半壊
彼女は絵を描いていた。
◆
いつものように彼女の持ち物である廃校となった施設の一室に入ると、見たことのない表情をした彼女がいた。
夏の午後一時、強い日差しを反射してはためく白いカーテンと、彼女の長い髪を揺らす風。
その横顔は柔らかく微笑んでいて、いつもの無愛想な顔はどこにもなかった。
彼女は絵を描いていた。
ただそれだけだった。いつかちらりと見た光景を思い出す。
板で打ちつけられた教室、隙間から垣間見えた暗闇の中の、あれは良く考えたらアトリエだったのかもしれない。
綺麗なものが集められた、閉鎖した空間。
あの部屋の板はそのままだったが、道具は新しいものなのだろうか。
僕が教室に足を踏み入れると、こちらに気付いた彼女が夏の日差しを纏って振り向く。
「おかえり」
微笑んだままそう言われて、ここへ来てお帰りなんて言われるのは初めてだと気付く。
一日の大半はここにいるから第二の家であるとも言える。
「…………ただ、いま?」
彼女は満足そうに笑うと、また絵に向き直る。
彼女の過去を少し聞いたことがあるが、もう、到底絵を描くなんて思えなかった。
そしてふと、彼女から聞いた、彼女のお兄さんの事を思い出していた。
『病気じゃないのに、だんだん、忘れていくんだ』
そんなはずはない、と願いながら。
「……ねえ、板を打ちつけてある部屋は、何があるの?」
暑さのせいではない汗が、場違いな冷たさを伝えながら背中を流れていった。
最悪な想像が、止まらない。彼女の顔が直視できない。
そして。
「さあ?あ、そうだ、これが出来てから開けてみようか」
ちょっと待ってて。そう言って笑う彼女が滲んで見えた気がして、体温が一気に冷えた気がして。
血の気が引く、って、こういうことかと。急に吐き気がしてきて、冷や汗が増す。
「ごめん、ちょっと、トイレ」
「おー行ってこい行ってこい」
彼女はまた絵を描く作業に戻る。
まさか。そんなはずはない。病気じゃないって言ってたし、そんなことがあるわけが。
『だんだん忘れていくんだ』
『自分のことも忘れていく』
彼女が言っていたことが頭を回る。冷えがおさまらなくてしゃがみ込んで身体を抱え込む。
それが、いつものたちの悪い冗談であることを願いながら。
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