その死から数週間

「はい、これが夢羅ちゃんのお人形ね」


「あ、あぁ」


 少女から人形を差し出され、夢羅は戸惑ったようにそれを摘んだ。

 手作りの人形、少しでも爪に力を込めれば壊れてしまうであろうそれを夢羅は恐る恐る見つめる。

 それは男性の姿を模ったありふれた人形だった。

 少女の方も同じような手作りの人形を持っている。

 あちらは女性の人形だ。


「わたしがお奥さん、夢羅ちゃんが旦那さんね」


「これはつまり……与えられた役割を演じる小規模な演劇、ということでいいのか?」


「もー、夢羅ちゃん堅苦しく考えすぎだよ。もっと気楽にいこうよ」


 一千歌は自分の持った人形を揺らす。

 夢羅もそれを真似て人形を揺らした。

 巨大な妖怪と小さな人間がお互いの人形を挨拶させる光景はどこか滑稽ですらあった。

 妖狐と少女が初めて出会った花畑、そこはすっかりの2人のお決まりの場所となっていた。

 妖狐はそこを根城とし、毎日のように遊びにくる子供の相手をする。

 夢羅はあの日から一千歌と名乗ったこの少女と一緒に楽しいことを探していた。

 彼女の身体を乗っ取るため、やりたいことを探すため。


「………………あの」


 だが、今日はいつもと違う…………来客があった。

 おずおずと声をかけてくる巨躯。

 その来客は2人の様子を見て、信じられないとばかりに狼狽していた。

 大きな体躯が一千歌を見下ろす。

 大きな角に浅黒い毛並み、血走ったその目に一千歌が怯える様子はない。


「何をしているんですか?妖狐様」


「おままごとだけど」


 さも当然とばかりに答える夢羅。

 大妖怪夢羅の臣下である牛鬼は何か言いたげに口をもごもごさせる。

 牛の頭をもつ凶悪な鬼はこの空気に馴染めないでいた。

 なにせ自分たちの頭である妖狐が子供とのごっこ遊びに興じているのだ。

 その真意を測ろうにも、争い事ばかりしてきた彼にはその意味がまるで見当もつかない。

 人間と妖怪は敵同士だというのに。

 妖狐の相手をしているこの子供は自分を恐れる様子がまるでない。

 大の大人ですら逃げ出す凶悪な妖怪だと自負していたのだが、牛鬼はその自信が粉々に砕け散りそうだった。


「あの、このようなことをしている場合ではないと思うのですが」


「うるさいな、今私は一千歌と遊んでいるのだ、引っ込んでろ」


「牛さんも一緒にやるー?」


「いや、あの…………」


 場違いすぎて牛鬼は自分が小さな存在になったのかと錯覚するほどだった。

 どこに子供とおままごとをする妖怪がいるというのだ。

 前から破天荒で自由奔放な妖怪だったが、ここまでではなかっただろう。

 まさか連絡を持ってきた臣下を門前払いとは……

 だが牛鬼もこのまま引き下がるわけにはいかなかった。

 此度の連絡は必ず妖狐夢羅に伝えなければならない。


「戦争が始まります」


 牛鬼は意を決して発言する。

 人間と妖怪、その戦争が始まろうとしているのだ。

 遊びなどに興じている場合ではない。


「人間の剣士が多くの仲間を屠り、我々の領域に踏み込んできています」


「…………予言の英雄か」


 夢羅の目が細められる。

 人間の巫女が予言したという人間の英雄。

 予言によればかの英雄は数多の妖怪を討ち、妖怪の栄華を終わらせるという。

 馬鹿らしい人間ども戯言。

 初め妖怪たちはそんな予言鼻で笑っていた。

 だが、その剣士が頭角を表すにつれて、笑ってもいられなくなってきていた。

 件の剣士は大妖怪すらもその刀で断ち切ったという。

 同じ大妖怪の夢羅としては無視できない話だ。

 予言の英雄には消えて貰わねばいけない、その存在は妖怪の脅かしかねないのだから。

 だが人間もそんな英雄を易々と討ち取らせはしないだろう。

 英雄の命を巡って戦争が始まる。

 そしてその戦争は妖狐の力を欲するだろう。

 昔とは違い、夢羅は今や大妖怪に相応しい武力を有しているのだから。


「チッ……下手に力をつけたのが仇になったか」


「はい?」


「仕方がない。おままごとはまた今度だな一千歌」


 人形が一千歌の手元へと放り投げられる。

 妖狐が身体を震わせると、身体の周りに狐火が揺らめき、花畑を藍に染め上げていく。

 それは大妖怪に相応しい、威厳のある妖狐の姿だった。

 妖怪としての顔を見せた夢羅を見て、牛鬼は安堵のため息を吐く。

 どうやら妖狐を戦に駆り出すことは成功したようだった。


「ずいぶんと、つまらなそうなことをしに行くんだね」


「そうだな、だが必要なことだ」


「必要……ね」


 妖狐の本性を見破ったあの黒い目が、また彼女を見つめる。

 だが、夢羅は今度は怯まなかった。

 この火種を持ち込んだのはそもそも人間だ。

 仲間を殺される所をただ黙って見ていることはできない。

 これは必要な流血だ。


「わたしたちは夢羅ちゃんの敵じゃないよ」


「そうだとしても、妖怪は人間の敵だ」


 だからこそ、人は闇を恐れ、世界を光で満たそうとする。

 ありもしない予言のなどという光に縋り付く。

 妖怪が滅びれば平和が訪れるとでも思っているのだろうか。


「すぐに帰る、そしたらまた続きをしよう」


「…………分かった。ちゃんと帰ってくるんだよ」


「当然だ。お前の身体は私の物なのだから」


 まだやりたいことも、楽しいことも、見つけられてはいないのだから。

 ここで潰えるわけがない。



 でも…………戦争は全てを飲み込んだ。




……




…………………




……………………………




「見ろ煤羽、これお隣さんからだ」


 そう言って夢羅は籠いっぱいの野菜を嬉しそうに掲げる。

 これで美味い飯が作れるぞ!と彼女は喜色満面だ。

 一方で煤羽はいつものように窓枠にとまり、ため息を吐いた。

 彼はついこの前、料理と称して黒焦げの肉塊をいただいたばかりだった。

 人間の身体を手に入れてから数週間経つというのに、この妖怪の料理の腕は全く上がっていない。

 それも当然で、彼女は自分の料理を失敗だとすら思っていないのだ。

 件の焦げた肉塊すら美味い美味いと頬張っていたのだから救いがない。

 傾国として勢を尽くした料理を食したことがあるというのに、この狐の舌は全く肥えていなかった。

 この調子ならこの野菜も無惨な姿へと変えられてしまうのだろう。

 それならいっそ生で食した方がいいのでは……

 そう呆れ果てる煤羽、その様子に夢羅は全く気が付かない。

 そもそも何故いまだに料理なんてしているのだこの大妖怪は。

 煤羽はだんだん目の前の妖狐が大妖怪だということを訝しみ始めていた。

 この野菜も彼女が畑仕事を手伝った報酬で貰ったのだ、いくらなんでも人間と仲がよすぎないだろうかこの大妖怪。


「何故敵と仲良くしているんです妖狐様?」


「人間は敵じゃないよ煤羽」


 この調子だ。

 煤羽は胡乱な視線で彼女を睨みつけた。

 ここ数週間で気づいたのだが、夢羅には死んだ女の日常を追体験しようとしている。

 村娘のように働き、汗水を垂らす。

 誰も憧れぬそんな平凡な日常を再現してしている。

 そこにどんな意味があるのか、煤羽には見当もつかなかった。

 もしかしたら夢羅は傾国に興味を失ってしまったのかもしれない。

 だが、彼女は紛れもなく妖怪で、あの戦争も経験している。

 あの戦で沢山の仲間が死んだのだ、人間への怨みがないわけがない。

 妖怪としての本能を、憎しみを、思い出せば彼女も傾国を再開するはずだ。

 妖狐に人間への恨みを思い出させる……

 実はその計画の芽はもう芽吹き始めている。

 妖狐は乗っ取った人間の女を随分と気に入っていた様子だった、それ故にこのような凶行に及んでいると煤羽は考えていた。

 それならば、煤羽が焦って動く必要はない。

 じきに夢羅は人間を怨むようになるだろう。

 件の女を殺したのは……他ならぬ人間なのだから。

 煤羽はそのことを敢えて夢羅に伝えてはいない。

 彼女自身はあの死を事故か何かだとでも思っているのだろう。

 真実を知った彼女がどう動くか……

 少なくともお気に入りの人間を殺した相手を好意的に見るのは難しいはずだ。

 そうなれば、あとは説得次第でどうにでもなるだろう。

 煤羽は自分の計画する未来像を想像してほくそ笑んだ。

 だが、その笑みも目の前で夢羅が料理を始めると引き攣ったものに変わるのだった。




…………………………




「……ふむ」


 夢羅は指を振ると頭上に狐火を浮かべる。

 窓から見える空は茜色に染まり、だんだんと暗くなってきた。

 もう夜がやってくる。

 夢羅は読んでいた本を閉じた。

 夢羅は普段本を読むような妖怪ではない。

 だがこの家の荷物を物色している時にたまたまこれを見つけてしまったのだ。

 古びた絵日記。

 この家の主、一千歌が書いたものだった。

 汚い文字と下手くそな絵、彼女の子供時代のものだろう。

 そこには夢羅との出会いも書いてあった。

 もうあの時から何年経ったのか、長い年月を寝ていた夢羅には分からない。

 日記を机に置き、今度は手鏡を手に取る。

 そこに映ったのはかつての記憶にある少女ではなく、成長した見知らぬ女性だった。

 取り戻すことのできない歳月が目の前にある。

 人形を手渡してきた少女はもういない。

 ただ、底の見えない黒い瞳だけが、確かにこれは一千歌なのだと夢羅に教えてくれた。

 窓から入り込んできた風が狐火を揺らす。

 机の上の日記の頁が捲れる。

 そこには横たわった大きな狐が描かれていた。

 赤。

 その狐が赤く塗りつぶされている。

 乱雑に塗りたくられた赤と、墨を滲ます水滴の跡。

 夢羅と一千歌の……最後の記憶。

 長いため息が夢羅の口から漏れ出た。


「あの英雄は今も健在か……」


 黒い瞳は今、憂いだけを写していた。

 そこにかつての敵対心や怨みはない。


「うん?」


 物思いに耽る夢羅の顔が上がる。

 物音がした。

 扉を叩く音、来客だろうか?こんな時間に……

 窓から見える空はもう茜色から黒へと変わっている。

 もう一度、扉を叩く音がした。


「誰だ?」


 扉を開ける、だが人影はない。

 外へ顔を出してもそこには暗闇が広がるだけだ。


「……?」


 いたずらかと思い、夢羅が扉を閉めようとした時……背後から気配がした。

 純粋な殺気。

 感じ取ったそれを頼りに夢羅は腕を振るう。

 はたして、その腕は夢羅に迫る短刀を弾き落とした。

 背後の人間が次の動作に移る前に、腕を振るった勢いのまま回転した彼女の回し蹴りが下手人の体勢を崩す。

 驚愕に歪む相手の顔面に拳を叩き込もうとした夢羅だったが、扉の外にさらに複数の気配を感じて動きを止める。


「ただの村娘相手に随分大袈裟だな」


 外に控える男たちは一様に凶器を構え、夢羅を睨みつけていた。

 そこに含まれる微かな怯えを夢羅は感じ取る。

 このように命を狙われ、怯えられる覚えはないのだが……と首を傾ける妖狐。

 彼女の脳内にはここ数週間に渡って行われた自身の奇行の数々に自覚は無いようだった。


「殺した相手が平然と日常生活を送っているんだ、警戒もするさ」


 凶器を持つ男たちの後方に、他の男たちとは違う上等な着物を着た男がいた。

 蛇のような糸目から感じる質の違う殺気。

 妬みや恨みが織り混じった薄暗い殺気。

 首謀者はあいつか……と夢羅は顎に手を当てる。

 だがそれよりも解せないことがあった。


「殺した……?」


 誰が誰を?

 こんな男に殺された覚えはない。

 ということは……もしかしてこの男たちが殺したというのは、一千歌だろうか?


「おや?自覚がない……ということはやはり東一千歌ではないのか」


「何のことだか」


 一応はとぼけてみた夢羅だが、向こうはもう何かに合点がいったようだった。

 妖狐を囲む男たちの目が人間の殺す暗殺者の目から、化け物を退治する人間の目に変わる。

 面倒かもしれない……

 妖狐としての正体がバレたのだから、得意の誘惑で洗脳した方がいいだろうか。


「何の物怪か知らないけど、その姿をとられると面倒なんだよね、分かる?」


「いや、分からんが」


 男たちの殺気が膨れ上がっていく。

 村外れとはいえ、こんな村中で殺し合いをおっ始めるつもりらしい。

 妖狐はため息を吐く。

 その顔は、心底楽しくなさそうだった。


「つまらんことに興味は無いのだが」


「やれ」


 男たちから繰り出される凶器、夢羅はそれを退屈そうに見ていた。

 理由は知らないが、こいつらにとって一千歌が生きていることは都合が悪いらしい。

 崖下で目覚めた時、頭部にあった大きな傷を思い出す。

 彼女の死因を深く考えたことはなかった。

 夢羅はその死から目を背け続けていた。

 その死は何かの間違えで、いつか彼女は目を覚ますと、そう考えてすらいた。

 だから、いつ帰ってきてもいいように彼女を演じた。

 夢羅なりに一千歌の日常を再現してきた。


「こんな奴らに殺されたのか?一千歌」


 藍が、瞬いた。

 妖狐に迫る男たち、その凶器も、家の壁や扉も、彼女の周りの物全てが藍に染まる。

 刀が溶け、地面に滴り落ちる。

 肉が焼け、炭へと変わる。

 妖狐が放った藍色の炎が彼女に近づくもの全てを焼き払い、塵と化す。


「え?」


 糸目の男は何が起こったのか理解できないのか、その細い目を瞬いた。

 中途半端に焼け残った扉の残骸が音を立てて地面に落下する。

 妖狐の周りにできた円形の焦げ跡。

 残ったのはそれだけ、男たちがそこにいた形跡すらそこには残らなかった。


「一応聞いておこうか」


 夢羅の手の中で藍の炎が渦巻く。

 黒い瞳の虹彩に炎の藍色が反射し、底知れぬ深淵を映しだした。


「どんなつまらぬ理由で一千歌を殺したのか」


 夢羅が一歩踏み出す。

 男は一歩下がる。

 消し炭になった仲間の姿が、その底知れぬ恐怖が、男を後退させた。

 これ以上近づけば自分も同じようになると容易に想像ができた。


「理由なんてどうだっていい、結局人間なんてこんなやつばかりですよ」


 黒い翼が舞い、異形の烏が夢羅の肩にとまる。

 煤羽は愉快そうにせせら笑う。

 煤羽の突然の介入を夢羅は意にも介さなかった。

 ずっと彼の視線を感じていたから。


「ば、化け物が!」


 追い詰められた男が吐き捨てる。

 異形の鳥を従えた炎を操る死人、彼にとって夢羅は化け物以外の何者でもないだろう。


「これが本当に我々の敵ではないと?妖狐様」


 煤羽が問う。

 自分勝手に同族を殺すくせに、それを棚に上げ妖怪を罵り敵視する。

 そんな奴らに味方し、滅びを受け入れるのか?と。

 そんな人間と妖怪に対して黒い瞳が見開かれる。

 その黒い深みには様々な感情が入り混じっていた。


「どうして?」


 ただそれだけ、夢羅は返した。

 どうして殺したの?

 どうしてそう思うの?

 どうして一千歌は死んだの?

 どうして傾国を求めるの?

 様々な意味が内包された問いが落とされた。

 その黒い瞳から人間は目を逸らし、妖怪は真っ直ぐそれを受け止めた。


「ただ妖の繁栄のために」


 煤羽はそう答えた。

 嘘ではない。

 だが着飾り過ぎたその言葉に重みはなかった。

 結局のところ彼は人間の腐肉を啄みたいだけなのだ。

 そのために人間優位の世の中が気に入らない、生きづらい、ただそれだけだった。


「そう」


 夢羅はその答えを否定も肯定もしない。

 戦争で、たくさんの妖怪が死んだ。

 妖怪の栄華はもうどこにも存在しない。

 昔を夢見るその気持ちを、理解できないわけではなかった。

 黒い瞳が妖怪から外れ、その視線が人間ただ1人に注がれる。


「それでお前は?」


 三度目の問いかけ。

 距離を詰められたわけでもないのに、男はまた一歩下がった。

 下がらざるをえなかった。

 下手なことを言えば死ぬ、その確信があった。


「ぉ、お前が……東一千歌が相応しくないからだ」


「何に?」


 絞り出すように男が答える。

 その目が妖狐と合うことはない。

 そこから感じられるのは、死への恐怖とほんの少しの憎悪。


「お前は花嫁に相応しくない!あの人に相応しいのは巫女様だけだ」


「花嫁?巫女?訳が分からないな」


「巫女とはあの予言の巫女ではないですか妖狐様」


 人間界で巫女と言えば一番有名なのは英雄を預言した予言の巫女だろう。

 だがそれが一千歌と何の関係がある。

 ただの村娘がなぜそんな大物と引き合いに出される?

 意味のわからない組み合わせで憎悪の感情を向けられ、妖狐は眉を

 顰める。


「たとえお前が予言の花嫁だろうと、英雄様と結ばれるのはお前であるはずがないッ!」


「うん?」


 夢羅はキョトンと首を傾ける。

 誰と誰が結ばれるって?

 煤羽と目を合わせると烏は困ったように見返してくる。

 その瞳がお前だと言っていた。

 結ばれる?英雄と?

 一千歌が…………?


「ふっ…………はは……」


 口から断続的に空気が漏れる。

 笑っているのだろうか、愉快に感じているとでも?

 だが笑うしかないだろう、なんだその予言は。


「流石は私の魂の適合者といったところか……只者ではないと思っていたが、まさかあの英雄の花嫁とはな」


 どんな巡り合わせだというのだろうか。

 自分が乗っ取ったこの肉体が英雄の花嫁と予言されていたとは。

 殺し合ったあの男とこんな形で再開するなどと想像もしていなかった。

 もう用済みだと言わんばかりに夢羅は男を蹴り倒す。

 結ばれるはずの花嫁の中身が妖狐だと知ったらあの男はどんな顔をするだろうか?


「あの日私を殺さなかったことを後悔しないとほざいていたが……はたしてどうなるかな?」


 男の頭を足蹴にしながら、夢羅は仄暗い笑みを浮かべた。




……………………………




…………………




……




 街が燃えている。

 怒号と悲鳴がおり混じる騒音の中、妖狐は剣士と対峙していた。

 妖狐の足元に黒い塊が転がる。

 それはかつての臣下だったもの。

 首を切り離された牛鬼の身体が大きく震えると、その巨体を地面に横たえる。

 英雄たる剣士は熱のない瞳でそれを見つめていた。


「……英雄」


 妖狐は血と共に憎しみの籠った言葉を吐き出す。

 妖狐の身体には無数の刀傷が走りその身体を赤く染めていた。

 大地に染み渡る妖怪たちの血、その上に立つ英雄もまた無傷ではない。

 無数の切り傷に、狐火によって負った大きな火傷、常人であれば既に致命となる傷を彼は負っていた。

 だが、この場に立っているのはその剣士だけだ。

 妖狐を含めた妖怪の軍勢は皆地面に伏し、その多くが命を失っていた。


「傾国の妖狐か」


 英雄の刀が妖狐へと向けられた。

 刀の鋒が彼女の首筋を撫でる。

 だが、彼はそれを差し込むことはなかった。


「随分と報告と違うね」


「人間如きに私の何が分かる」


 悪態と共に血を吐きかける妖狐。

 彼はそれを拭うこともせず、ただ妖狐を見ていた。


「君は兵士以外の人間には決して手を出さなかった。それどころか炎で追い立て、人々を戦いの場から遠ざけたね。とてもあの傾国とは思えぬ振る舞いだ」


「都を戦いの場に選んだ貴様がそれを言うか!」


 文字通り血を吐くほどの怒号に、剣士は顔を俯かせる。

 人間と妖怪の戦争、それは都の中心で起こった。

 沢山の罪なき市民が死に、そのほとんどが戦いと関係のない人間だった。

 人間にとっての大きな打撃。

 だが、都の内部で戦争を始めたのは人間自身だった。

 都を包む結界を破ったと妖怪たちに勘違いさせ、攻め込んできた妖怪たちをその結界で閉じ込める。

 市民という肉を切らせて骨を断つ非情な作戦。

 人間の希望と呼ばれる英雄がそんな作戦を選ぶことに、夢羅は失望を隠せずにいた。


「そうだね、これは英雄とは思えない作戦だ。それでも……勝ったのは僕ら人間だ」


 そこには絶対的な結果があった。

 どれだけ非情だと罵られ、数多の同族を死に至らしめようと、勝ったのは人間だ。

 結界内の妖怪たちは退路を絶たれ、その殆どが命を散らした。

 これだけの数の妖怪がこの世から消えるのだ、妖怪がかつての繁栄を取り戻すことはもう不可能に近いだろう。

 予言の通りに、妖怪の栄華は終わる。


「御宅を並べずにさっさと殺せ、それが目的だろうが」


「うん………………そうなんだけどね」


 妖狐は睨みつける。

 勝利したはずの男の顔が気に入らなかった。

 戦争なのに……殺し合いなのに…………始終罪悪を拭えぬその顔を噛みちぎってやりたかった。


「こうなるって分かって決断したはずなのに。それでも僕は殺したくなかったんだ」


「なんだそれ後悔しているとでも?」


 死を量産したのは誰だ?

 先に戦いを仕掛けたのは誰だ?

 人間に害をなす存在として生まれ落ちた妖怪か、それともそれを討伐した人間か。


「はッ……おままごとだな」


 妖狐は英雄の後悔を鼻で笑った。


「傾国の妖狐、予言の英雄、私とお前は与えられた役割を演じただけだ。そこに意志はなく、ただ周りの期待を裏切れなかっただけ。なぁ……滑稽だとは思わないか?」


 夢羅の言葉に剣士の刀が下がる。

 彼にとってその刀はひどく重たそうに見えた。


「…………………………」


 沈黙。


 その後。


 刀は静かに鞘に収められた。


「…………殺せよ」


「やめておくよ…………君の言う通りだと思ったんだ」


「最後までやり通せ、薄弱」


「もうどうせ長くないんだ、君も最後くらい自分の意思で動いてみたらどうだい?」


 剣士は妖狐から背を向けると静かに歩き始める。

 英雄の道を選びながら、最後の最後で躊躇う。

 夢羅はその臆病さを責めたが、その選択を憎むことができなかった。

 少女の暖かさに絆され、傾国の道を外れたのは夢羅もまた同じだったから。


「私は……死なない…………後悔するぞ」


「しないさ、きっとこの選択は意味のあるものだから」


 血に塗れた妖狐が、地面を這いずり都を離れる。

 人間の英雄はそれを止めなかった。

 妖狐を見逃すように結界は沈黙し、彼女を見逃した。

 燃え盛る街の中、赤い足跡が伸びていく。


「……一千歌……」


 怒号と悲鳴の中、小さな呟きが夢羅から漏れる。

 すぐに帰る、そしたらまた続きをしよう。

 その約束だけが、死にかけの妖狐を突き動かした。

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