第三話 嫁入りの話と、トアとの出会い。

 トアに結婚相手のことを聞かれて、ラピスは胸が苦しくなった。

 ラピスは胸に手を当てて、まぶたを閉じ、深呼吸をする。


「話せないような相手なのか?」


 トアの声が怖い。ラピスは泣きそうになる。

 泣くなと自分に命じて瞼を開けた後、ラピスは胸から手を離し、トアに視線を向けた。


「悪い方ではないのよ。きっと」

「なら、どうしてそんなに辛そうなんだ?」

「気のせいよ。わたくしの結婚相手はね、伯爵はくしゃく家の方なの。私もだけどね」


 ラピスは無理やり笑って見せたが、トアは何も言わない。

 彼の気配が恐ろしい。こんなトアは初めてだ。


 トアと初めて会った時、彼は人間の男の子達に石を投げられたのに反撃しなかった。

 石がトアに当たったわけではないのだけれど、あの猫が本当に魔物ならやり返したはずって、ラピスはそう思ってた。


 だから、トアと再会して、人語を話すことに驚いた後に聞いたのだ。


 何故、やり返さなかったのかと。


 その時のトアは、人の子を傷つけると面倒なことになると話していた。

 彼が幼かった頃、石を投げてきた人間の子供にケガをさせたら、人間の大人達が武器を持って集まり、関係のない普通の黒猫まで狩りの対象になったとか――。


「俺は、結婚相手のことを聞いたのだが」


 低い声にゾクリとする。ラピスは緊張で強張る口を開いた。


「私の結婚相手はね、二十五歳なの。一般的には、結婚してから家督かとくを継ぐのだけれど、彼はもう継いでるの。彼はね、女嫌いだと言われているの。母親が厳しかったらしくて、彼も昔から女性に厳しいというか……。女の人がお菓子を食べたり、お洒落しゃれを楽しむと、すごく不機嫌になる方だって話だったわ。そのせいか、婚約していた相手が、結婚式の前日だったかしら? 庭師の男性と駆け落ちしちゃったの。それで、社交の場にしばらく出てこなくなって、噂の的だったわ。噂では、女嫌いが加速してるって話よ」


「話したことはあるのか?」


「……昔、パーティーで、お会いしたことならあるのだけれど、その時のことはよく覚えていないの。挨拶はしたと思うわよ。それでね、私の嫁入りの話だけど、持参金じさんきんはいらないらしいの。あと、嫁入り道具も少なめでいいんですって。家具とかはあるからって。今は、どの服や装身具そうしんぐを持って行くか考えているところなの。今月中に屋敷を出る予定よ。本も持って行きたいけど、どうかしらね? 本好きな方なら、私の趣味を理解してくださると思うのだけれど……」


 ラピスの持ち物は姉のお下がりや、誕生日などのお祝いに頂いた物が多い。ワンピースや寝間着など、侍女に頼んで手に入れた物もあるけれど。


 姉は流行り物が好きだがすぐに飽きるので、彼女の侍女がいろいろと持ってきてくれるのだ。

 自分のお下がりを欲しがる知り合いなどいないので、ラピスはいらないと思った物を孤児院に寄贈きぞうしている。


 旦那様になる方に本など捨てろと言われたら、孤児院か図書館にでも寄贈しなくてはと、ラピスは思う。


「お前が好きなことは他にもあるだろうが。薔薇バラを育てたり、菓子を作ったり。それはいいのか?」


「他の花や果樹も育ててるわ。貴方も食べたことあるでしょう? でも、嫁ぎ先ではできないの。厳しい方みたいだし、我儘ワガママを言ってはダメなのよ。私が裏庭で、花や果樹を育てる楽しさを知ることができたのはね、トアのおかげなの」


「俺の?」


「昔、トアがね、薔薇やお菓子を食べるのが好きだって言ったの。だから私、屋敷の裏庭の一角を借りて、薔薇を育てたいと思ったのよ」


 庭師達は、ラピスが雇い主の娘だからなのか、とても優しく教えてくれた。

 魔力量が少なくても、魔法で植物に水やりをするくらいはできるので楽しいし、好きだ。


 薔薇について書かれた本を借りるために、侍女と護衛と共に馬車に乗って図書館に行った。そこで、たくさんの本と出会うことができた。

 そして、他の花や果樹を育てることになった。


 トアは薔薇以外の花も果物も食べる。


 ラピスは花や果樹を育てるのが好きで、自分が育てた花や果物をトアが食べる様子を眺めるのも好きだった。

 植物を育て、お菓子を作るので、姉に平民みたいだと笑われたが、ラピスは何を言われても、やりたいことをやることを選んだ。 


 ラピスは料理人達が忙しくない時間に、厨房ちゅうぼうを使わせてもらった。

 料理人達は嫌そうな顔もせずにラピスの自由にさせてくれたし、ラピスが困っていると分かりやすく教えてくれた。

 両親には何も言われなかったけど、あの頃にはすでに、必要最低限の会話しかしない関係だった。 


 ラピスは次女だし、魔力量も少ない。だから、期待されていなかったのだと思う。 

 期待されないのは楽で自由だと、今では思う。しかし、幼い頃は寂しかった。


 七歳の時、魔力量が少ないことが分かったラピスは、家族や、それ以外の貴族達の反応や言葉に傷つき、孤独を感じた。

 夜、一人になると涙がこぼれた。


 トアと出会ったのは、ラピスが八歳の夏だった。


 ラピスは父方の祖父母が暮らすお屋敷に、母と姉と一緒に訪れた。  

 そして、姉と従兄弟達と共に、祖父母の屋敷裏に広がる森に行くことになった。


 森に子供だけで行ったらいけないのだけれど、従兄弟の一人が、虹色の石がたくさんある泉を見つけたと言ったので、姉が興味を示したのだ。  

 ラピスは大人と一緒にいたくなかったので、姉のそばにいた。


 大人に告げ口すると思われたのかもしれないが、姉に名前を呼ばれたため、ラピスは皆と森に向かった。  

 森は明るくて、美しかった。


 初めて見る植物や、美しい小鳥の姿に感動しながら、ラピスは皆について行った。   

 すると、泉が見えた。


 泉のほとりに、一匹の黒猫がいた。  

 葡萄酒ぶどうしゅ色の目をした猫を見たのは初めてだった。

 ラピスはその瞳を見て心が震えた。綺麗だと思った。


 だから、姉が『なにあの目、気味が悪い』と呟くのを聞いて、驚いた。


 次の瞬間、従兄弟の一人が、『出たなっ! 魔物っ!』と叫び、黒猫に向かって石を投げた。

 黒猫が素早く動き、石を避けた。


 他の従兄弟達も黒猫に向かって石を投げ始めたので、ラピスは助けなきゃと思い、『ダメッ!』と叫びながら、黒猫に駆け寄った。そうしたら、自分に石が当たったが、それでも構わなかった。


『この子は魔物じゃないっ! 普通の猫よっ! 夜じゃないのに魔物がいるわけないでしょ!?』


 そう叫んだと思う。


 あの時のラピスは、美しい黒猫を守ることだけを考えていた。

 本当は、猫が普通の猫だろうが、魔物だろうがどうでもよかった。


 黒猫は、ラピスに向かって甘えるような声で鳴き、走ってその場を去った。

 その後、興奮こうふんした姉にすごく怒られたことを覚えてる。


「考えごとか?」


 トアの声が近くで聞こえて、ラピスはドキッとした。

 恐る恐る目を向ければ、先程よりも近くに彼がいる。


「……ごめんなさい。トアと、初めて出会った時のことを思い出してたの」


「初めてお前と会ったのは、森だったな。お前は俺を守ろうとした」


「そうね。とても美しいと思ったの。だから、男の子達に傷つけられるのなんて見たくなかった」


「あの後、お前の匂いをたどって屋敷に行き、夜、お前が一人になるのを待って、話しかけた」


「ええ。あの時は驚いたわ。寝ようとしたら、森で出会った黒猫が現れるんだもの」


 うふふとラピスは笑い、話を続ける。


「トアはね、私の話を静かに聞いてくれたし、とても話しやすかったの。私が泣いても怒らないし、貴方の前では、とても楽な自分でいられたのよ。魔物なのにね。人間と一緒にいる時よりも安心したの」


「そうか。それなら俺の嫁になればいい」


「――えっ?」

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