空賊のお仕事: 主人を助けるために空賊に身売りされました

秋山黒羊

第1話

 突然、飛行船ガブーストを衝撃が襲った。ズーンという音と、それに続いで侍女じじょらの悲鳴がラウンジに響く。


――きゃー!

――いったい何です?


 侍女らはその場にしゃがみ込み、一人の赤い軍服を着た女性の方に目をやる。近衛兵このえへい隊長のエイナイナだ。

「なんだ? 何事だ!」と、エイナイナ。

 しかし侍女たちは首を振るばかりだった。

「乱気流か……?」

 すると侍女の一人がはっと立ち上がり、

「ケーヒニナ様!」

 と叫ぶとあわてて走り去った。


 コーノック伯ケーヒニナ。帝国でも珍しい女領主おんなりょうしゅである。それも十三歳という若さだった。そのため身の回りの世話をする侍女はもちろん、伯爵はくしゃくの身辺警護を任されている近衛兵隊も女性で固められている。その近衛兵を束ねるのが隊長のエイナイナだった。


 先ほどの衝撃の余波で飛行船はゆっくりと揺れていた。その揺れに合わせ、ミシミシ、ミシミシっという音が響いていた。エイナイナは窓に近寄り外に目をやる。しかし窓の外は真っ白で状況が掴めなかった。飛行船は先ほどから雲の中を飛んでいる。


「なんだいまのは……。でも折れたか?」


 エイナイナが呟いた瞬間、すぐに二度目、続いて三度目の衝撃が飛行船を襲う。最初こそ驚いたが、その衝撃は立っていられないというほどでは無かった。その後も断続的にぐんっぐんっという衝撃が続いていた。まるで飛行船が何かと引っ張り合いをしていて、少しずつ引き込まれているようなそんな感覚だった。


 ラウンジに居合わせた侍女はみんなうようにして真ん中にある柱の元へと集まった。何しろ飛行船のゴンドラの壁は薄い。もっとも安全なのが中央の柱なのだ。


「傾いています!」と、侍女の一人。

 確かにフロアは傾いているようだった。しかしそれでも急激に高度が落ちているというような様子でもなく、それなりに安定している印象があった。

 エイナイナはすっと立ち上がり、

「私もコーノック伯をうかがってきます」

 と告げて、ラウンジをあとにした。 


 何が起きているのかは分からない。しかしコーノック伯ケーヒニナ・アールゴの直属の衛兵えいへいとして主人の安否の確認がエイナイナにとって何よりも重要なことだった。


 客室へ向かう途中の狭い通路で侍女じじょに出くわす。

「ああ、エイナイナ様!」と侍女。

「伯の御様子は?」

「心配いりません。一体なにが起きているのですか?」

「分かりません。伯のおそばに控えていてください。救命気球を準備しておいてください。状況を把握はあくでき次第、報告にあがります……」

 

 その時ちょうど慌てた様子で船員が一人航海室こうかいしつから出てきた。狭い通路に三人が鉢合わせたのだ。


「失礼、何が起きているのですか?」

 そう言いながらエイナイナは通路の壁に張り付き、道を開けた。

「失礼。分かりません。気球上部に異常があると思われます。現場を確認してまいります」と船員。

 船員は足早に甲板かんぱんに向かっていった。その船員と入れ替わるようにエイナイナは航海室へと向かう。定員はせいぜい二十名の小さい飛行船。ラウンジから航海室へ――などと言うと聞こえはいいが、となりの部屋に移動するくらいのものだった。


「何が起きているのですか?」


 航海室に飛び込むなり叫ぶエイナイナ。しかし船員たちはちらっとエイナイナに目をやるだけで、相手にはしてくれなかった。


――高度は?

――5200

――もっと下げろ

――下がりません

――ガス圧は?

――安定しています


 航海室は緊迫した雰囲気だった。この緊迫感はつまり想定外のことが起きているということを意味した。そしてだれも状況を把握していないらしいことも見て取れた。しかしそれも無理はない。本来は見晴らしの良いこの航海室でさえ、今は真っ白い雲に囲まれていて何も見えないのだ。


 白い制服の船員たちはあっちの窓へ、こっちの窓へと移動して上を覗き込んでいた。エイナイナの着ている近衛兵隊の赤い制服はこの空間ではとても浮いていた。エイナイナは邪魔にならない場所に移動し、成り行きを見守った。


 そもそも、この飛行船ガブーストのような簡易かんい軟式なんしき飛行船は玉子を横にしたような大きな気球の真下にやや小さめのゴンドラ、すなわち居住空間がぶら下がる形をしている。もちろん航海室もゴンドラ部分にあり、たとえ雲が晴れていたとしても気球部分の上で何が起きているかは分からない。状況を把握できているものがいるとすれば、ディンギーと呼ばれる小型の船で飛行船の周囲を警戒している衛兵たち、すなわち近衛兵このえへい隊長エイナイナの部下だった。


 エイナイナはもう一度近くの船員に話しかけようとしたが、その瞬間に船長がパッと手をあげ、航海室は静まり返った。その理由はすぐにわかった。船長は伝声管からの報告を受けたのだ。静まり返った航海室にはミシミシ、ミシミシと船体のきしむ音が響いていた。


 そして伝声管からはこもった声が聞こえてくる。


――上甲板じょうかんぱんより報告。ディンギー隊によれば気球上部を巨大なクラゲにしがみつかれているとのこと。


「大クラゲだと? それは衝突による破損ということか?」


――いえ、現在も気球上部に巨大なクラゲが貼り付いているということです。


 航海室がざわつく。窓に寄って上を眺める者もいる。そしてまだ、船体を揺さぶるような衝撃は断続的に続いていた。


「どうにか出来ないのか?」と船長。


――ディンギー隊がクラゲの気を引こうと試みていますが効果はありません。


「把握した。ディンギー隊には無理せず状況の把握に努めるよう伝えてくれ。こちらで対応を検討する」


 そう言って船長はデッキとの通信を終えようとするが、エイナイナが止めた。


「待ってください、船長!」

「衛士長どの、なにか?」

「ディンギー隊には一度引き返すよう伝えてもらえますか?」

「なにかお考えがあるのですか?」

「わたしが心配しているのはディンギーの損耗そんもうです」とエイナイナ。「四機しかないディンギーを浪費してしまっては今後とれる対応もとれなくなります」

「この飛行船は軟式です。構造的に居住空間は一か所に限られるため死角が多い。とれる対応を検討するために情報が必要なのです。状況の把握は何よりも優先したい。ご協力ください」

「わたしたちが優先するべきは船の安全ではなく、伯の安全です。わたしは飛行船を捨ててでも、伯を安全に避難させます。そのためにディンギーは必要です」

 エイナイナのこの言葉に船長はムッとしたようだった。

「――それがわたしの使命なのです。ご理解ください」と、たたみかけるエイナイナ。

 船長は一呼吸おいてから反論した。

「船が沈みつつあるというのならばその理屈も分かりますが、今のところガス圧は安定しており、メインマストに損傷もありません」

 船長がそうしゃべる間もぐんっぐんっと引っ張られるような揺れが続いていた。船長は続ける。

「退避を決断するには時期尚早しょうそうかと考えています。大クラゲを追い払うことができるならばここにとどまった方がずっと安全ということも……」


「何をめておる!」


 と、そこに現れたのがコーノック伯だった。コーノック伯ケーヒニナ・アールゴ。エイナイナの十三歳の主人です。コーノック伯は装飾の少ない簡素なブドウ色のワンピースドレスにトーク帽といったいでたち。腰にはちゃんと救命気球をぶら下げていた。救命気球は紐を引っ張ると気球が開く仕組みだ。


「ケーヒニナ様、危険です。お部屋に控えていてください」

 と、ついてきた侍女が主人をたしなめる。しかしコーノック伯は構わずにしゃべり続けた。

「エイナイナ、航海のことは船乗りに任せようではないか。そのうえで決断が必要ならばわたしが決断しよう」

「わたしはケーヒニナ様の安全を最優先に考えています。ことが起きた時のことを考え、ケーヒニナ様にはいつでも脱出できるように準備して……」

却下きゃっかだ。わたしは乗員を見棄みすてるような真似はしたくない!」

「しかし……」

「お前の使命は分かるが、わたしが果たすべき義務を決めるのは衛兵の仕事ではない」

「承知しました」


 ゆっくりと頷くコーノック伯。そして続ける。


「だれか手が空いている者、状況を聞かせてもらえるか?」

「巨大なクラゲがこの船の気球部分に貼り付いていると報告を受けています」と船長。

「船長は忙しいのではないか? 手が空いている者が簡単に説明してもらえればよい」

「実のところ状況が掴みきれておりません。報告を待っているところですので――」と船長。「情報収集のために人をやりました。今は気球によじ登っている頃合ころあいでしょう。ディンギー隊にも情報の収集を頼んであります」

「大クラゲとの接触はよくあるのか? 父の代にもあったのか?」

「ありません。このあたりに大クラゲは居ないとされています。外洋を飛ぶ大型の商船ならば大クラゲと接触することもありますが、内陸を飛ぶ小型・中型客船はこのような事態を想定していません」

 二、三回頷うなずくコーノック伯。そのまま次の質問を投げかける。

「ディンギー隊や船員の報告次第しだいでどういう対応がとれるのだ?」

「それは……。申し訳ありません。なにぶん経験のないことですので、報告を待って考えるという形になるかと」

 この時、船長はちらっとエイナイナの方を見た。しかしコーノック伯は気が付かない様子で続けた。

「普通はどうするのだ? 我が船には大型船に乗った経験のあるものは居ないのか?」

 その呼びかけに反応する者はいなかった。


 コーノック伯領の、いやそもそもケルメス帝国の人間はほとんど空を泳ぐクラゲに触れたことがない。しかし誰しもが日常的にクラゲから作られる製品の恩恵に与っていた。この飛行船にしてもそうだ。気球部分はクラゲの皮で出来ていて、中のガスもまたクラゲから採取される。人々は空に浮かぶクラゲから空に浮かぶための製品を作った。しかしそのクラゲを獲るクラゲ漁師はケルメス帝国にはほとんど居ない。最近になってようやくクラゲ漁の拠点を抑えたものの、クラゲ製品の多くは化外けがいの民との交易によって帝国に持ち込まれていた。この船の船員にしても、ディンギーと呼ばれる小型飛行船を操るエイナイナたちにしても、空を飛んではいるもののクラゲに関する知識が薄かった。


「そもそも――」とコーノック伯。「クラゲはなぜ我が飛行船にしがみついているのだ?」

「肉食のクラゲはクラゲを食べます。飛行船の気球部分はクラゲそのものですからそういうことはありうる話だと思います」

「船を食べるのか!?」

「食べ物と勘違いするのです。実際に食べられたという例も聞きます。そのため外洋では中型の飛行船は大クラゲの多い雲を避けて飛ぶという話をよく聞きます」

「クラゲは雲の中を好むのか?」

「はい。雲に身を隠します。それに風の流れの関係でエサとなる空藻そらもや小さいクラゲなどは雲の多い場所に流れ着くようです」

「この飛行船も雲から出れば貼り付いているクラゲは離れるのではないか?」

「実は先ほどから雲の下に出ようと挑戦していますが、クラゲに引っ張りあげられてしまうのです」

「なるほど。それがこの揺れなのだな。この船よりも強いということか」

「我々は加減かげんしています。本気の力比ちからくらべをすると帆が折れてしまいますから」

「なるほど…………」

「はい…………」

「して、打つ手は?」

「…………」


 船長はまたちらっとエイナイナの方を見ました。船長が近衛兵の所有する小型飛行船、ディンギーを当てにしているのは明白だった。船長の立場としては伯爵直属の近衛兵隊に極端な要求はしづらいのだ。

 そして船長の意図を汲んでエイナイナが口を挟む。


「クラゲが自発的に離れるのを待つか、そうでなければ私たちが仕留しとめるしかないでしょうね」

「可能なのか?」

「方法に関しては、やはりこの目でクラゲを見てみないとなんとも……」


 そこに再び伝声管からの報告が飛び込んできた。船長が右手をあげ、航海室の皆が口をつぐんだ。


――上甲板じょうかんぱんより航海室


「こちら航海室。状況は?」


――クラゲは時折ものすごい勢いで空気を吐き出しています。その風が梯子はしごに直撃するため、船内からクラゲを確認しに行くことは不可能です。ディンギー隊の情報によればクラゲの傘の部分の直径はおよそ二十メートル。触手を広げて我が船の気球部分に貼り付いています。空気を吐き出す以外に目立った動きはありません。今のところ船体に破損は見られません


「ディンギー隊の感触としてはどうなんだ? クラゲを引き離したり、仕留めたりということは出来そうなのか?」


――ディンギーが周囲を飛び回っても意にかいしていない様子だということです。銃を撃つ準備は出来ているとのこと


「やりましょう、隊長どの」と、船長。「心苦しいのですが、私どもの方ではもうできることがない!」

「われら近衛兵隊、いつでも出撃する準備はできています。しかしどこを狙えば……」エイナイナはしば逡巡しゅんじゅんします。「化外のクラゲ漁師は鉾槍ほこやりで軍艦級のクラゲを仕留めると聞きます。急所があるはずです。だれか知りませんか? クラゲの急所を」

 みんな首を振ります。しかし一人の船員が口をひらきも提案をしました。

「急所は知りませんが……。しかし、クラゲの傘を破ってしまえば良いのではないでしょうか」

「なるほど……。それは、もっともです」


 クラゲ漁師は通常クラゲの傘を傷つけることは無いと予想できる。なぜならクラゲ漁師にとっては傘の殻や表皮、内部のガスにこそ経済的価値があるからだ。しかしクラゲ漁師ではないエイナイナたちはガスを回収することにこだわる必要はない。傘に穴をあけてガスを抜いてしまえばクラゲは落下するというのはもっともらしいく聞こえた。


「わかりました。やってみましょう。わたしも出ます」とエイナイナ。「船長、極力雨雲あまぐもは避けるようにしてください。マスケット銃は湿度に弱いので」

「あまり雨の心配はしていませんが、このまま流されるといずれ帝国の支配域を出ます」

「わかりました。では急ぎます」


 エイナイナはそういうと敬礼をして航海室を後にした。

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