第2話

 ラウンジにはエイナイナの部下二名が待機していた。


「近衛兵隊、上部甲板かんぱんに移動するぞ」

「了解!」と衛兵たち。


 この飛行船に乗り合わせている近衛兵隊は五人。そしていま一人乗りの小型飛行船、ディンギーで外に出ているのが二人。ディンギーは全部で四艇だった。他国の軍艦や海賊船と交戦するには――そして大クラゲと交戦するには――心もとないが、日頃はコーノックの領土上空を移動しているだけなのだ。コーノック家の飛行船は鳥以外の敵を想定していなかった。


 エイナイナは足早に移動しながら部下たちに状況と任務の説明を行った。


「船の気球部分に大クラゲが貼り付いているということだ」

「はい」

「それを追い払うのが我々の役目だ。マスケット銃でクラゲの気嚢きのうに穴をあけることを想定しているが、実際に見てみないことには作戦が立たない。ニカーノ、わたしと出るぞ。リマンセは待機だ。いつでも出られるようにしておけ」

「はい」


 梯子はしごを登る衛兵隊。外につながる扉を開けると、強い風を感じる。カランカランとかねが鳴り続けている。この鐘があれば雲の濃い中でも飛行船の場所を特定することができた。


 帝国の北部地域のようにあまり航空技術の発達していない地域では海に浮かべる船をクラゲの気球でったような飛行船を用いた。船舶という既存技術の転用は飛行船の維持を容易にしたが、反面で問題も多かった。上部甲板の上に気球があるため、飛行船を母艦とした小型艇すなわちディンギーの運用が難しかった。発着場所も限られたし、上手く飛び上がらないと気球部分に接触する。もちろん作業を終えて着艦するののも技術が要求された。


 ディンギーはうり型の硬質な気球の両脇に折り畳み式の水平の翼がついた形をしている。それは狭いコクピットに座って、主に重心移動で操縦する一人乗りの小型の飛空艇だ。北部はもちろん帝国のほとんどの地域にいてなかなか手に入らない代物しろもので、加えて操縦には特殊な技術を必要とした。このディンギーの扱いにけているのが帝国の域外に暮らす化外けがいたみだった。


 ディンギーは帆が畳まれた状態で係留ロープで甲板に固定されていた。エイナイナはマスケット銃をたずさえてディンギーの狭いコクピットの中に収まった。そのエイナイナにリマンセがおもりを渡した。錘を持っていないと係留ロープを外したとたんに浮き上がってしまう。錘は飛び立つ直前に足元の穴から落とすのが通例だった。

 リマンセは備え付けられているベルを鳴らした。カーンカーンカーンと乾いた音が響いた。これによってディンギーが発艦することが周囲に知らされる。


「風が強いので甲板での移動が楽でいい。いけるぞ」


 エイナイナがそういうとリマンセは係留ロープをほどいた。エイナイナは風に押されて滑るように甲板を移動し、そのまま空へと放りだされた。エイナイナはすぐに水平の帆を開き、そして風を受けてディンギーを上昇させた。あとから出てくるニカーノとの接触を避ける必要があった。


 視界は良くない。しかしカランカランとなり続ける鐘のおかげで飛行船の位置は分かる。頬にぶつかる雲がひんやりとしていて、緊張感があった。水平の帆が風を切る振動がブルブルと伝わってくる。


 エイナイナは自分の位置を知らせるために笛を吹いた。するとすぐに先行していたディンギー隊の二人がエイナイナの横につく。タライモとケテサだ。


「さっきより雲が薄くなったか?」エイナイナが尋ねる。

「そうですね。それほど近づかなくてもクラゲが見えるようになりました」


 するとまた甲板に備えつけられているベルが鳴る。つまりニカーノが出てくるのだ。エイナイナはニカーノにも位置を知らせるために笛を鳴らす。

 ニカーノが出てきて、合流すると、エイナイナは作戦会議を始めた。


「そろったな。マスケットは準備できているか?」

 実のところ、エイナイナも考えがまとめ切れていないのだった。一呼吸ひとこきゅうおき、そして話し始めた。

「船側で出来ることは少ない。そのためディンギー隊がクラゲを追い払うか、排除するという方向で話がまとまった。さしあたってマスケット銃でクラゲの傘に穴を空けるという方法を試してみたい。実際にクラゲを見たタライモ、ケテサの意見はどうだ?」

「妥当だと思います。狙いが傘ならばこちらの安全が確保しやすいですから」

 とタライモ。一方のケテサ、

「試してみる価値はあると思いますが、簡単に穴が空くようには思えません」

「どういうことだ?」

「クラゲには傘に甲を持つタイプがいると聞きます。あのクラゲはそのタイプのように思います。傘に柔軟性が感じられないのです」

「なるほど。ではこうしよう。ここにいる四人が一撃ずつ、同じ場所に弾を打ち込む。それで様子を見る」

「いいと思います」

「飛行船を傷つけないように三時から九時に向かって飛ぶ。同士うちに気をつけろ」

「了解」

「クラゲを確認するために一周回ってから射撃体勢に入る。ついてこい」


 雲が薄くなり、随分と視界が良くなってきた。ディンギー隊は隊列を組んで飛んだ。まずは飛行船の右側にまわり、エイナイナがディンギーを船首の方へと進めるとすぐに、飛行船の気球部分にうクラゲの触手が目にはいる。

 それは半透明でしなやかで、複雑な造形の触手だった。平たいところがあったり、肉厚のところがあったりして、まるで海藻のようだった。それが何本も何本も気球部分にまとわりついている。ぶるんと振り回せばいまエイナイナが飛んでいる位置まで届くかもしれない。迫力に驚いたエイナイナは飛行船から少し距離をとった。

 そこからさらにディンギーを前に進めるとクラゲの全体像が見えてくる。


「でかい……。船が傾くわけだ」


 傘の直径は二十メートル。飛行船ガブーストの気球部分と遜色そんしょくない大きさだ。半透明のそら豆のような形の傘はしっかりと形を保っていた。ケテサの言っていた通り、内部になにか構造体を持っているように思える。触手にも二種類あるように見えた。飛行船に巻きついている巨大な海藻のような触手と、それから傘、すなわち気胞体の直下にあるモシャモシャとしていて黄味がかった触手の二種類だ。モシャモシャした触手は飛行船の気球部分に押し付けられ、そしてウネウネと脈動していた。


「食べようとしているのか?」


 仮にモシャモシャの触手にかじられたとしても、飛行船の気球内部は隔壁かくへきによってへだてられているので、一か所に穴が開いても問題とはならない。


 エイナイナは大きくぐるりと回って、肩からかけていたマスケット銃を下ろし、左手でディンギーのハンドルを握ってを機体安定させつつ、右手でマスケット銃を構える。ディンギーで銃を扱うことは非常に難しい。


 ケルメス帝国にとって空域の活用はあらゆる面で手探りだった。帝国より東に暮らす化外の民は昔から飛行船を使い、ディンギーを駆って生活していたが、帝国の人々が飛行船を輸送や移動の手段に使いだしたのはここ十数年のことだ。扱いの難しいディンギーは未だに普及しているとは言い難いが、帝国でもディンギー乗りの需要が高まりつつある。


 帝国に於いて飛行船の役割が増すのと同時に空賊くうぞく化した化外の民による襲撃も増加した。護衛ディンギーのついていない帝国の輸送船はディンギーを自在に操る空賊の格好の獲物だったのだ。


 飛行船の護衛の必要性が高まり各地でディンギー部隊が組織されるようになったが、あらゆる面で未熟だった。ディンギー部隊でも陸戦で使われるマスケット銃が用いられたが、ほとんど武器としての意味を成していなかった。当たらない上に次弾装填に時間がかかるのだ。ましてエイナイナの部隊はみんな女性のコーノック伯爵はくしゃく近衛兵隊である。彼女たちにとってマスケット銃は片手で操る武器としてはあまりに重かった。


 それでも狙いが直径20メートルのクラゲの傘ならば外れる心配はない。エイナイナが引き金を引くと、バーンッという音とともに白煙が上がる。当たったのは間違いないが手ごたえはなかった。


「撃ちぬけないか……」


 そのまますぐに機体を上昇させてクラゲとの衝突を回避する。直後に背後でまたバーンと音が鳴った。後ろに続いていたニカーノのマスケットだった。しかし三番目、四番目が続かない。エイナイナは大きく旋回し、仲間の様子を伺う。ニカーノもタライモもケテサもちゃんとついてきていた。


 三番手、四番手のタライモとケテサが発砲しなかった理由は、大クラゲがとった不規則な動きを警戒したためだった。初めて見る大クラゲである。触手の間合いもよくわかっていないのだ。


 エイナイナとニカーノは旋回をしながらマスケットの弾込めを行った。


 そして四人は隊列を組んで同じ行動を繰り返した。今回は四人とも弾を発射し、全弾がクラゲの傘に当たったが、それでも結果はかんばしくなかった。クラゲの甲は思っていた以上に硬い。四人はまた旋回しながら弾込めを行う。


「思っている以上に甲が硬い」エイナイナが言う。

「やはり同じ場所を狙わないとだめです」そう提言したのはニカーノだった。

「とはいえ、頭頂部に行くほど甲が分厚いように思います」ケテサがそういうと皆が頷く。「触手から遠い頭頂部を狙えれば楽なんですが……」

「かと言って触手を警戒して遠くから撃っていては威力も着弾も分散してしまいます」とニカーノ。

「同じ意見だ。皆で同じ場所を狙うべきだろう。それもクラゲの口に近いあたりだ。弾痕が二つ集まっている場所があった。あそこに集中させよう。しかし、撃つのは近づけた時だけでいい。無理はするな」

「了解」と三名。

「確認だ。攻撃に入る方向と順番は守ること。しかし危険を感じたら攻撃する必要はない。穴があくまで三週、四週と続けよう」

「了解」


 それから代わる代わるクラゲの間合いに入っては銃を撃ち、離脱するという手順を繰り返した。大きく飛行船の周りを回りながらマスケット銃に弾込めをし、またクラゲに向かっていくということを繰り返した。もちろん撃っても狙った場所に当たらないということもあったし、引き金をひく前に危険を感じて退避することもあった。


 みんな十分注意していたはずだったが、三週目のタライモの番の時だった。クラゲに近づき過ぎたタライモが大クラゲの触手にはじかれた。声をあげたのはタライモの後ろを飛んでいたケテサだった。


「タライモ!」


 その声に驚いてタライモを目で探すエイナイナ。タライモの乗っていたディンギーと、そこから放り出されたタライモが宙を舞っていた。バラバラとこぼれ落ちるディンギーの部品。もっとも繊細な部分、水平帆の残骸だ。

 隊長のエイナイナはすぐに笛を吹いて作戦の中止を知らせた。そのままタライモの方へとディンギーをる。しかしディンギーから放り出されたタライモが地上へ落下することはまぬがれそうだということは遠くからでも確認できた。

 ディンギー乗りは皆ディンギーと自分自身を綱で結んでいる。ディンギーの水平帆が壊れたとしてもディンギー自体が気球となっているため、タライモは命綱で気球にぶら下がるという形になったのだ。


 エイナイナが到着するまでにはケテサが自分の機にタライモを乗せて、タライモの命綱を手繰り寄せて居るところだった。タライモに意識があることも確認できた。


「隊長……」と、タライモ。「面目ないです。でもあと少しだと思います。穴が空きそうな気がします」

「ケテサ、タライモを船に戻してやってくれ」エイナイナは言います。「ニカーノ! けりをつけよう」


 エイナイナとニカーノはもう一度、大クラゲに対する攻撃に向かった。

 左手でハンドルを握り右手でマスケット銃を構える。銃の先端は風防で支える。随分慣れてきた。しかしそうは言っても地上で銃を構えるのとは違う。確実に当てようと思うとクラゲに近づかなければならない。


――ギリギリまで……


 この時エイナイナは、なぜか自分の手が震えていることに気がついた。


――なぜ震える……。何を恐れる!


 そして発砲音が響く。パーン……と!


「やったぞ!」


 手ごたえがあった。そしてすぐにニカーノの発砲音が聞こえ、穴を広げることに成功した。


 クラゲのガスは目には見えないが、クラゲが浮力を失っていく様子が分かった。浮力を失いつつあるクラゲはその触手を一本ずつうねらせ、飛行船に強くしがみつこうとしているようだった。そしてガスを失ったクラゲはその体重の全てを飛行船に負わせた。飛行船は傾きを強め、沈み始めていた。

エイナイナの顔から満足感が消えた。


「飛行船を放さない……」


 はっと気づいて眼下に目をやるエイナイナ。そこには海が広がっていた。


「なんということだ。我々はすでに海上まで流されている!」


 ガスの抜けたクラゲは落ちないようにと一層強く飛行船にしがみついているようだった。少しずつ降下を始める飛行船……。下に陸地があれば悪い話では無かったかもしれない。しかしこのままでは船は洋上に落ちてしまう。


「くそっ!」


 エイナイナは苛立いらだち始めた。いや、気丈にふるまってはいたもののタライモが撃墜されたときからエイナイナはずっと動揺していたのだ。


――なんてざまだ。不甲斐ふがいない。不甲斐ない。不甲斐ない。私は主、コーノック伯を守るためにあらゆる状況を想定して訓練をしてきたはずだ。どうしてこんなことに!


「隊長!」とニカーノ。

「ロープだ。ロープを巻きつけて引っぺがそう」

「取ってきます」とニカーノ。

「船には上昇圧力をかけてもらって、我々が風を利用して下方向にクラゲを引っ張るのがいいだろうな。船員にも伝えておいてくれ」


 ロープを取りに行ったニカーノはケテサと一緒に戻ってきた。クラゲの触手の一撃をくらったタライモは大きな怪我はしていないということだった。


「それは良かった」

「ディンギーさえあれば出撃できると言っていましたよ」


 しかしタライモのディンギーは壊れてしまった。ディンギーはもう、ここにある三隻しか残っていなかった。


 その三隻のディンギーを使って三人はロープをクラゲの傘の部分に巻きつけようと奮闘した。ロープは十分な長さがある。しかしどこに結ぶか。クラゲの触手にはそれなりに力があることが分かったので触手に結ぶのは難しいだろう。近づくのも危険だし、触手を振り回されれば力負けしてしまう。傘の頂きは安全そうに思うが引っかかりがない。


「危険だが、傘の根本に巻きつけるしかない……」


 二人でロープの両端を持ち、傘の根本、傘と触手の束のつなぎ目の一番くびれた部分にロープを巻きつけて、引っ張る作戦だ。ニカーノとケテサがロープを持ってクラゲに近づいていった。この時点でエイナイナは危険を直感していた。


――クラゲが触手を振り回して、二人と繋がったロープをひっかけたらどうなる?


 しかし、他に代替案が思い浮かばないエイナイナは作戦を中止する決断が出来なかった。そして懸念けねんは現実のものとなった。


 ニカーノとケテサが二人でロープを巻きつけようと骨を折るが、クラゲはすぐに触手をぶんぶんと振り回した。そして案の定、ロープがその触手に巻き込まれた。ニカーノはとっさにロープを放したが、ケテサの持っていたロープがディンギーに引っかかり、ケテサはクラゲの元へとぐんっと引き込まれる。


「ケテサ!」


 ディンギーから放り出されたケテサ、今度はディンギーとケテサの腰とを結ぶ命綱いのちづながクラゲの触手に絡みついた。クラゲが触手を振り回せば、そこに繋がったケテサが右から左へと宙を飛び交い、ケテサは飛行船の気球部分に衝突した。ディンギーの水平帆が破壊され、骨組みが弾けてパラパラとこぼれ落ちていく。


 飛行船ガブーストの場合、気球はやわらかい素材で中に入っているものはガスだ。そのため気球との衝突は必ずしも致命傷にはならないものの、あまりにも危険な状態だった。


「ケテサ、ナイフで綱を切るんだ!」


 ケテサはクラゲの触手から繋がる命綱の先に力なくぶら下がっている。クラゲも触手の先に何かがぶら下がっているのが不快なのだろうか、すぐにもう一度触手を振り上げた。それに合わせてケテサの身体も宙に浮かび上がった――、その時!


 スッと急降下する白い影。ディンギーだ。それに乗った大きな男がほこのようなもの振りかざすと、ケテサが繋がっているクラゲの太い触手が断ち切られた。ケテサと命綱とそれが繋がる触手の切れ端は勢いあまって中空へと放り出された。急降下してきた男はそのままの勢いで、なめらかなディンギーさばきでケテサを片手で拾い上げた。大男の腕の中、ケテサは意識を失っているようだった。男がケテサが腰にぶら下げていた救命気球の紐を引っ張るとポンっという音とともに気球が開いた。


 ケテサは気球にぶら下がったまま空に漂った。

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