第17話

 借りた大きめのディンギーはよく風を受けてくれた。よく飛ぶ。よく飛ぶが随分と年季が入っていておんぼろだった。どこかで盗んだのだろうか。そのまま逃亡されてもいいディンギーをエイナイナにあてがったのだろうか。


 エイナイナだって逃げ出すことが出来そうだと気づいてはいた。しかし逃げ出すなんてあまりにも自分らしくない。空賊の生活を否定するならば、空賊と正々堂々と戦い、自分の死をもって正義とは何かを教えてやる。エイナイナはそう考える人間だ。ではクウェイラやバーボアに対して「お前たちの生き方は間違っている」としざまに言い放ちたい気持ちを抑えているのかと問われると、それも違う。中に入ってみるとそれほど異質な人々には思えないのだ。少なくとも、自分の欲望のために悪事に手を染めているごろつきという印象は無い。


 クウェイラ達の説明は逃げてもいいぞみたいな口ぶりだった。つまりエイナイナが逃げ出したとしても、ヤーナミラはコーノック伯の船に仕返しをしに行くというようなことはしないつもりだろう。その寛容さはむしろエイナイナを苦しめる。クウェイラだってそうだ。クウェイラもバーボアも気のいいやつだった。ただ空賊として生きているというだけだ。


 化外の地という言葉を使うことで化外の地を知った気になっていた。実際にその地に暮らしている人々がどういう人々なのか、思いを巡らせたことはなかった。しいて言えば、漠然とだがシューニャのような野蛮な人々の集団なのだろうと勝手に思い込んでいたのだ。そんなシューニャでさえ、子どもたちとは楽しそうに過ごしている。

  

「いっそ牢にでもぶち込んでくれればどれほど楽だったことか……」


 西に飛べば大陸のどこかしらにたどり着く。大陸にたどり着けばエイナイナが迷うことは無いだろう。しかしエイナイナが向かっていたのは南だった。


「わたしには先にやることがある」


 南の温かい大陸に流れ込む風を上手く捕まえることが出来た。四時間も飛ぶと水平線の彼方に雄大な山脈が姿を現した。その山脈を視界に捉えながら少しずつ西寄りに進路を変える。山脈の形を覚えているわけではない。しかし最も高い峰を見つければそこが目的地のはずだった。そしてエイナイナはそれを見つけた。


「あった。あれに違いない」


 一際高く鋭く天を貫く岩山だった。あまりにきれいな四角錐しかくすいが心を打つ。


「シニノッタ峰だ。美しい……」


 シニノッタ峰の頂きには巨大な波動台があった。波動台は何本もの石柱に巨大なドームの屋根が支えられている。それはまるで石造りの神殿だ。シノニッタ峰は実際に宗教的な意味も持っていて、波動台の頂点から地面に向かって何本も張られた綱には沢山の色とりどりの小さな旗がはためいていた。そしてその波動台の中心部には巨大なクラゲの耳が固定されているはずだ。石柱の間を通り抜けた風がクラゲの耳を振動させる。波動計を持っている者ならばはるかかなたに居てもシニノッタ峰の方向が分かるという寸法だった。


 実用的な理由のある施設ではあるが、シニノッタ峰自体がディンギー乗りにとっては信仰の対象であり、聖地なのだ。そしてそのシニノッタ峰から深い谷で隔てられた南側、少し標高の低い場所にシノニッタの街が広がっていた。化外の民、キッドニア人、空人そらびと……。呼び方はいろいろあるが、要するにここは彼らキッドニア文化の中心地であり、クラゲ産業の中心地であった。


 既にいくつものディンギーが付近を飛んでいることに気が付いていた。ディンギー文化が根付いているのだ。ごく最近まで、ディンギー無しでシノニッタにたどり着く道は存在しなかった。まさに「化外の地」の象徴のような場所だった。その地上ルートを開拓したのが帝国の諸侯の一人、ルッパジャ伯だ。五年前、ルッパジャはキッドニアに進軍、キッドニアは帝国に組み入れられた。


 エイナイナはディンギーでぐるりと大きく回り、キッドニアの街を観察した。通りには多くの人が行きかっている。港には二隻の軍艦が停泊し、そして空にはディンギーが飛び交っていた。軍艦の一隻は前日にヤーナミラの一味が襲撃したルッパジャの軍艦バイソンナだった。修理をしているらしいことが分かる。


 大きな街だが……、しかしさみしさがある。おそらく標高と乾いた風のせいだろう、植生しょくせいがさみしく、石積みの家々ばかりが目立つ、全体的に茶色い印象の街だ。気になるのは、南の方に建築様式の違う建物がたくさん集まっていることだった。


「あれは、ルッパジャの入植者たちの区画か……。そうか。ここはもうキッドニア人だけの聖地ではないのか」


 シノニッタの街はまるで二つの文化が共存しているかのようだった。石積みの家々にはエイナイナは異文化を感じた。ディンギー乗りとして憧れたシノニッタのイメージそのものだった。しかし南の方のレンガの造りの建物は、エイナイナの慣れ親しんだ文化だったのだ。一抹いちまつのさみしさがあった。

  

 すると軍服を来た男がディンギーで近づいてきた。ルッパジャの軍服だ。帝国軍人には違いないがコーノックの軍隊に所属していたエイナイナはそれほど親しみを覚えない。ルッパジャもコーノックも同じ帝国の領邦だが、ケルメス帝国の一体感とはその程度に過ぎなかった。


「何をしている?」と軍服の男。

「シノニッタは初めての訪問なので観察している。厳戒態勢なのか?」

「まあそうだな。だから港から入ってくれ」


 エイナイナは言われた通りに空港へと降り立った。と言ってもエイナイナの場合明確な目的地がないのでどのみち空港に降りる予定だったが。


 さすがシノニッタの空港は大きかった。ディンギー用の発着場はきっちりと整備されている。着陸場と離陸場が分けられていて分かりやすい。そして隣には大型の飛行船を係留するための桟橋さんばしが何本もある。


 谷を駆け上がってくる風が強く、エイナイナはぎこちなく着陸した。エイナイナが着陸すると紺色の民族衣装を来た青年がおもりを持ってきてくれた。青年は錘をディンギーのシートに入れ、そこで待っていてくれた。エイナイナが命綱を外していると、こんどは軍人がやってきてエイナイナに質問した。


「ここに来た目的は?」

「休憩だ」

「休憩?」

「わたしはコーノックで運び屋をしている。キナンテに向かう途中だがついでに立ち寄った」

「遠回りじゃないのか?」

「そうだな。じつのところ前々からシノニッタには興味があった。せっかくだから見ておきたいと思ったんだ」

 興味があったのは真実だが、ほぼでまかせだった。軍人もいぶかしそうにエイナイナの顔を見た。

「なんだなんだ。空でも声をかけられたが、なんだか軍人が多いしずいぶんと警戒しているんだな。運び屋だろうが巡礼者だろうが珍しくは無いだろう?」

 すると別の軍人がやってきて、声をかけた。

「この街では近々催し事がある。その関係でお客様が来ているんだ」

 長身でやせぎすの男だった。軍服を着ていて、手に馬鞭ばべんをもっている。馬鞭……、シノニッタには似つかわしくない。それがエイナイナが抱いた最初の印象だった。そして階級章と態度から察するに現場を取り仕切っている立場にあるらしいことがわかる。

「お客様? ああ、それで軍艦が二隻も停泊しているのか」

 男はエイナイナをじっくりと観察しているようだった。

「私はコーノック伯領で運び屋をやっている。怪しいものではない」

 そう言ってエイナイナは届け物の筒をポケットから出して見せた。

「本当だろう。空賊にしては飛び方が未熟だった」

「そういわれるとしゃくだが、まぁそうだろうね」とエイナイナ。「行ってもいいかな?」

「シノニッタへようこそ」と、やせぎすの軍人。

 話しぶりというか、物腰というか、なんだかいちいち鼻につく男だった。エイナイナは少し意地悪な質問をしてみたくなった

「ところで……、」エイナイナは軍艦バイソンナを指さす。「あの軍艦はずいぶんと損傷しているようですね」

「先日、空賊の襲撃を受けた」

「なるほど……。キッドニアは平定され政情も安定していると聞いていたが、そういうこともあるんですね」

「キッドニアのほとんどの地は平和だが、ここシノニッタは帝国の最前線なのだ。ここから北へは飛ばない方がいいな」

「なるほど……」


 "化外の民"と帝国側が呼んでいた空賊たちに実際に出会ったエイナイナは違和感を感じていた。これはつまり、ルッパジャ伯領は自分たちに都合のいいように"化外の民"を説明していたのではないかという疑念だ。ルッパジャはルッパジャの軍事力をもってキッドニアを平定し帝国の領域の拡大に寄与したが、最前線が東に広がった結果、空に暮らす化外の民からの攻撃にさらされている――、というのがルッパジャの用いたレトリックだった。しかし真実はというと、ルッパジャはルッパジャに従順なキッドニア人を「キッドニア人」とよび、従順でないキッドニア人を「空賊」だとか、「化外の民」だとかと呼んでいるのだろう。


「だが少なくとも……」と、やせぎすの軍人が続ける。「地上は安全だ。空賊が集団で地上に近づくことはない。さっきも言ったが、この街の警備が強化されているのは、近々ディンギーレースが開催されるためだ」


 ディンギーを預かってくれた青年が木の割符わりふを渡してくれた。帰るときにこれを見せればディンギーを用意してもらえるはずだ。軍人が多くて煩わしかったが、手続きも簡単で使いやすい空港であることは間違いない。

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