歌ううんこ



 男子トイレの個室に入って天井を見上げると、不思議と心が落ち着いた。

 何度か気張ってみても、小も大も捻り出せなかった。

 だけど僕は便器の上に座ったままひたすら時が過ぎるのを待った。

 ピアノを弾けなくなってからの間、ずっとこの場所だけが僕の安全地帯だった。

 ここで僕はいつも耳を澄ましては鼻を摘まみ、ハイトーンなソプラノを響き渡らせる自分のうんこと会話をしていた。

 初めて自分のうんこと喋った時、どんなことを話したのかはよく覚えていない。

 どうせろくでもない糞みたいな内容だったのだろう。

 記憶する価値もない話ばかりを、僕らは積み重ねてきた。


 タン、タン、タン。


 タン、タン、タン。


 僕は膝の上でリズムを刻みながら、狭くて白い世界で閉ざされた記憶を辿る。


『それでアサヒさんはいつまで無能なうんこ野郎のままでいるつもりなんですか?』


 実に口の悪いうんこだった。

 僕はいつも貶されてばかり。

 僕の排泄物のくせに、排泄主にはまるで似ても似つかない。


『任せてください。アサヒさん。私がうんこの誇りにかけてあなたの恋を成就させてみせます』


 変なところで大口を叩くうんこだった。

 でもそれはいつも僕のための言葉。

 時々身分不相応な発言をするところは、少しだけ僕に似ている。


『アサヒさん、私はただ――』


 タン、タン、タン。


 タン、タン、タン。


 最後にうんこが僕にかけた言葉は思い出せない。

 それは記憶する価値もない言葉だったのだろうか。

 それすらも判断はつかない。

 もう喋らない僕のうんこ。

 今ならなぜかあのソプラノを素直に受け止めることができる気がしていたけれど、あいにくうんこすら出せない。


「……そろそろか」


 腕時計を一瞥すれば、もう演奏の時間が迫って来ていることがわかった。

 今日のために準備万端にしてある股間部分を改めて眺めた後、僕は便器から立ち上がり個室を出る。

 ずっと座りぱなっしだったせいか、若干腰が痛い。

 洗面台の鏡に映る僕は相変わらず情けない顔をしていたが、表情はそこまで暗くなかった。

 少し痩せた気がする程度だ。

 トイレから出ると、僕は控え室の方には向かわず直接舞台袖へ足を運ぶ。

 やけに長く感じる廊下。

 一ヵ月前とは違って耳栓はしていない。静寂が少しだけ耳障りだった。

 するとふいに向こう側から見覚えのある二人組が、歩いてくるのが目に入る。

 一人は背が高く鷹のように鋭い目つきをした少年で、もう一人は何が楽しいのか満面の笑みを浮かべている小学生かと思うほど小柄な少女。

 菖蒲沢圭介と梶乙葉。

 予選をトップで通過し、今日の本選では大トリを務める二人組。

 そして僕が郡司父に対して、勝利すると宣言したペアだ。


「約束、守らなかったな」


「約束、守ってくれたね!」


 僕とは反対に控え室に向かうであろう二人は、それぞれ対照的な言葉をすれ違い様にかけてくる。

 そんな二人に僕は何も言葉を返さない。

 僕はピアニストだ。

 届けるべき音は喉から出すべきじゃない。

 振り返ることはせずに、そのまま真っ直ぐと舞台へ進んでいく。


 タン、タン、タン。


 タン、タン、タン。


 舞台袖にはすでに郡司真結衣の姿があり、僕は静かに彼女の隣りへ立つ。

 意図的に呼吸を繰り返す。

 一ヵ月前は演奏前にほとんど緊張をしなかったのに、今の僕はいつでも吐けるくらいの動悸に襲われていた。

 やがて会場のアナウンスが、無機質な声で僕らの名前を呼ぶ。

 人工的な静けさに、心臓の鼓動が映える。


「行こっか」


 落ち着いたメゾソプラノ。

 郡司真結衣は僕には目を合わせず、前を見据えたまま歩き出す。

 僅かに軋む床の音すら騒がしい。

 空調は凪に黙っていて、

 風が僕の頬を撫でることもない。


 タン、タン、タン。


 タン、タン――、


 僕はピアノの前に座り、彼女は舞台の中央に立つ。

 ここまでは一ヵ月前と全く同じ。


 でも、だけど、ここから先は違う。


 僕は変わった。

 変わらなければいけない。

 僕はピアノを弾く。

 曲を弾く。

 自分の曲を弾く。

 僕は伴奏者になる。

 音楽家になる。

 ピアニストになる。

 そして僕は、“彼女”に触れた。



 ――タンッ。



 指が白鍵を叩き、音が弾ける。

 華々しい高音が轟き、レ・プティ・リアンがピアノによって鳴り始める。

 最初に奏でるのはモーツァルト作曲該当部分である序曲。

 僕が奏でる音色が鼓膜に届き、応えるように激痛が腹部に走る。


 止まるな。弾け。

 止まるな。弾け。


 それでも僕は腕を鞭のようにしならせ、調教師の如く鍵盤を打ち続ける。

 悲しいほどにいつも通り、下腹部の痛みは加速度的に増していく。

 あぶら汗が額に滲み、顔が苦悶に崩れるのが分かる。


 止まるな。弾け。

 止まるな。弾け。


 でも僕に立ち止まるという選択肢はない。

 自由を掴み取るために、僕は前に進み続ける。

 どれほどの茨の道を通ることになったとしても構わない。

 腕は動く。

 頭の中はクリアだ。

 集中は途切れていない。

 細い十指は滑らかだ。


 止まるな。弾け。

 止まるな。弾け。


 発狂寸前の僕とは裏腹に、舞台上では太陽が輝いていた。

 恒星のように視界を照らす、眩い灯火。

 光はうねりながら明滅し、モーツァルトの空を赤橙色に染め上げていく。

 その爆発的な光は、郡司真結衣という僕のパートナーであり、想い人でもあるバレリーナだった。


 止まるな。弾け。

 止まるな。弾け。

 止まるな。弾け……、


 視界が霞み始め、身を焦がすような熱に意識が朦朧とし出す。

 原子核融合でもしているのか。彼女の輝きと熱は際限なく増していき、僕の音を置き去りにしようとする。

 彼女の一挙手一投足がフレアのように空間を揺らし、僕の身体を炙っていく。


 止まるな。弾け。

 止まるな。弾け。

 止まるな。弾け……、


 内臓が悲鳴を上げ、肛門が絶叫に喘いでいる。

 真っ暗な宇宙では息をすることができない。

 酸素を探そうとすれば、その隙に彼女の背中が見えないところに行ってしまう。


 止まるな。弾け。

 止まるな……、弾け……。

 止まるな……、弾け……、

 

 郡司真結衣は踊る。

 どこまでも自由に。

 僕はピアノを弾く。

 息継ぎすらできずに。


 止まるな……、弾け……。

 止まるな……、弾け……。

 止まるな……。弾け――、



「アサヒさん、私はただ、あなたに私だけでなく、私たちを見てくれている人の事も見て欲しいだけなんです」



 その時、歌うようなソプラノが聴こえた気がした。



 ——ブリブリブリブリブリュリュリュリュリリデュデュッッッッッ!!!!!!!!!



 天使のように優しいその声に僕は顔を上げる。

 すると僕をとり囲む世界がよく見えた。

 舞台の向こう側には、僕たちの演奏を見守る沢山の人がいる。

 最前列には両手を組み、温度のない視線をこちらに送る郡司父。

 その奥には関係者席なのか、郡司真結衣の双子の兄である望結さんと結希さんが揃って座っている。


 僕は止まらない。僕は弾く。

 僕は止まらない。僕は弾く。


 さらに視界は色鮮やかに広がり、僕はもっと多くのものを見つけ出す。

 会場の左の端の方には父と母が並んで席についている。

 なぜか父は大泣きしていて、母は神に祈るような格好で瞳を閉じていた。

 その二人から少し離れた場所に姉の姿がある。

 両手を強く握り締めて、真顔でずっとシャドーボクシングを繰り返している。

 よく意味はわからないけれど、きっと応援してくれているのだろう。


 僕は止まらない。僕は弾く。

 僕は止まらない。僕は弾く。


 会場の一番奥。

 入り口からすぐのところで、席にもつかずこちらを眺めている少女が一人いる。

 肩口で綺麗に切りそろえられた短髪。

 少し男勝りな凛々しい相貌。

 一瞬誰だかわからなかったけど、たぶんあれは小野塚だ。

 コンクールには来ないとか言っていたくせに、なんだかんだで来てるじゃないか。

 案外可愛いところもあるらしい。


「僕は止まらない。僕は弾く。僕のピアノを、僕の曲を弾く」


「私が手伝います。私は歌う。あなたの私を、あなたが弾く」


 灰色に燻っていた視界が晴れ渡っていく。

 もたれて今にも挫けそうだった音が跳ね、唄い始める。

 口角がつり上がる。

 臀部に生温かい感覚が満ちる。

 僕はピアノを弾く。

 僕の曲を弾く。


 きっと今の僕は、うんこを漏らしているのだろう。


 でもそんなものは関係なかった。

 今日のために用意した紙オムツを履いているので何の心配もない。

 僕は排泄物をズボンの中に撒き散らしながら、ずっとモノクロだった世界を虹色の旋律で塗りたくっていく。

 尻の穴から空気が抜け、僕は反射的に空気を吸う。

 糞を捻り出すたびに、僕は呼吸の仕方を思い出す。

 モーツァルトがこのバレエ音楽を作曲した時、どんな気持ちだったのだろう。

 小野塚は演奏にはリスペクトが大事だと言っていた。

 だけど今はモーツァルトの気持ちなんて、クソどうでもよかった。


 快便最高。

 曲調絶好調。


 僕の弾くピアノも、肛門から流れ出るうんこも、止まりはしない。


「聴こえる。君の歌声が聴こえる。ああ、凄くいい気分だ」


「見えます。アサヒさんが曲を弾いている姿が見えます。ええ、とてもいい気分ですね」


 痛みはなく、自由だけがある。

 余計なものを下半身から捨てた身体は軽く、翼を取り戻した僕はどこまでも高く飛んでいく。

 カラフルな旋律を重ねる度に高揚感は増し、光すら届かない高みへ舞い上がっていく。

 すぐ隣りでは郡司真結衣が踊っている。

 太陽を思わせる灼熱の煌めきを纏って、彼女は踊り続けている。


 でも僕はもっと先へ行く。

 近づき過ぎても彼女が困るだろう。

 だからもう少しだけ、離れた場所へ行く。

 太陽系を抜け出して、僕は銀河の空を泳いでいく。

 鼓膜の内側には、喜びに満ちた音が溢れかえっている。


 タン、タン、タンと、彼女が歌う。


 優しく、美しいソプラノが、僕の指のステップに合わせて、素敵なリズムを刻む。

 きっと彼女が喋らなくなったんじゃない。

 僕の方が耳を塞いでいただけなんだ。

 だけどそれはもう過去のこと。

 今の僕にはちゃんと彼女の声が聴こえている。


 僕はピアノを弾く。

 うんこをしながら。


 うんこが唄を歌う。

 僕をしながら?


 何がなんだかわからなくなってきた。

 でもそれで構わない気がしていた。



 だって今の僕は最高に自由で、これ以上ないってくらいに気分がいいのだから。






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