酒と少女とドブネズミ
倉住霜秋
第1話
酒癖が悪く、ゴミ捨て場で寝たことのあるようなドブネズミみたいなやつらが、別世界へ捨てられるぐらい世の中が綺麗になった頃の話。
ネズミ捕りと言われる人間が、街中で泥酔しているドブネズミどもを捕えてえては、人知れずに世の中から存在を消していた。
もしも周りに酒好きがいて、連絡が取れなくなったとしたら、それはきっとネズミ捕りだ。
だからこれは警句でもある。やっぱり酒は飲んでも飲まれるなってやつだ。
一つ例を挙げるとしよう。
たった今、とある路地裏で倒れている24歳の酒浸りの彼は、上半身裸で路地裏で寝ており、冬の冷たい夜を腐った生ごみ入りのごみ袋を抱いて寝ていた。
その日は大学生の友人と久しぶりに飲んでいて、学生の頃のように、ショットを賭けて小さなゲームをして夜を明かした。
男の記憶の最後は、友人が側溝に吐いたところで消えていた。
へべれけの中でも、不快感と共に、友人に対しての軽蔑を覚えたが、友人は吐いたことにより危機を回避することになる。
辺りが明るくなり、割れそうな頭を抱えながら立ち上がると、そこは路地裏ではなく、草の生い茂った河原にだった。
最悪の気分で目覚めて、まずここはどこだろうと考えるが、何も思い出せない。
体中からアルコールの匂いがしてさらに気持ちが悪くなる。
「クソ」と悪態をついて、川の下流へと向かう小道を気だるげな足取りで歩き始める。
アルコールの匂いを放っているのは、傍らに流れている川だということに気が付くのは、もう少し後の話しだ。
友人のいたずらだろうかと思い、今度会ったときは仕返しをしてやると、モヤのかかる頭で男は思った。
少し歩くと、街が見えてきたが、それは彼が知っているような街並みではなく、ケルト音楽が聞こえてきそうな石畳の街であった。
ここは酒の街、ドブネズミどもの楽園。
酔っ払いたちの陽気な歌では、そう呼ばれている。
アルコールが街に充満しているせいか、街は薬品のような臭いがする。
そのため街の住民は出歩くときはマスクをする。
彼らの体は、この街に住んでいる時間が長いほど透けている。
ここのアルコールは体を侵食していく。
だから、虫も鳥も植物も透けていて酔っぱらっている。
世界中のドブネズミどもが集められ、街では独自の言語体系が成り立っているが、語彙はそこまで多くはない。
ここのアルコールを摂取していれば、ほとんどの欲は満たされる。
この街は少し寒いが、アルコールで体を温めることもできる。
しかし、最後には透明になり消えしまう。
だから街の人は毎日適度にアルコールを摂取して、静かに余生を過ごす。
街には5年生きた人間はおらず、新陳代謝の激しい街は普段は静まり返っていて、無暗に街を歩くものはいない。
しかし、ドブネズミの中にも生粋のドブネズミがいて、来たその日には街でたらふく酒を飲んで、数日でいなくなってしまうものもいる。
そういう消え方もある意味で、一つの理想で、幸せなのかもしれない。
ここに来た人間は何かを忘れようと、酒を飲んで、酒に飲まれたものがほとんどだが、それでも誰かから忘れられるのは怖いのだ。
男は街の暮らしに慣れ始めると、毎日散歩に行くようになった。
彼を初めて見る街の人は、最初は親切に、彼を心配して街の説明をしていたが、だんだんと男が有名になってくると、彼を気狂いとして扱った。
なぜ静かに過ごそうとしないのか?
なぜいつも一人でいるのだろうか?
男の肌が少しずつ透けていき、目を凝らすと向こうの景色が見える様になったが、男は気にせずに歩き回った。
ここには敵がいない、と思った。
忘れたい現実もないし、緩やかに消えていけることが何よりもうれしかった。
ある日、男が河原を歩いていると、一人の少女が溺れているのを見つけた。
幸いなことに、近くの下流の岸に流れ着いた。
急いで駆け寄ってみると、弱ってはいたが息をしており、男はひとまず安心した。
しかし、アルコールを含む川の水を大量に飲み込んでしまったことで、体が消えかかっていた。
まず少女を見て思ったことは、正義感から来る同情よりも、厄介なことに巻き込まれたという嫌悪感が強かった。
そこで男はこの少女を利用しようと考えた。
酒を飲んで消えていくのはごめんだが、自分の死期も早まるし、少女の命を伸ばせるならば、お互いにとっていいことだと。
男は冷えた少女を抱き寄せて、そっと唇を重ねて、深呼吸をするように少しずつアルコールを吸いだした。
アルコールを吸い出すと、度数の高い酒を飲んだ時のように、喉が熱くなり視界がぐらつく。
男に意識が朦朧としたぐらいで、少女の意識が戻る。
少女は半身だけ起こし、辺りを見渡して困惑している様子で、傍らに手をついて気分の悪そうな男に気が付くと、そばに駆け寄って背中をさすった。
二人の意識がはっきりとして来ると、男は少女を街のほうへ連れて行った。
街で一番面倒見のいい夫婦の家に少女を預けたが、次の日にその河原を訪れると、再び全身ずぶ濡れで川を眺めている少女を見つけた。
男は何かあったのかと近づき、それに気が付いた少女は嬉しそうに笑った。
昨日ほど弱ってはいなかったが、きっと濡れた状態で何時間もここにいたのようで、顔色は悪く、肩を震わせていた。
預けていた夫婦の家を訪ねると、少女が勝手に出ていったらしかった。
夫婦に困らせてしまったことを謝罪して、また別に家を探した。
次は、年の近い、若い女の家に預けた。
若い女は、男が人助けをしていることを不思議がった。
「変わり者のあんたがどういう風の吹き回し?」と茶化すように女は、男に尋ねた。
「忘れた」
「アルコールのせい?」
「これ以上話したら、僕が親切だってばれてしまう」
「バカにつける薬は、百薬の長でもだめみたいね」
知らない言葉で話す僕らを見て、少女は疎外感を感じて、少し脹れてるような表情をしていた。
少女と若い女の相性はいいように思えたが、次の日にはまた家を飛び出して、河原に座っていた。
少女の体は、ここにきて数日だというのに、少し透け始めていた。
男が再び迎えに来たと気が付くと、少女は待ち人を見つけたように喜んだ。
結局、男は少女と暮らすことを決めた。
世界中のドブネズミが集まるこの街で、25歳と17歳の日本人の男女。
「私を探すために、毎日散歩していたんですよね?」と少女は聞く。
男は否定しない。
代わりにこの街のこと、ここに来た奴らはドブネズミと呼ばれていること、そのドブネズミはいずれ透明になって消えてしまうことを説明した。
その時、少女は男が河原でしたことの重大さに気が付いて、しばらくの間、しおらしくなった。
こうして、男に家族ができた。
その日から、二人は狭い家で生活をした。
寒い夜は、ベットで肩を寄せ合い、一つの掛け布団にくるまって眠った。
「なあ、どうして家から逃げ出したんだ?」と男は聞く。
「それは…」と少女は少し考えて答える。
「あの人たちが前の世界の家族に似ていたからだと思います」
「そうか、それは悪いことをしたな」
男はそれ以上は聞かないことにした。
「それと、あなたの手が一番温かったからです」
少女はそう言って、布団の中で男の手を握った。
小さな少女の手は、指先まで冷えていたが、ゆっくりと男に体温に近づいていき、二人の体温が同じになった時には、二人とも深い眠りについていた。
それから、少女は男の日課である散歩についてくるようになった。
最初は、男も少女の身を案じて止めていたが、一人で家を出たとしても、探偵ごっこのように後ろを尾行してきた。
男が観念して、後ろをつける少女に近づくと、少女は楽しそうに笑い、逆に逃げ出すのだった。
追いかけ合いを続けて、ついに路地裏に少女を追い詰めた。
「あらら、袋のネズミになっちゃいました」と少女は満足そうに言った。
少女が散歩についてくるようになってから、男は街のいろいろなところに、少女を連れて行き、様々なことを教えた。
ロシア人は、ここにきてもすぐにウォッカをたらふく飲んで、消えてしまうので、ロシア人街は常に人が少ないこと。
街の大広場では、週に一度、人が集まって祭りが開かれる、それはこの街が死と隣り合わせで、旅だった人が寂しくないように、弔いのためだということ。
その祭りで、お調子者は飲みすぎて消えてしまうこと。
少女はそんな街の話を聞いて、愉快そうに笑った。
「この街の人は楽しそうですね」
「どうだろうな、この街は常に寂しさを含んでる気がする」
「どうして私たちはここにつれてこられたでしょうか」
「俺たちがドブネズミだからだ」
「なら私たちは保護されたんですね」と少女はいたずらっぽく笑う。
「どういう意味だ?」男は立ち止まって聞き返す。
少女は振り返り、笑顔で言う。
「ドブネズミは美しいんです」
「そうか、俺たちは嫉妬でここに来たんだな」
男もそれが気にいって、笑った。
男と少女が共に暮らし始めて、一年が経った。
少女の顔は、少しずつ透けてきていたが、男の顔はほとんど表情が読み取れないほど、透明に近づいてきていた。
少女は、一年の記念日に、男にワインレッドのマフラーをプレゼントした。
「私とお揃いです。よかったですね」
「いつの間に編んだのだ」
「内緒です」と少女は、男の驚く顔が見れて嬉しそうに笑う。
「ありがとう。今日の散歩はこれを巻いていこう」
街中を、無暗に歩くワインレッドのマフラーの二人組。
街の人は、二人を見ると、「変わり者が二人に増えたみたいだ」などと冷やかしてきた。
男はそういった輩に対して、「ショットでも飲んでろ」といってやった。
この街でそれを言うと、『早く消えろ』という意味になる。
しかし、言葉を知らない少女は、そのやり取りを不思議そうに見ていた。
「なんて言われてたんですか?」
「『お幸せに』って言われたから、今度酒でも飲もうって言ったんだ」
「この街の人たちはいい人たちですね」と少女は恥ずかしそうに笑った。
時が流れ、男の顔が、ほとんど向こうの景色を透かしてきたころ、少女は話し始めた。
「私、自分でここに来たんじゃないんです」
「それは自分で酒を飲んだわけじゃないって話か?」
はいと答えて、少女は俯く。
「姉とその友達に、いたずら半分で飲まされたんです」
「まあ、ここにきても酒を一度も飲まないのはわけがあると思ったよ」
「私は、家族に人生を無茶苦茶にされたみたいです」
「一年は長いな」と男はため息をつく。
少女は男をまっすぐ見て言う。
「でも、今では家族に感謝しています」
「俺はお前に会えてよかったよ」
あー先言われちゃったと少女は男の肩に寄りかかる。
男は、今顔が見えなくてよかったと思う。
「元の世界に戻っても、私の心が休まる場所はありません」
「でも、帰らないといけないよ」
男は心にも思ってないことを言った。
もし、ここで一緒に最後を迎えたいと、本当のことを言ってしまったら、彼女はそれを受け入れてくれると知っていたから。
「そうですね。帰らないといけないみたいです」
少女は寂しそうな笑顔を浮かべる。
次の日、二人はいつものように歩いた。
手を繋いで、何かを確かめ合うように、ずっと歩いた。
「俺は、酒に溺れてここに来た」
「私も溺れました」
「それは本当に溺れてたじゃないか」
二人は笑う。
「私、元の世界に戻ったら、またここに来ます」
男は、その言葉が何よりも嬉しかったが、同時に悲しかった。
立ち止まって、少女を抱き締める。
「その頃には俺消えてるよ」
「私、ここに来て本当によかった」
「俺も来てよかった」
「あなたが好きです」
「先に言われた。」
俺も好きだ、と男は言う。
そして、お互いの顔を見つめ合うように、腕を少し緩める。
「最後にあなたの顔をもう一度見たかった」
「最後にこんな顔を見せなくてよかった」
もうっと少女は男の胸に頭をうずめる。
次の瞬間、少女はワインレッドのマフラーを掴み、男の顔を引き寄せ、キスする。
そして、ゆっくりと男のアルコールを吸い出す。
男の子は少し色を取り戻し、少女はほとんど透明になる。
「キスをするときはそんな顔していたんですね」
「僕だけ見られるのは不公平だ」
「最後にこんな顔を見せなくてよかったです」
再び二人は抱きしめ合う。
お互いほとんど姿は見なくなったが、そこにいることを確かめ合うように、強く抱きしめる。
「あなたのことが好きです」
「俺も…」
男も思いを伝えようとしたとき、腕に抱いていたものが消えた。
残ったのは、地面に落ちた服とワインレッドのマフラーだった。
男はそれを拾い上げて、まだかすかに残る温もりを手に感じて、立っていた。
ずっとずっと立っていた。
酒と少女とドブネズミ 倉住霜秋 @natumeyamato
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