プリズム
私はその日、最後に兄さんと会話した日の事を思い出していた。
◆
今日は調子が良いんだと笑う兄に、言い様の無い不安を覚えた。
笑った顔を見たのが久々だったのに、何か予感めいたものを感じていたのかもしれない。
実際、これが最後だった。
「ねえ、もしも大事なことを忘れる日が来たら、どうする?」
「兄さんみたいに?」
もう覚えてることの方が少ない兄だったが、その日は違っていた。
いつもの笑顔に、いつもの雰囲気。
何一つ、忘れていなかった頃の兄。
「病気じゃないとしても、いつ誰に起こるか分からない。いや、病気じゃないからこそかもしれない」
私が、大事なことを忘れる日が来たら。
「……忘れたことすら忘れるかもしれない」
「そうか。そうだね……そうだ、もし忘れていくことになったら僕が何とかしてあげるよ」
胸をドンッと叩くがなんだか説得力が無い。
「何とか出来るならまず自分を何とかしなよ」
「いや、きっと僕は僕をどうにも出来ないよ」
「なのに私は何とか出来るの?」
「そうだよ!僕頑張っちゃうから!」
「ははは、じゃあお願いしようかな」
「任せといて!」
そうして兄は彼女に会うと出掛けて行き、帰らぬ人となった。
◆
どうして今こんなことを思い出すんだろう。
気まぐれで再び描き始めた絵を見下ろす。
水に反射して光り輝くさかなの絵。
もう描かないと思っていた絵だけど、友達のお母さんが来た時に絵の道具をくれたので描いてみた。
板で打ちつけてしまった部屋はあのままだけど。
あの部屋に眠る絵や全ての物の時は止まったままだろうか。
いつ開けられるだろうか。今はまだ怖いけれど。
入り込んだ夏の日差しは、私の目へと。希望を受けてきらりと光る。
そろそろあいつが来るだろう。
無意識に微笑んでいる自分に対して苦笑しながら、たまには冷えたジュースでも出してやるかと描きかけの絵を片付け始めた。
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