花火



夏。


「絵を描かなくなった後に絶望したのは、絵が描けなくなったからじゃない」


その日彼女は廃校のすぐ近くにある清流へ絵を描きに来ていた。彼女には違うものが見えているのか、夜空に花火の上がるこの場所を描いている。


ただ、いまは真昼間で花火の一片もない。


僕といえば、丸い平らな石をひたすら探して清流へ投げ込むということを繰り返していた。彼女も特に怒りもしない。


「じゃあ、なにが原因だったの?」


彼女が、全体を見るように片眉を上げる。


「描かなくても生きていけるんだって知ったことだな」


夜空と花火を描くのに、そんなに絵の具を使うのだろうか。使われずに洗われる色だってあるのではないだろうか。まあ、僕は絵を描かないから知らないけど。


「それまで『これがなくちゃ生きていけない』と思ってたものは、なくても案外平気で生きていけるんだ。しかも、結構楽しい。そんな自分に驚いたのと同時に、それがわかってしまったのが死ぬほどショックだったんだ」

「僕はそんな大事なものなかったからなぁ……」

「大事なものは、大事だと思い込んでたものってだけだったんだ」


首を傾げた彼女に、花火がひとつ、削ぎ取られていく。


迷い迷って、やっぱり言う事にした。


「でもさ、どれだけ大事でも死にさえしなければ生きていけるんだよ…………お兄さんは、確かに大事でしょう?」

「そりゃあ大事だ!……でも、趣味……と、家族じゃ違うと思うんだよ」

「そういうのは生き甲斐って言うんだと思うけど」

「なくても生きてるけどいいのか?」

「いいんだよ。僕にもないし……いや、今はあるのか……?」

「私に訊かれても」


またひとつ花火が咲く。心なしか、さっき削いだ花火よりも綺麗だ。


「君の一面のために、君すべてが死ぬことはないんだよ」


上手くは言えないけど。


どれだけ大事であったとしても、彼女が絵を描くことは彼女の一面にしか過ぎなくて、そのためだけに彼女の他すべての面が殺されてはいけない気がしたのだ。


そんなものなくたって生きていけるんだ。


人は、忘れるから。


どれだけ強く刻み付けたことも、絶対的な時の前では成す術がない。


どれだけ綺麗に咲いた花火も、数舜後には世界のどこにもなくなる。


どれだけ想った人でも、いつか思い出しもしなくなる。


忘れたくないという気持ちに逆らって。


「僕は君のこと、忘れたくないな」


拾われなくてもいい。この風や清流に流されてしまってもいいと思った。


「じゃあ、いつか自画像をくれてやる。捨てる気も起こらんようなやつをな」


僕はきっと忘れないし、自画像だって捨てないだろう。


僕は、少し強がったのだ。忘れるのは自分だと。本当は。


彼女に、忘れられたくない。


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