第二話 黒猫の魔物トアは、魔の森の王。

 そこには、一匹の黒猫。

 葡萄酒ぶどうしゅ色の双眸そうぼうが、ギラリと光る。


「トア」


 ラピスは彼の名を呼び、ふわりと笑う。

 この猫は魔物なので、ドアや窓が閉まっていても現れる。

 しかも、人々が恐れる魔の森の王で、美しい湖が見下ろせる城に住んでいるという話だ。


 そんな彼が、どうして自分に会いに来るのかは分からない。

 昔、尋ねてみたら、匂いが気に入っていると言われた。


 食べるのかと聞いたら、人間は食べないと教えてくれた。

 人間の血や肉を好む魔物もいるようだが、トアは違うようだ。


 トアの匂いがついてるようで、ラピスには鳥も猫も栗鼠リスも近づかない。

 馬車に乗ることはできるけど、馬が怯えるので触れないのだ。


 姉の婚約者や、その家族もだけど、ラピスがトアと出会い、近い距離で話すようになるまでは優しかった人達もいたので、トアの存在を無意識に感じている人間もいるのだと思う。


「珍しいな。酒の匂いがする。何があった?」


 彼は魔物で、魔の森の王だが、とても優しい。

 トアが王だと知った時、ラピスは敬語で話そうとしたのだが、苦手なら無理するなと言ってくれた。


「お姉様が、来月結婚するのは前に言ったわよね」

「聞いた。あの童顔、今年成人するんだったな」


 姉の婚約者の顔が、頭に浮かぶ。


 金の髪と、青い瞳の男の子。可愛らしい顔立ちで、背が低いので、年上の女性に人気がある。彼は伯爵はくしゃく家の三男で、魔力量が多い。


 彼はラピス以外には笑顔なのだけど、姉のことは特別にしたっている気がする。姉にも可愛がられているし、仲の良い夫婦になるだろう。


 うらやましいとは思うが、ラピスは姉にはなれない。違う人間なのだ。


 彼女が輝く太陽なら、自分は月だと、ラピスは思う。

 神秘的な満月ではなくて、細い弓のような三日月。


「どうした?」


 トアに尋ねられて、ラピスは瞬きをしてから口を開く。


「……今月は彼の誕生日で、来月、新月の日に結婚式なの。それでお姉様が、自分達の結婚式に出るなっておっしゃってたから、参列するつもりはなかったのだけど。お姉様がね、結婚する前に、わたくしに出て行ってほしいってお父様に言ったみたいで、なんか話が進んでたみたい。私の結婚の」


「――はっ?」


「私の結婚式は、お姉様が結婚した後にやるんですって」


 トアは長い尻尾で、ペシペシと床を叩き、不機嫌そうな声を出す。


「お前の姉は、自分が結婚するまで妹が結婚することもだが、婚約者ができるのも嫌だと言っていたんだったよな。それなのに結婚するまで出てけと言うとは……。そんなに簡単に相手が見つかるのか?」


「……これでも私、伯爵家の娘なの。私が貴族の方々の前では無表情で、人形令嬢と呼ばれていたとしても、結婚は家と家でするものだから、私個人の顔とか性格とかは関係ないのよ」


「それでいいのか?」


「貴族だもの。愛のない結婚なんて、当たり前なのよ。恋愛小説や恋愛詩集も読むけれど、それとは違うの。私の魔力量は少ないけど、女は魔力がなかったり、魔力量が少なくても、魔力量の多い子を産むことができるの。だから問題ないわ」


「好きでもない相手と接吻せっぷんや子作りして、何が楽しいのだろうな」


「楽しむためにするのではないのよ。家のために……」


「この家のためか? この家が好きなのか?」


「……好きではないわ。だから、出て行きたいっていう気持ちがあるの。伯爵家に生まれて、金銭的に恵まれているのは分かるし、それは感謝してるけどね。お姉様が結婚したら、あの子――もう大人ね。あの方も、この屋敷で暮らすでしょう? あの方は私のことが苦手みたいだし、子供もできるでしょうから、私、邪魔だと思うの」


「あの童顔、魔物の血が濃いからな」


「――えっ?」


「先祖返りなんだ。童顔の匂いが気になって、知り合いに聞いたのだが。あの家はな、数百年に一人、魔物の血が濃い者が生まれるらしい」


「そんな話、知らないのだけど……」


「普通、知ってても言わないだろう。人間は。貴族なら、なおのこと」


「それは、そうかもしれないけど……。お姉様、ご存知なのかしら?」


「知っていたら今頃、大騒ぎしていると思うが?」


「……そうね」


「あの家の先祖返りはな、成人すると、女の血が飲みたくなるという話なんだ。お前には、俺の匂いがついているから大丈夫だがな」


「……お姉様、大丈夫かしら?」


「家のための結婚だろ? 子さえできればいいと言ったよな? それに、あの血は男も女も惹きつけるようだから、家は繁栄はんえいするだろう。それよりもお前のことだ。結婚相手はどんな奴なんだ?」

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