ゆめのゆめ



今日は、部屋に入ってからというもの、僕は彼女の後姿しか見ていない。

彼女は描かないはずの絵を描いていた。彼女はいつものように喋り続ける。


「たまに、このまま落ちて暗いところに沈んでいってしまうんじゃないかという感覚に陥るんだ。きっとそれは、死に等しい。体は生きていて、それでも多分、わたしという人間はこの世から消えて、いなくなる。いつか、お前が見ているわたしが、わたしじゃなくなる日が来るだろう。それでも、そうなったら、お前は違いに気がつくだろうか。そうなっても、わたしの近くに、いるのだろうか」


僕は、顔を上げる。読んでいた本の内容は頭に入っていなかった。

いつになく、おそらく出会ってから初めて、こんなに饒舌な彼女を見た。

拭いきれない違和感と不安が僕を襲う。


立ち上がって、彼女を見つめる。

前と同じ光。夏の日差しに、白いカーテンが大きく揺れ、眩しさと風が部屋を満たす。それは、夏の景色の筈なのに、冷たさを感じた。

一度も顔を見せない彼女と、彼女らしくない言動のせいだろうか。


彼女が動いた。ゆっくりゆっくり、こちらを振り返ろうとしている。



もしこれが彼女じゃなかったら?



振り返っていつもの彼女だと安心させてほしい。

でも、振り返らないでほしい。

もし僕の知らない、彼女の顔をした何か、がいたら、僕は。


無言で半分ほど振り返った状態で、彼女が言葉を発した。


「わたしは、いまたくさんのことを忘れてきている」


止まった。


空気が粘度の高い液体に感じられて、息がし辛かった。

急に、暑さが戻ってきたかのように、汗が吹き出してきた。


「わたしは、だれだ」


世界の全てが暗転した。



「何だお前は急に!頭突きでもかますつもりだったのか!?さては寝たフリだったんだな!?」


何故か慌てて怒っている、いつもの彼女が目の前にいた。


「なんだ無視か?この暑いのに突っ伏して居眠りするからそんなうなされるんだ!起こそうとしたわたしが馬鹿だった!!」


えらくお怒りの彼女に、僕は呆然とする。

あれは夢だったのだろうか?あんなに、リアルな……

恐らく青ざめている僕を、彼女が心配していた。


「な、何だ、具合が悪かったのか?かき氷食べるか?」


体調が悪いと勘違いした彼女がいそいそと部屋の隅の冷蔵庫に向かう。

同じく部屋の隅の棚に置かれたかき氷機で氷をガリガリやっている。


漸く落ち着いてきた僕に、夢と言えば、と彼女は氷をかきながら話しかける。


「夢から覚めたと思っていたら、まだここは夢の中だった。って経験、したことないか?」


それはいつも通りの彼女の他愛ない話だったのに、今日の僕は、いつまで経っても、いつまでも、それに何も返すことが出来ないでいた。


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