幻想:Stigma
右手には、はさみがあった。
左手には、何もないまま拳が握られていた。
震えている左手は、いやに静かな右手を振り下ろされて、黙った。
痛くない。痛くない。いつまで経っても痛みが襲ってこない。どうしよう、僕は、おかしくなってしまったのだろうか。
傷の深さにはとても合わない、赤い湖ができた。
広がったと思ったらいきなりどぶんと落ちてしまった。
赤い湖は、中から見るとひどく澄んでいた。
右手には泡が、左手には涙があった。
湖面から顔を出すと、無数の小瓶が浮いていた。近い物を手に取って中身を見ると、僕の家族の写真があった。
他の瓶を開けてみても、中には『僕の記憶』が確かにあった。
なるほど。こうして記憶を物質化できたら僕みたいな事になっても困らないわけだ。
僕は泳ぎが上手くない。いつの間にか辺りは赤い湖だけになり、青かった空も赤く染まっていた。遠くに何かが見えたので頑張って行ってみた。
ここからなら岸に上がれそうだ。
そこには、桜の木と扉しかなかった。
扉は桜の木に飲み込まれるように生えている。
僕の目の高さに文字が書かれていた。
『ここを開けると、君はここからかえることが出来るが、二度と帰ることは出来ない』
よく分からないし早く帰りたかったので扉を開けた―――というところで目が覚めた。どうやら全て夢だったようだ。夢。夢。今はどんな夢を見ていたんだっけ。
記憶の小瓶、確かそんなものが出てきた。
最近の僕はいろいろと忘れてしまうことが多い。なるほど、記憶を液体や固形物にしてしまえば僕はこの喪失から解放されるのに。
なんて。我ながら馬鹿なことをと思いながら、朝食を摂るために家族のいる一階へと降りて行った。
左手に残る痣には気付かないまま。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます