決意するうんこ



 やがて後ろからパタパタという足音が聞こえてくるので振り返ると、そこには分厚いアルバムを抱えた郡司真結衣の姿が見えた。

 おそらく自室から菖蒲沢が映っているという写真を取ってきたのだろう。


「あったよ周。この写真でいいんだよね?」


「ん、そうそうこれこれ」


 郡司真結衣はアルバムのうちの一ページを、小野塚に向けて開く。

 そこから小野塚は写真を一つ抜くと、僕の方に回した。


「……え? これ? これってちょうど僕が二位で、小野塚が一位だったやつだよね? これに菖蒲沢が映ってるってことは、この三位の子が菖蒲沢?」


「そうだよー。この頃の菖蒲沢は可愛かったよねぇ」


 僕は信じられない気持ちで掌の上の写真を覗き込む。

 凛々しい顔つきの小野塚が中心に立ち、両隣りに童顔の僕と、もう一人そんな僕より背が低く髪も女子のように肩口まで伸ばした男の子がいる。

 どうやらこの小さな可愛らしい少年が、菖蒲沢圭介ということらしかった。

 表情も飼い主に叱られるビーグルのように弱々しく、顔つきもどことなく女子っぽい。

 なんとも人は変わるものだ。

 どうしてこんなそこらの女子よりも可愛い男の子が、あのイカつい菖蒲沢になってしまうのだろう。

 世界はあまりにも残酷だった。


「それにしてもなんだか不思議な巡り合わせよね。このコンクールで一位から三位までを取った子たちが、今は皆同じ学校にいるなんて」


「たしかに。言われてみれば結構奇跡的なことな気がする」


 郡司真結衣は僕が手に持つ写真を上から覗き込みながら、感慨深そうにしている。

 萩原周、久瀬朝日、菖蒲沢圭介。

 おそらくこの日のコンクールの結果表に刻まれていたであろう三つの名前。

 この名前の持ち主たちが、一人は苗字が変わってしまったとはいえ、再び集まるのは少し運命めいたものを感じる。


「べつに、奇跡なんかじゃないと思うけどね」


 しかし、小野塚はそっぽを向いて僕たちの奇跡を否定する。

 その理由が分からず僕は静かに彼女の言葉を待ったけれど、郡司真結衣が続きを急かした。


「どうして周はそう思うの? なかなかに運命的じゃない?」


「だってさ、真結衣はどうして今の学校に通おうと思ったの? 家からもべつに近くないのに」


「え? それはうちの学校は私立で、生徒の学外活動に寛容だし、なにより周が行くって言ったから……あ、なるほど」


 郡司真結衣は自分が今僕たちの通う学校に進学を決めた理由を考えると、やがて手を打って納得した。

 僕には何がなるほどなのかサッパリわからない。


「そっかぁ、周もやっぱり、女の子なんだねぇ」


「うざ。真結衣のその顔めっちゃブサイクだよ」


「またまた、照れちゃって」


「照れてないし」


 完全に僕を置いてけぼりにして、小野塚と郡司真結衣は仲睦まじそうにじゃれ合っている。

 これが幼馴染というやつか。

 中学デビューに失敗した僕にも、こんな友達がいつかできることを祈るばかりだ。


「じゃあもうあたし、今度こそ帰るから」


「えー、本当に帰っちゃうの? というか結局まだ私たちのパフォーマンスの感想聞いてないよ」


 やがて一通り子猫の喧嘩に似た言い合いを終えると、小野塚はリビングを出て行こうとする。

 それを郡司真結衣が後ろから抱き付き無理矢理止めると、心底小野塚は嫌そうな顔をした。


「はぁ……じゃあ一言づつ、二人にアドバイス」


「わぁ! 周ありがとう!」


「あ、うん。お願い」


 僕の心臓がドクンと跳ねる。

 あの無様な演奏を小野塚に聴かれたことを思い出し、羞恥で顔が熱を持った。

 すでに予選当日に菖蒲沢からボコボコに批評されている僕は、正直これ以上あの日のことを言及されたくはなかったのだけれど、どうも逃げ場はなさそうだ。


「まず真結衣。あんたはまあ基本的には目立って悪いところはなかったと思う。でもなんというか、真結衣にしては普通というか、堅実というか、守りに入ってる印象は受けたかな。もちろん伴奏がうんこだったから、それが一番大きな理由だとは思うけどさ、それでもちょっと大人しくし過ぎたんじゃない? 何かに怯えてるような感じだったよ」


「私が、怯えてる?」


 小野塚は初めに郡司真結衣のバレエに感想を述べる。

 僕からすれば彼女の演技には不満点の一つも見つからないと思ったけれど、幼馴染から見ると違和感があったらしい。

 どうもあれで僕の演奏を抜きにしても不調だったみたいだ。

 本当に凄い。


「そっか。ありがと、周。貴重な意見だった。周が言うなら、間違いないよ。周は嘘、吐かないから」


「まあ、個人的な意見だけど、伴奏に合わせて踊るのやめたら? これは伴奏者が誰とか関係なくて。たぶん向いてないよ」


「……うん。考えてみる」


 さらりと小野塚は僕を切り捨てるべきと進言している。

 本格的に僕は要らない子みたいだ。

 泣きそうになってきた。


「じゃあ次に久瀬ね」


「あ、う、うん。よろしくお願いします」


 次に僕の番が来た。

 小野塚は真っ直ぐとこちらを見つめて、伸びすぎた前髪の隙間からライトブラウンを光らせる。


「あんたには一言だけ……“曲を弾いて”」


 曲を弾け。

 たったそれだけ言い残すと、すぐに小野塚は僕から視線を外した。

 それはアドバイスというにも、感想というにも短く、シンプルな言葉。

 これまで曲を弾いてなかったのだとしたら、この前のコンクールでいったい僕はピアノの前で何をしていたのだろう。


「それじゃあね、二人とも。健闘を祈ってるよ」


 手を一度だけ振ると、小野塚はそのまま踵を返し去って行く。

 隣りを見てみれば、郡司真結衣が少しだけ嬉しそうな顔をしている。


「やっぱり、周はよく人を見てるなぁ」


 僕はその美しい横顔に見惚れながら、固く決心した。

 もう二度と、彼女の輝きを遮るような真似はしないと。


「……郡司さん、本選は僕のピアノに合わせなくていいよ。好きなように踊ってくれていい」


「え?」


 突然喋りかけてきたうんこ野郎に驚いたのか、郡司真結衣は目をぱちくりとさせる。

 必ず追いつく。

 僕はもう耳を塞がない。

 痛みから逃げたりはしない。


「君のバレエに絶対に追いついてみせる。だから好きなように踊って欲しい」


 僕の強い決意が伝わったのか、郡司真結衣は珍しく真剣な顔つきで僕を見つめ返した。

 いつもの穏やかでも、優し気でもない、才ある表現者の表情。

 不敵に笑う彼女は美しくもあり、怖ろしくもあった。


「……わかった。周にも言われちゃったしね。じゃあ本選ではもう久瀬くんを待ったりしないよ。ついてこれないなら、置いてく。もしかしたら私が久瀬くんを傷つけることになるかもしれないけど、それでいいんだよね?」


「構わないよ。僕はもう、痛みから逃げたくないんだ」


 下手をすればまともな演奏にならない可能性だってある。

 ブーイングの嵐で、また新しいトラウマをつくってしまうかもしれない。


 だけど、それでいい。僕はもう逃げない。


 僕だって輝いてみせる。



「僕は弾くよ、ピアノを弾くんだ」



 郡司真結衣のためだけではなく、僕自身のためにも。

 手に持ったままだった写真に視線を一度落とすと、すぐに顔を上げる。


 僕はもう過去の栄光には縋らない。


 過去を取り戻すためではなく、未来を手に入れるために僕はピアノを弾く。

 僕だって光輝く太陽になれる。

 なりたいと思った。



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