き上がってみるとそこは保健室だった部屋で、やっと状況を理解した。


さっきのことは夢のように遠ざかることはなく、連続した記憶としてここにあった。

ぼんやりとした頭で、それでも言葉を紡ぐ。


「……わたし、お姉さんのこと大好きだよ」

「うん、うん……」

「兄も、兄はもっと、本当に本当に、大好きで大切なんだって言ってた」

「私も、彼のこと、大好きよ……世界で一番大事な人だもの」


お姉さんは、親に連絡してくると言って部屋を出ていった。

部屋の中を見回してみると、窓際にあいつが立ち尽くしているのが見えた。


「憶えてる……?」


声が掠れている。相当心配させてしまったようだ。

わたしは少し頭が痛むだけなのに、ずいぶん周りに迷惑をかけてしまった。


「あの桜の寄生虫に対するアレルギー反応が健忘の原因かもしれないってきいて……わたしがそれをつぶしに行こうとして……木からおちた」


ものすごくまぬけだ。

なんてまぬけなんだ、わたしは。


かもしれない、であれだけおばあちゃんが大好きだった桜を伐ろうだなんて。


「なんで寄生虫が原因かもしれないのに近くに行こうとするんだよ!!」


こんなに怒ってる顔なんて、初めて見たかもしれない。


「だって……お前もずっと、あの桜の近くにいたから」

「え?」

「お前は、自分が忘れてること……気づいてないから」


目の前の顔が歪む。


「わたしと過ごしたのがどのくらいか、言えるか……?」

「……あ、れ?」

「お前はまあいいかってタイプだから、気にもしなかっただろ」

「だって、そんな昔のことなんて憶えて、ない……あれ?いつだっけ?僕は君と何回夏を迎えたっけ……?」


目がぐるぐると回っている。

追い打ちをかけるようで悪いけど、さすがに気づいてもらわなくちゃなんない。


「なあ、わたしの名前を呼んでみてくれないか?」


静寂。


この部屋の時計が止まっている今、何の音もしない。

二人して固まっているだけ。


目の前のこいつは焦って。

わたしはこいつを待って。


「名前……、名前、なんだっけ……」

「……だから言ったろ」


忘却の悲しみを、わたしもこいつも味わってきて。

もういいじゃないか。

許されたっていいじゃないか。


いつか桜に狂わされた誰かも。

いつか誰かを狂わせた桜も。


そして、わたしたちも。


「出席をとります」

「あ……」


最初の出会いの続きをしよう。

さいしょからひとつずつ拾っていこう。

拾い上げて、大切に磨いていこう。


「僕は……羽川、流」

「わたしの名前は桜守、芳乃だ」


よしの、よしの……と繰り返される。何度も何度も確かめるように。


わたしも同じように繰り返す。


「ながれ、ながれ……こんな名前だったか?」

「なんだよそれ……君だってヨシノなんて名前だったっけ?」

「ながれ、ながれ……」


だって、名前を呼ぶ必要なんてないくらい、わたしの傍には流しかいなかった。なんとでも呼びかければ、必ず流が応えたのだ。


「ながれ」

「そんな何度も呼ばなくていいよ……」

「ながれ」

「なにさ」

「好きだ」

「…………は?」


思ったより気恥ずかしくもない。むしろ、ずっと言いたかったような気さえしてくる。記憶や忘却も混乱もなく、兄の笑顔が浮かぶ。


「流が好きなんだ。ここに永久就職しないか?5さばとは言わん」

「いやだからそれは単位じゃないって……あ、え?」

「記憶ってな、完全になくなってしまうわけじゃないんだな。何重もの扉で隠されはしても、見つけられないわけじゃない」

「そんなの……それなら僕だって言いたかったよ」

「なんて?」

「……言わなくてもわかるだろこの流れ……」

「好きなものは好きって言わないと、後悔するんだ」


兄やお姉さんのあんなに悲しい顔を、もう誰にもさせたくない。


「……君が好きだよ、芳乃」

「うれしいな。じゃあ永久就職もしてくれるか?」

「それは雇用なのか別の意味なのか分からないな」


さっきの仕返しなのか、赤い顔のままあれこれ文句を言っている。


「流、結婚しよう」

「君ってほんとに大胆だよなぁ!!こうして一緒に歩いていけるのなんて僕くらいだと思うな……」

「答えは?」

「……いいよ、この健忘がなんとかなったら……というかこれ忘れないでよ」

「お互いにな」

「そしたら……結婚しよう」


きっと、忘却のさなかにあっても、この約束だけは忘れないと思う。


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