欲しいものはやっぱり遠くて苦しくて

星月小夜歌

欲しいものはやっぱり遠くて苦しくて

 どこにでもあるような住宅街の中の、洋館を模したような小洒落た住宅で、黒山くろやま美絃みつるはバイオリン教室を開いていた。

 携帯を見ては、美絃は今日も溜息を吐いていた。

 美絃の携帯に届くのは、同じ師に師事していた同期たちの演奏会の案内ばかりだ。

 一人は有名な交響楽団のコンサートミストレス、一人は海外で名門オーケストラに所属するバイオリニスト……。

 私だって。私だって。

 華々しく舞台に立ちたかった。

 立てるはずだった。

 音大を出たとしても音楽で食べていくのは茨の道。安定なぞ狭き門。

 そんなことはわかっているはずだった。

 しかし、いざ自分が挑戦して、ふるい落とされる側だということを突きつけられても、美絃はそれを受け入れられなかった。

 結局どこにも就職出来なかった美絃は、縋る思いで親にも援助してもらって郊外の住宅を借りて、そこでバイオリン教室を始めたのだった。

 そこそこゆとりのある住人が多いのか、生徒は子どもからお年寄りまで、数は多くないものの食べるには困らない程度の収入は確保できた。

 だがしかし生活が安定してくると、忘れかけていた不満がまたも美絃を苛んだ。

 私はこんなところで終われない。

 もっとやれるはずだ。

 輝かしく活躍する同期たちへの嫉妬心は美絃の心を曇らせていくのだった。

 鬱屈した心を生徒達に隠しながらバイオリン講師として過ごして、3年ほど経ったある日、新たな生徒が美絃の教室の門をたたいた。

「子どもたちも中学生になって手間がかからなくなってきましたの。ですので幼い頃から憧れていたバイオリンを始めることにしましたわ。」

 美絃の新しい教え子は、40代後半の女性、白神しらかみ初音はつねであった。

 髪はひとすじが白くなってはいるものの、かえってそれが彼女の上品さを際立たせていた。

 生徒達には言えないが、美絃にとって初音は気楽に教えられる相手であった。

 子どもや未成年の教え子の中には、プロ奏者や音大受験を目指して美絃に師事する者もいる。

 かつての自分のようなギラギラした生徒達を教えるのは、美絃にとっては主に2つの理由で辛いものであった。

 一つは、過去の自分を見ているようで心苦しくなるから。

 もう一つは、誰かの人生が自分の指導にかかっている、そう思うとプレッシャーでしかないから。

 初音にはそのような野望は無く、ただ幼き日の憧れを叶えたいという、純朴な理由だけで美絃を訪ねバイオリンと弓を手にした。

 初音が美絃にバイオリンを習い始めてから一月ほど経った。

 初音はゆっくりと、しかし着実に上達していった。

 初日から見れば、めきめきと腕を上げている。

 美絃は初音を指導することを、いや、初音が自分の教室であり家でもあるこの部屋に来て共に過ごすことを楽しみにするようになっていた。

 自分よりも長く人生を歩んできているはずなのに、それなのにその心はまっすぐで、上達していることを伝えるとまるで子どものように可愛らしく喜んでくれる。その時に初音が見せてくれる笑顔に、美絃は心を躍らせるようになっていた。

 弓を持つ右手のフォームを整えるために、美絃は初音の右手を取る。

「失礼しますね。……はい。もっとこのくらい弓は大きく使っていいんです。初音さんなら、もう出来ると思いますよ。」

「あら。こんなに腕を伸ばすのですね。」

 バイオリン教室ならありふれた光景だろう。しかし、美絃にとっては特別な時間であった。

「そうです! その調子です! 今度は、初音さん自分でやってみてください!」

 教えたことを初音に復習させながら、美絃は初音に秘かに見惚れる。

 ――どうしてか、私は初音さんを教えているときは幸せで、まだまだぎこちなさの抜けない左手も、ピンと張った右手の指も、指板の上の指を見つめるその瞳も、私を捉えて離さないのだ。――

「黒山先生。もう一回、お手本を見せてくれますか?」

「はい!」

 危ない危ない。ぼーっとしているのがバレるところだった。

 手本としてバイオリンを弾く美絃を、初音はじっと見つめる。

 その瞳の綺麗さに、美絃はどぎまぎするのを必死に抑えながら手本を示す。

 ――私は、初音さんに惹かれている――

 美絃が初音への恋心を自覚するには、それほど時間はかからなかった。


 美絃が初音にバイオリンを教え始めてから、半年ほど経った。

「初音さん。上達してきましたし、そろそろこの教室の身内だけで発表会をしてみませんか?」

「いえいえ、そんな恐れ多いですわ。」

「無理強いはいたしませんけれど、でもやっぱり、人前で弾くというのは大きなレベルアップに繋がっていきますよ。」

「それじゃあ、お客さんとして夫と子どもたちを招いてもいいかしら?」

「もちろんですよ。初音さんのすごいところ、見せてあげましょう!」

 美絃は初音に明るくそう答える。

 しかし、美絃は自分自身の心にも蓋をしているのだった。


 初音さん。もしも。もしも。貴女が私だけのものだったら。

 もう私は、貴女の手に触れるだけでは足りないのです。

 華々しいコンサートミストレスの座も、名門オーケストラの席も、もうどうでもいいのです。

 初音さん。貴女が欲しいです。私が欲しいのは貴女です。

 でも、私は貴女を、私だけのものには出来ない。

 それは貴女の幸せを壊してしまいかねないから。

 貴女の幸せを壊すのは本意ではありません。

 だから……この想いは私だけのもの。

 だから私は、貴女のバイオリンの先生として、傍らにいさせてください。 

 それだけで、私は幸せです。

 でも、やはり貴女の近くにいるだけで、ドキドキしてしまいますね。


 無邪気に微笑みながら発表会で奏でたい曲を口ずさみ艶めく初音の唇に自らの唇を重ねたいという欲望を封じ込めて、美絃は初音への指導の準備をするのであった。

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欲しいものはやっぱり遠くて苦しくて 星月小夜歌 @hstk_sayaka

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