その死から永遠に

「…………一千歌……」


 自分を呼ぶ声に少女は顔を上げる。

 暗闇の帷が降りる中、少女はあの花畑で帰りを待ってくれていた。

 花畑が赤に染まる。

 巨大な狐の足元から溢れ出した血と臓物が大地を濡らし、花々へと赤が広がっていく。

 自分の身体に赤が降り注ぐのも構わず、一千歌は妖狐を見上げた。


「おかえり夢羅」


 底の見えない黒い瞳が夢羅を見つめ返した。

 それに安堵したのか、妖狐の巨体が音を立てて花畑に沈んだ。

 衝撃に花びらが舞い、一千歌の髪がなびく。

 少女は膝をつき、夢羅に寄り添った。


「ほら、しっかりして……わたしの身体を乗っ取るんでしょ」


 一千歌の言葉に妖狐の耳だけがピクリと揺れる。

 彼女は自身が血で濡れるのも構わず、夢羅の顔を抱き起こした。


「まだ先生として教えてないことがたくさんあるよ」


「そう、だな」


 まだ楽しいことも、やりたいことも、定まっていない。

 約束は帰るだけじゃない、中途半端で終わったままのおままごとの続きだってある。

 それでも……


「すまない……でも……眠いんだ」


 つまらない見栄をはることも、もう難しそうだった。

 傷は深く、完治には多くの時間がかかることだろう。

 いつものように、少女のそばで教えを乞うことは……もうできそうになかった。


「約束を破るの?」


「そうじゃない……ただ、少し時間が欲しいんだ…………またここで目覚めるための」


 黒い瞳が自分を見つめてくるのを感じる。

 だが夢羅はもう目を開けることもできなかった。


「眠っちゃうの?ねぇ起きてよ……」


 身体をゆすられる。

 それすらも夢羅にとっては眠りに誘う心地よい振動でしかない。

 少女の元に帰る、ただそれだけのために全てを振り絞った。

 夢羅にはもう何も残っていない。

 気力も体力も、流れ出る血と共に大地に溶けていった。


「私を1人置いて行くの?」


 その言葉に夢羅の目が微かに開く。

 違う。

 置いていくはずがない。

 ただ、少し休むだけ。


「も、し…………………………」


 吐息のような最後の囁きが漏れる。


「…………私…………なら……呼……………………と…………」


 その言葉は最後まで紡がれることはなかった。

 それでも少女は頷いた。


「わかった、わたしが夢羅の眠るこの花畑を守るから……」




……




…………………




……………………………




 人々の営みの音が聞こえる。

 水桶を背負い歩く人の足音、屋台の客寄せの大きな声、馬車の奏でる蹄と車輪の音。

 人々の行き交う大通りを夢羅は黙々と歩いていた。


「都に来るのは随分久しぶりですね」


「………………」


 夢羅の肩にとまった煤羽が物懐かしそうに辺りを見渡す。

 異形の烏を肩に乗せた女に驚愕の目を向ける人間も少数いたが、ほとんどの人間は気にも止めていない。

 わざわざ烏の足の数を数える人間などそれほどいない。

 平和ボケしているな、と夢羅は思った。

 事実、戦争以来都から妖怪の姿はなくなり、ここの人々は身近にあった暗闇の恐怖を忘れている。


「英雄のやつを誘惑して傾国するのですか?」


「……それはあやつ次第だな」


 夢羅がわざわざ長い旅路を経て都まで出向いたのは、全てあの剣士と再会するためだ。

 予言の英雄と予言の花嫁…………そして予言の巫女。

 それらの縁が夢羅をここまで連れてきた。


「しかし、前とは随分景色が違うな」


 英雄を求めて都まで来た。

 そこまではいい、しかし実のところ夢羅は迷子になっていた。

 かつての戦いで建物は焼け落ち、そのほとんどが建て変えられている。

 都の様子は彼女の記憶とは全く違っていた。

 夢羅は英雄と対峙したあの屋敷を目指していたのだが、一向に何処かも分からない。


「上空から探しましょうか?」


 煤羽の提案に夢羅は頷く。

 このままでは埒が明かない。

 下手に目立って兵士を呼ばれるのも癪だし、煤羽に任せるのが丸いだろう。

 黒い異形が飛び去って行くのを眺めながら、夢羅は息を吐いた。


「蕎麦でも食うか、暇だし」


 任せておいてなんだが、やることもない夢羅だった。

 やつが見つかれなければ仕方がないと手近な蕎麦屋の暖簾をくぐる。

 ちょうどお腹が空いていたのだ。


「お客さん相席でも?」


「あぁ、構わないが……ん?」


 愛想のいい店員に案内され、席につく。

 断りを入れられた通り、机の向かいには人が座っていた。

 その相席だという相手の様相に夢羅は眉を上げる。

 庶民が入るような蕎麦屋には似つかわしくない、上等で大袈裟な着物を着た女だった。

 おまけに蕎麦屋だというのに、蕎麦を啜らずお茶を啜っている。


「待っていました」


「はぁ……?」


 声をかけられ、辺りを見渡す。

 女は真っ直ぐ夢羅の方を見ている。

 人違い…………ではないだろうか?

 夢羅に誰かと待ち合わせた記憶などなかった。


「我が分かりませんか?」


 目を細めその黒い瞳でじっと見つめる。

 でも夢羅にその女性の心当たりなどなかった。

 首を振る、お前は誰だと。


「それでは、一千歌は死んだのですね、残念です」


「え」


 椅子が音を立てて倒れる。


「落ち着いてください」


「お前……何を知っている」


 勢いよく立ち上がった妖狐が女を睨みつける。

 黒い瞳が凄んでも、女は済ました顔でお茶を啜っていた。

 夢羅の手のひらに藍の狐火が灯っても、その態度は変わらない。


「我が知っているのは、ここで待てば東一千歌が向かいの席に座るということ。果たしてその中身が東一千歌なのか、傾国の妖狐なのか……我には予知できなかった」


「お前は……」


 夜空のような瞳が夢羅を見つめ返す。

 その瞳の奥にはいくつもの星座が瞬いていた。

 人から外れた虹彩、異形の人間。


「初めまして妖狐夢羅。我は予言の巫女。英雄が、あなたを待っている」




 …………………………




 いくつもの門をくぐり、いくつもの庭を抜ける。

 門をくぐるごとに景色は豪華なものへと変わっていく。

 決して華美にはなりすぎず、清潔で優美な庭園。

 夢羅はチラリと空を見上げた。

 空に異形の黒い影が小さく見える、どうやら煤羽はきちんと夢羅の姿を捕捉しているらしい。

 前を歩く巫女が歩みを止める。

 庭園に作られた大きな泉、そこにかかった橋の前。

 橋の向こうには小さな屋敷が見えた。

 予言の巫女は橋の前で止まると、夢羅に先を促すように橋の向こうへ手を差し向ける。


「この先に彼がいます」


「なんだ、お前は行かないのか?お得意の予言が必要な場面だと思うが」


 探るように妖狐が笑う。

 この先にあの剣士がいる?

 なぜ巫女が英雄の元に妖狐を案内するのだ。

 分かっているのだろうか、かつて人間と妖怪の未来をかけて戦った者同士だということが。

 

「もう結果なのです、これが。予知し、対策し、最善の道を探した、その結果が今なのです妖狐」


 星座の煌めく瞳が静かに閉じられた。

 最善?これが?


「あいつは死んだんだぞ」


「…………」


「……………………未来を知れる人間ってのはこうも非情になれるんだな」


 返事はなかった。

 目を閉じた予言の巫女はまるで人形のように口を閉した。

 妖狐は不満げに橋の欄干を蹴り付けると、一歩踏みだす。

 橋の向こう、小さな屋敷から知った匂いがする。

 あの日妖狐を見逃した甘ちゃんの匂いだ。

 肩を怒らせながら橋を渡り切ると、もう屋敷は目と鼻の先だった。


「…………」


 無言で扉を開け、屋敷に侵入する。

 頭上で瓦を打つ音が聞こえた。

 煤羽も、もうここまで来たのだろう。


「少し……暗いな」


 窓が閉じられているのか、室内は薄暗かった。

 指を立てそこに小さな狐火を灯す。

 仄暗い灯りが灯った先で、異形と目が合った。

 そこに妖怪が、いた。


「なッ!」


 悲痛に歪む顔。

 飛び散る血飛沫。

 阿鼻叫喚、燃える都。

 あの日の情景が、そこに広がっていた。


「絵………………か、趣味が悪い」


 目の前に広がったかつての戦争の情景、それは襖いっぱいに描かれた襖絵だった。

 そのあまりにも真に迫る迫力に、思わず本物がそこにいるのかと錯覚してしまったのだ。


「趣味が悪いとは酷いな」


 カツンと杖が床を打つ。

 薄暗い部屋の奥から、男が足を引きずって出てくる。

 その姿に、夢羅は目を細めた。


「英雄……か、随分と変わったな」


 夢羅の言葉に彼はくつくつと喉を振るわせる。

 その姿はあの日妖狐と対峙した男と思えぬほどくたびれていた。

 顔に残る大きな火傷の跡、左手を失ったのか中身のない着物の袖がゆらゆらと揺れている。

 杖をついている様子からすると足も負傷したのだろう。

 剣士もまた、あの日の負債を引きずっていた。


「君と最後に別れてから何年経ったと思っているんだい、妖狐?」


 当たり前のように正体を見破られ、夢羅は顔を顰める。

 これもまた巫女による差金なのだろうか。


「あの日の後悔を忘れないように、この絵を描いて貰ったんだ」


「毎日これを眺めるのか?それは気の滅入ることで」


 戦争など早く忘れた方がいい。

 こんな凄惨な絵と毎日顔を合わせるなんて酔狂なことだ。

 あの剣士をこのような狂気に走らせるとは、あの日の後悔は如何程なのか。

 随分興味深い話だが、今日私が知りたいのはくたびれた男の後悔ではない。


「聞こうか?」


「何を?」


「とぼけるな、貴様らは何を預言し、この結末を描いた………………なぜ……なぜ一千歌なのだ」


 予言の花嫁、そんなものに一千歌を巻き込んだのは貴様らだ、夢羅はそう英雄を睨みつけた。

 憎しみのこもった瞳、だがその色合いはあの日のものとは違う。


「その花嫁は、英雄と子をなす器。その器から生まれし子は人と妖怪の世の終わりを告げるだろう」


 まるで歌うように、英雄は誦んじた。

 それは花嫁の歌、東一千歌の歌、花嫁の予言。

 人と妖怪の世の終わりを告げる子供。

 額面だけ捉えると人と妖怪が滅びるという意味にとれる。

 だが、人間はそうは解釈しなかったのだろう。


「東一千歌と僕の子は妖怪を滅ぼし、人だけの世の始まりを告げる。それこそが予言の花嫁」


 苦しげな吐息が、夢羅の口から漏れる。

 どうせそんなことだろうと思った。

 どうして人間は妖怪を滅ぼすことしか考えないのだろう。

 なぜそんな予言を実現させようとした?

 お前はあの戦争で、予言のまま多くを殺し、後悔したのではなかったのか?

 夢羅の脳裏に少女の楽しそうな笑顔が浮かぶ。

 何が違うのだろう、あの少女と、英雄たちは。

 それにこの予言の婚姻…………


「たいそうな予言だが……望まれた婚姻ではなかった。そうだろう」


「そうだね」


 村娘と英雄……接点があったとは考えられない。

 一千歌は知らぬ男と結ばれねばならなかったのだろうか。


「誰も望まぬ予言だった。その日は……僕と彼女の結婚前夜だったのだから」


「そ、れは…………」


 言葉に詰まる。

 彼女とはつまり予言の巫女だろう。

 英雄のくだらない恋愛関係には全く興味はないが……それでもまずいということは察せられる。

 予言の英雄と予言の巫女、民からの支持も厚かっただろう。

 そんな2人の仲を引き裂いた予言。

 一千歌が花嫁に相応しくないと言った男を思い出す。

 そうだ、望まれた婚姻であったはずがない。

 予言の内容が人の世の滅亡とも解釈できるのだから、尚更だろう。


「だが、それでもことを予言通り進めた。その結果がこれか?」


「そうだ、そしてこれは一千歌が望んだ結果でもある」


 唇を噛み締める。

 そんなはずない、こんな予言一千歌が望んだはずがないと、夢羅の内側が叫んでいた。

 こんな杜撰な予言のもと一千歌は死んだと?

 それを望んだと?


「彼女が望んだ、予言の子を」


「ふん……どうだか」


 事情を聞いても、納得できない感情が積もるだけ。

 その感情のまま剣士を睨みつける。

 彼も後悔からか、顔を顰めている。

 いや…………この顔は後悔だけだろうか?

 何か変だ。

 彼の顔は後悔というより……今現在の不快から顔を背けるような……


「だから、約束の子を産まねばならない」


「……………………うん?」


 待て、何か話がおかしい。

 こいつは何の話をしている。

 不快そうな顔で、何を語っている?


「お前と僕とで……子をなさねばいけないんだよ、妖狐」


「………………正気かッ……予言の花嫁はもう死んだんだぞ」


「それは違う、予言の成就に必要なのは器だ。中に入った魂は関係ない」


「…………器……?…………………………くハッ」


 乾いた笑い声が漏れた。

 自分の大事な部分が壊された、そんな気がした。

 予言の子を孕む器?魂は不要?

 そうか…………それが人間のやり方か……

 腑に落ちなかった点も、全てに納得が言った。


「英雄と結ばれる女だというのに、村に置いたままだったのは私という魂の保険があったからか!知っていたのだな一千歌が命を狙われるであろうことも、あいつが私の魂の適合者だということもッッ!!」


 部屋が藍に染まる。

 怒りを、炎を抑えることができない。

 夢羅の背中から尾のようにいくつもの藍の炎が伸び、空気を焦がす。

 不快だった、人間の思惑が、それに踊らされただけの自分の無力さが。


「それは違う。都では彼女を守りきれなかった、僕らは彼女を脅威から遠ざけただけだ」


「屁理屈をッ!!」


 炎の尾が振られ、部屋中に火の粉を撒き散らす。

 それは屏風絵にも燃え移り、あの日の情景を燃やしていく。

 脅威から遠ざけた……?そんなはずがあるか。


「それならなぜ……なぜ、あいつは1人だった?」


「君がいたからだ!君が助けてくれると一千歌が信じていたからだ」


「ッ…………!」


 一千歌との最後の思い出。

 血に塗れたあの花畑で、自分の発した吐息のような最後の囁き。




 もし助けが必要なら私の名を呼べ、お前の友が必ず駆けつけよう。




 その言葉は、確かに彼女に届いていた。

 届いていたのに、その約束は守られたか?

 自分はなぜ目覚めた?

 何に呼ばれた……?




 私を目覚めさせたのは、その死の慟哭だった。

 その声は、叫んでいた………………私の名を。

 叫びながら、彼女は落ちていった。




「わ、たし……は…………間に合わなかった。あいつを……守れなかった」


 それが真実。

 ずっと目を逸らし続けてきた、自分自身への失望。


「………………約束したんだ、あいつと」


 あの花畑で。

 なぜこんなにも恋しいのだろう。

 ちっぽけな人間ごとき……掃いて捨てるほどいるのに、何が違う。

 ぐらりと視界が揺れ、夢羅の顔が項垂れる。

 どれだけ後悔しても彼女が帰ってくることはもうありえない。

 それならば…………


「おままごとの、続きをしようか英雄?」


 顔を上げた夢羅の目は、狂気に満ちていた。

 もう炎は取り返しのつかない程に燃え広がり、辺りを藍に染め上げる。

 もう来れるところまで来てしまった、なら最後まで役割を演じ切ろうじゃないか。

 つまらなくても、やりたくないとしても!


「お前は救国の英雄、私は傾国の妖狐、物語を終わらせよう。それがあいつとの約束だ」


 狂気の炎を身に宿す妖狐、それに相対する剣士は杖を捨てると刀を抜き放つ。

 その姿はくたびれたとしても、昔と変わらぬ勇姿だった。

 片腕を失い、足を負傷しても、かつてと変わらぬ覇気だった。

 そのことが嬉しかった。

 自分を終わらせてくれそうで。




……………………………




…………………




……




「はいあげる」


 夢羅は一千歌の差し出したものをまじまじと見つめた。

 それはただのありふれた普通の握り飯だった。

 それを咥え、前を向く。

 夕日が広がっていた。

 いつもの花畑から離れた崖の上。

 一千歌は崖のへりに座り、足を揺らしながら色を変える空を眺めている。

 まるで珍しいものを見るように、少女の瞳はキラキラと輝いていた。


「なんてことない、ただの夕日だ」


 夢羅も一千歌の隣に腰を落ち着け、彼女の真似をして握り飯を頬張る。

 本当にただの夕日だ。

 一日に一回、空を見れば拝むことのできる、珍しくもないありふれた空模様。

 それでも胸の奥が温かくなるのはなぜだろう?


「おいしいね」


 隣の少女が微笑みかけてくる。

 それだけで頬張ったものが美味しく感じるのはなぜだろう?


「そうだな…………贅沢なものを飽きるほど食べてきた。それなのに私はこの握り飯の方が好きだ。なぜだ?」


 宮廷で贅を尽くした料理を食べた。

 だけどかつての記憶は心を震わせなかった。

 自分はそれを美味しいとも思っていなかった。

 この謎は自分のやりたいことを探す鍵になる、そう夢羅は思った。


「ふっふー!先生が教えてあげようか」


 少女が得意げにこちらを向いてくる。

 それに少し苛立ちながら、夢羅は咳払いをした。


「なぜだ?」


「大事なのはね、何を食べたかとか何をやったかじゃないの。その時誰といたか、これが大事なの」


「…………よく分からん」


 少女の謎の理論に夢羅は首を傾ける。

 妖狐にとってその答えは象徴的すぎた。

 彼女が求めたのはもっと具体的な答えだ。

 察しの悪い生徒を見て、少女はやれやれと首を振る。

 そのしたり顔を妖狐は睨んだ。


「つまり、わたしと夢羅ちゃんはもう友達ってこと!」


 それが答えだった。




……




…………………




……………………………




 荒く息を吐く。

 呼吸とともに血が口から滴り落ちる。

 だがその傷は藍の炎と共に修復していく。


「結局…………私は何がしたかったんだろうな……?」


 無力感、怒り、悲しみ、様々な感情が渦巻いた後には虚しさだけが残った。

 どんなに怒り狂ったところで、あの少女が戻ってくるわけじゃない。


「終わりにするか……」


 地面に落ちた刀を拾い上げる。

 それはあちこちにひびが入り、かろうじて刀の形状を保っているような代物だった。

 だが、これでも命を奪うには十分だろう。

 刀が落ちていたその先を妖狐は見つめる。

 焼き焦げた家屋の残骸の中、英雄だった男が横たわっていた。

 人間の肉体を獲得し強化された自分と、傷つき衰えた英雄。

 初めから勝敗の分かっていた戦いだ。

 それでも、この男なら終わらせてくれるかもしれないと思ってしまった。

 儚い希望だったが。


「やめて!」


 背後から声がかかった。

 振り向かなくても分かる。

 予言の巫女があの瞳でこちらを見つめているのを夢羅は感じた。


「やっちまえ!」


 興奮した声が頭上からした。

 見上げなくても分かる。

 煤羽は羽ばたきこちらを見つめているのを妖狐は感じた。


 震える腕で、刀を男の首筋に添える。

 彼女にとってその刀はひどく重たそうに見えた。


「あの人を私から奪わないで」


「その首を刎ね、勝ち鬨を上げろ」


 二つの声が妖狐を惑わす。

 もう少し力を込めればその刀は首に食い込むだろう。


「…………一千歌……」


 だが夢羅は剣士から漏れた友の名前に腕を止める。


「……一千歌と。約束したんだ……胸を張って友達と生きれる世にすると…………人間と妖怪が手を……取り合って…………」


 呼吸が詰まる。

 汗が夢羅の頬を伝った。

 なぜ、剣士は予言の子に執着した?

 なぜ、殺し合った妖狐と番になってまで子をなそうとした?


「人間と……妖怪の世を終わらせ…………人間……妖……の区別のない…………世界に」


 傷だらけの腕が夢羅へと伸びる。

 それを妖狐は振り払う。

 訳が、分からなかった。

 英雄と花嫁の約束?

 一千歌は私のために子を…………

 夢羅はもう頬を濡らすのが汗なのか涙なのか分からなかった。


「私、だって……お前と、生きたかった…………一千歌」


 ようやく見つけてやりたいこと、でもそれはもう叶わない。

 あの少女はもう一生戻ってくることはない。


 その死から永遠に。


「夢羅!」


「妖狐様!」


 人間が、妖怪が、夢羅を呼ぶ。

 選択しろと。

 このつまらぬおままごとを終わらせろと。


「っぁあぁああああああッッ!!!」


 夢羅は刀を振り上げ………………


 選択した。




……




…………………




……………………………




 街頭を菅笠を被った女が歩いていた。

 街を行き交う人々はみな暗い顔をし、ヒソヒソと耳打ちをする。

 数日前に起こった妖怪による襲撃事件を。

 その標的になった英雄のことを。

 女はそんな噂話などには耳も貸さず、黙々と歩いていた。


「殺さなくてよかったのですか」


 異形の烏が空から舞い降り、女の肩にとまる。

 女はそれを煩わそうに肩をすくめた。


「妖怪の栄華を取り戻す千載一遇の機会だったというのに…………後悔しますよ」


「しないさ、きっとこの選択は意味のあるものだから」


 にやりと女は笑う。

 どこかで、聞いたことのある台詞だった。

 異形の烏は大きなため息を吐く。

 彼の計画はもう再起不能なくらいめちゃくちゃだった。


「これからどうするんですか…………」


「そうだな、子を孕んでみようかと思う」


「……は?」


 女のあまりにも明け透けな物言いに烏は目を見開く。

 目を白黒させる妖怪に対して女はしたり顔だ。


「子を作るって……あの英雄とですか!?」


「馬鹿、あいつはぶっ飛ばしたばかりだろうが」


「で、では誰と?予言を成すのですよね?」


 訳が分からないと、異形の烏は身震いする。

 この女性は何をするつもりなんだ。

 それに、なぜ……こんなに楽しげなんだ?


「あんな薄弱じゃなくて……私だけの英雄を探すことにするよ」


 女は無茶苦茶な論理を展開する。

 今の英雄が気に入らないのなら、自分だけの新しい英雄を用意すればいい。

 そうすれば、予言と齟齬はないだろうと。


「つまり、いつまでもくよくよしてないで新しい友達をつくりましょう、ってことだ」


「友達?人間とですか?気の長い話ですね……」


「そうでもないさ…………」


 待ちきれないとばかりに女は腕を振り上げる。

 その黒い瞳は期待ではち切れんばかりに輝いていた。


「じきに人間と妖怪の世は終わるのだから!」


 楽しいことも、やりたいことも、きっとまた見つかる。

 その死から、彼女の新しい人生が今始まった。

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その死からはじまる 黒葉 傘 @KRB3

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