理想のうんこ


 イベントホールの中に入ってみると予想通りまだ人気が少なく、閑散とした雰囲気に辺りは包まれていた。

 頭の中でモーツァルトを奏でながら、控え室ではなく舞台のある方へ自然と向かっていく。

 まだ明るい照明がたかれている演奏会場は一ヵ月振りにみると、思っていたより広く感じる。

 観客席は数えるのも面倒なほどで、これら全てとはいわず、半分埋まるだけで相当な熱気がこもるような気がした。

 予選の時、どんな人がここに座っていたのか、それは全く思い出せない。


 あの日僕に対して送られた拍手の音色を、僕はまるで知らない。


 それを寂しく感じる僕は、もしかしたら今日は拍手すらされないかもしれないことを思い出し、また少しだけ胃に痛みを覚える。

 今日僕は、菖蒲沢圭介と梶乙葉に勝てるだろうか。

 改めて僕は考えてみる。

 今から数時間後には僕の演奏は終わっていて、またそれからしばらくすればコンクール自体も幕引きを迎えている。

 菖蒲沢のピアノの実力は本物だ。

 本人の性格こそ問題があるけれど、彼の音楽はどこまでも真っ直ぐで優しい旋律を奏でていた。

 梶のバレエも想像以上に素晴らしいものだった。

 他者を惹きつける天性の才能。

 僕が郡司真結衣に感じたものと同等か、或いはそれを上回るほどの輝きを彼女は放っていた。

 そんな彼らに、僕が本当に勝てるのか。

 実際に僕らの演奏を見た小野塚が言うには、郡司真結衣は本来の実力を発揮できていなかったらしい。

 だからきっと僕のパートナーの方は心配しなくても、勝手に何とかやってくれるはずだ。


 だから問題は、間違いなく僕の方。


 堂々巡りの憂鬱に、僕は静かに瞳を閉じる。

 本選の課題曲レ・プティ・リアンは覚えた。

 そんなに得意な曲ではないけれど、派手に間違えたりはしないと思う。

 練習は寝る暇も惜しんで積んできた。

 元々ショートスリーパー気味なので、寝不足による不調とかはない。

 たぶんないはず。

 お腹の調子はどうだろう。

 これはどうしようもない。

 おそらく今日もピアノを弾いて、自分で奏でた音が耳に入った瞬間、僕の肛門は自らの役目を忘れることだろう。

 体調が万全でも勝てるかどうかわからない相手に、僕は不安を抱えたまま挑む。

 どうして郡司父に僕は、あんな大きな事を言ってしまったのか。

 アホとしか思えない。

 うんこのし過ぎで、脳味噌まで下水に流してしまったのではないだろうか。


「おはよう。早いね、久瀬くん」


 すると広い会場で不安と孤独に押しつぶされそうになっていた僕に、暖かな風が吹く。

 揺らぎのないメゾソプラノ。

 気づけば隣りには、上品な化粧をした郡司真結衣が立っていた。

 普段はどちらかといえば姫という形容が似合う彼女だけれど、今の堂々たる高貴な雰囲気は女王といった方が相応しいかもしれない。


「……おはよう、郡司さん。調子はどう?」


「まあまかな。久瀬くんは?」


「僕は正直あんまり」


「ふーん、そうなんだ」


 こうして郡司真結衣と二人でちゃんと会話をするのは、ずいぶんと久し振りに思えた。

 実際には一ヵ月前とかはよく合同練習とかしていたし、その後も完全に交流が途絶えたわけじゃないから、気のせいといえばそうかもしれない。

 でも今の僕らの間には、たしかに独特な緊張感が漂っていた。

 ただ、悪くはない。

 悪くはないと感じていた。


「さっきさ、郡司さんのお父さんに会ったんだ」


「あ、そうなの? 大丈夫だった? 私のお父さん、結構変わってる人だから」


 自らの父が主催するコンクールの本選にも関わらず、郡司真結衣はいつも通りの平常心だ。

 彼女は怖くないのだろうか。

 自分の失敗が親しい人に晒されることが。

 元々他人の評価が気にならないタイプなのか、それとも絶対の自信を持っているのか。

 彼女の輝きがどんな時だって曇らない理由は、なんとなくそのどちらとものような気がした。


「その時に実は、今日のコンクールで優勝してみせますって言っちゃった」


「へえ。それは意外。久瀬くんってそういうこと言わない人だと思ってた」


「勝手にごめん」


「ううん、べつにいいよ。でも言っちゃったなら仕方ないね。二人でお父さんを見返しちゃおう。予選突破ペアの中で最下位から大逆転で一位になったら超かっこいいもんね」


 僕が少し前に行った馬鹿げた宣戦布告の話を聞いても、郡司真結衣の声にノイズは混じらない。

 彼女はやはり強い人だった。

 どうしてここまで心の強度を保つことができるのか。

 軟弱なメンタルに定評のある僕は、本気で彼女が羨ましかった。

 僕が彼女のことを好きになったのは、僕にはない強さを彼女が持っているからなのかもしれない。


「郡司さんは本当に強い人だね。尊敬するよ」


「私が強い? ……それはきっと違うよ、久瀬くん」


 僕が思ったことを素直に口に出してみれば、郡司真結衣はそれをすぐに否定してしまう。

 手すりの向こう側をぼんやりと眺めている僕に対して、彼女は背中から軽く寄り掛かるようにしている。


「私にはね、大切なモノが欠けてるんだ」


「え?」


 大切なものが欠けていると、郡司真結衣は口にする。

 僕からすれば完璧に近い彼女は、これ以上何を求めるというのか。

 これ以上強くなってどうするのだろう。


「私にはね、“理想”がないの」


 自分には理想が欠けていると、郡司真結衣は語る。

 その意味を上手く捉えられない僕は、乱調まみれの口を閉じたまま静かに耳を澄ます。


「昔から私ってなにかに落ち込むことがないの。テストで悪い点をとってもべつに気にならないし、バレエでミスをしてもどうでもよかった」


 落ち込むことがない。

 それは一見すると長所に思える。

 些細なことで一喜一憂してしまう僕からすれば羨ましい限りだ。

 そんな僕の浮ついた感想を見透かしたのか、隣りから小さく笑う声が聴こえてきた。


「落ち込むことがないっていうのはね、言い換えれば何にも失望しないってことなんだよ。そして失望しないってことは、もっと別の言い方をすれば最初から何にも期待してないってことになる。私はどんなことに対しても、期待をしない。それは自分自身にも」


 そこまで郡司真結衣が言葉を紡いだところで、やっと僕は彼女の“欠落”の一端を理解できたような気がした。

 コンクールの予選の時、僕が彼女に感じた物がある。

 それは僕に、何も期待していないということだ。

 僕が耳栓をしたまま、まるで心の籠っていない演奏をした時も、彼女は僕を怒らなかったし、失望する素振りを見せなかった。


 なぜなら彼女は期待をしていなかったからだ。


 僕がどれほど酷い演奏をしても、どこまで素晴らしい演奏をしても、きっと彼女は態度を変えたりしない。

 誰かが怒ったり失望したりするのは、いつだって期待を裏切られた時。

 誰かにとっての理想とは異なる現実が現れた時だけだ。

 でも彼女にはその理想がない。

 だから怒らないし、失望もしない。


「昔からお父さんとか周とか、後は望結兄さんとかによく言われた。私はエゴイストだって。大切なものが欠けてるって」


「エゴイストだなんて。そんなことないよ」


「ありがとう。でもそれもある意味できっと正しいんだよ。私はいつも自分のバレエにしか興味を持たなかった。他人のバレエを凄いと思うことはたまにあったけど、所詮他人だって。それが自分の理想になることはなかったの」


 郡司真結衣の美しい瞳には何も映っていないのだと知り、僕はなぜか共感を覚える。

 彼女は踊る時、何も見ていないのだ。

 他人も、自分すらも見ずに、彼女は踊っている。

 それはもしかしたら自らが放つ光が、あまりにも眩し過ぎるからかもしれない。


 目を閉じたまま踊るバレリーナと、耳を塞いだまま弾くピアニスト。


 きっと僕らは似た者同士なんだ。

 僕は本人の許可も取らずに自分と彼女をひとくくりにする。


「だからさ、私は久瀬くんをパートナーに選んだんだよ」


 勝手に僕に仲間認定された郡司真結衣は、ここで初めてこちらへ顔を向ける。

 理想を持たない彼女が、僕に何を期待するというのか。

 期待の仕方を知らない彼女が僕に何を求めているのか、僕は答えを知るために、気高き女王の双眸を見つめ返す。


「私、昔から周のピアノだけは大好きだった。あの子の音楽を聴くと心が躍った。でもあの音楽は周の理想じゃなかった。ある日周は自らの理想を見つけたって私に言った。その日から周の音楽は変わった。……でも変わった後の周の音楽は、変わる前よりよっぽど美しいものだった。私にとって完璧だったあの子の音楽は、いとも簡単により美しく塗り替えられてしまった」


 息継ぎの暇もなく、郡司真結衣は彼女にしては珍しく熱のこもった言葉を吐き出していく。

 小野塚周の音楽。

 少しだけ恥ずかしいけれど、あいつの音楽を変えてしまったのはきっと僕だろう。

 全ては繋がっていて、僕ら二人が今ここに並んで立っているのはやっぱり必然だったのだと知る。


「だからさ、久瀬くんには期待してるよ。私に期待を抱かせてくれることを、期待してる。私にとって最高のピアニストの理想になった人。私に欠けているものを、君がきっと埋めてくれるって」


 あまりにも大きな期待。

 理想と失望を知らない若き天才バレリーナは、僕に期待していると言う。

 僕は不思議と笑みを零してしまう。

 誰かに、自分にすら期待することができない彼女に期待されるのは変な感じだった。

 ただ、悪くはない。

 悪くはないと思った。


「僕の理想は、君だった」


 だから僕も彼女に返事をする。

 僕たちはペアであり、パートナーであり、仲間なんだ。

 あの孤独な舞台上で、唯一批難と称賛を同時に受け止めることができる相手。

 期待というよりは信頼。

 僕は郡司真結衣の光を信じている。


「だから今度は、僕が君の理想になる」


 再び余計なことを口にして、僕は顔が凄まじい熱を帯びるのを自覚する。

 どうも郡司と名のつく相手には、大きなことを言ってしまう癖があるらしい。


「……ふふっ、わかった。久瀬くんってそういうこと言わない人だと思ってたけど、期待してる。うん。私、君に期待してるよ。だって私のバレエを“静か”って言ってくれたの久瀬くんが初めてだから。伴奏、任せるよ」


 後悔先に立たず。

 ただでさえプレッシャーに弱いにもかかわらず、無意味に責任を増やした僕を置いて郡司真結衣はどこかに消えていく。


 でも、これでいいと思った。


 僕はケツに火をつけるくらいでちょうどいいのだ。

 僕の尻には刺激が必要だった。


 そして僕も一度深呼吸をすると、とりあえずトイレに向かう。

 全ての準備を整えるために、想い人の期待に応えるために。



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