プリズム



私はその日、最後に兄さんと会話した日の事を思い出していた。



今日は調子が良いんだと笑う兄に、言い様の無い不安を覚えた。

笑った顔を見たのが久々だったのに、何か予感めいたものを感じていたのかもしれない。

実際、これが最後だった。


「ねえ、もしも大事なことを忘れる日が来たら、どうする?」

「兄さんみたいに?」


もう覚えてることの方が少ない兄だったが、その日は違っていた。

いつもの笑顔に、いつもの雰囲気。

何一つ、忘れていなかった頃の兄。


「病気じゃないとしても、いつ誰に起こるか分からない。いや、病気じゃないからこそかもしれない」


私が、大事なことを忘れる日が来たら。


「……忘れたことすら忘れるかもしれない」

「そうか。そうだね……そうだ、もし忘れていくことになったら僕が何とかしてあげるよ」


胸をドンッと叩くがなんだか説得力が無い。


「何とか出来るならまず自分を何とかしなよ」

「いや、きっと僕は僕をどうにも出来ないよ」

「なのに私は何とか出来るの?」

「そうだよ!僕頑張っちゃうから!」

「ははは、じゃあお願いしようかな」

「任せといて!」


そうして兄は彼女に会うと出掛けて行き、帰らぬ人となった。



どうして今こんなことを思い出すんだろう。


気まぐれで再び描き始めた絵を見下ろす。

水に反射して光り輝くさかなの絵。


もう描かないと思っていた絵だけど、友達のお母さんが来た時に絵の道具をくれたので描いてみた。


板で打ちつけてしまった部屋はあのままだけど。

あの部屋に眠る絵や全ての物の時は止まったままだろうか。


いつ開けられるだろうか。今はまだ怖いけれど。


入り込んだ夏の日差しは、私の目へと。希望を受けてきらりと光る。


そろそろあいつが来るだろう。


無意識に微笑んでいる自分に対して苦笑しながら、たまには冷えたジュースでも出してやるかと描きかけの絵を片付け始めた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る