憧れとうんこ


 僕がかつて憧れた萩原と小野塚が同一人物だと知り、あまりの衝撃に脳が処理落ちを起こす。

 ずっと名前をハギワラシュウと覚えていたけれど、どうもそれは周という字の読み方を間違えて覚えていたみたいだ。

 幼い頃の僕には周が読めなかったというわけ。

 あらためて僕は小野塚の顔を見つめてみる。

 言われてみれば萩原の面影がそこにはあった。


「……驚いた。小野塚が萩原だったなんて。てっきり萩原は男だと思ってたよ」


「はぁ、久瀬って本当にうんこ過ぎ。失礼でしょ、こんな可愛いらしい女の子を男に間違えるなんて」


「だ、だって、こんなのどう見ても男じゃん。髪めちゃくちゃ短いし、ドレス来てないし」


「ドレスとかなんかキモくない? 髪も長いとピアノ弾くとき邪魔でしょ」


 画面に映るどっからどう見ても美少年にしか見えないかつての小野塚。

 中学で出会った頃の彼女はすでに今の髪ボサボサうんこ女状態になっていたので、僕が気づけなかったことも仕方ないといえば仕方ないと思う。


「てっきり私、久瀬くんはとっくのとうに周が昔ピアノ弾いてたこと知ってると思ってた。それが理由で仲良いのかと」


「わざわざあたしから言うわけないじゃん。それに顔合わせたのも実際一回くらいしかないしね。むしろ名前だけでもあたしのこと覚えてたことが意外」


「覚えてるに決まってるだろ。自慢じゃないけど僕、第一位入賞を逃したの小野塚に負けた時だけだからね」


「まじで? あれから全戦全勝? うわぁ、ドン引き。やっぱ久瀬ってヤバい奴だったんだね。……やっぱりあたしは間違ってなかったかな」


 小野塚はどこか納得したかのような表情をしている。

 ドン引きという言葉にはひっかかったけれど、今は褒められていると思い込むことにした。

 一方郡司真結衣はというと、ふいに手を軽く叩いて、何かを思い出したかのように口を開いた。


「あ、じゃあもしかして、菖蒲沢くんのことにも気づいてないのかな?」


「だろうね。あたしに気づかなかったんだから、菖蒲沢のことにも絶対気づいてないでしょ」


「菖蒲沢? なに? 菖蒲沢がどうしたの?」


 すると今度はなぜか菖蒲沢の名前が出てくる。

 もしかすると彼も、僕の幼い頃からの知り合いなのだろうか。

 たしかにあれほどのピアノの技術があれば、小さな頃からコンクールに出ていても不思議ではない。

 でもあんなイカつい男なんていただろうか。

 僕は全く思い当たるふしがなかった。


「ほら、真結衣。ちょうどあたしが最後に優勝したコンクール。あれの写真ない? たしかあいつもいた気がする」


「え? あれに菖蒲沢くん映ってたっけ? 私、周以外のピアニストには興味なかったから、正直よく覚えてないのよね」


「真結衣、あんたもかい。まったくこの天才どもはどいつもこいつも。なんだか菖蒲沢が可哀想になってきたわ」


 呆れたように溜め息を吐く小野塚。

 そこで僕は遅れて気づく。

 僕が昔ピアニストとして名を馳せていたことを郡司真結衣に教えた人物。

 結希さんが語っていた彼女が世界で一番好きなピアニスト。


 そのどちらもきっと、小野塚のことなんだ。


 僕を打ち負かした孤高の天才ピアニスト萩原周。

 本当は僕ではなく、彼女とペアを組みたがっていた。

 最初から代理だった。

 僕はおそらくもうピアノを止めてしまったであろう小野塚周の代わりにしか過ぎない。


「ちょっと待ってて。たぶん上にあると思うから、探してくるね」


 郡司真結衣は駆け足でリビングを去り、自室へと写真を探しに行った。

 残された僕と小野塚は奇妙な空気感の中、お互いにまったく違う方向に顔を向ける。


「……あのさ、なんで小野塚はピアノやめたの? 僕、一応楽しみにしてたんだけど、君にリベンジするの」


 何だかんだで小野塚と二人きりになるのは二ヵ月ぶりくらいなので、僕は意味もなく照れたような気持ちになった。

 しかも今となっては彼女は、僕の幼い頃の憧れたピアニストでもある。

 結局僕が小野塚と同じ舞台でピアノを弾いたのは一度っきりだ。

 あれほど完璧で美しかった音を奏でることを、幼馴染である郡司真結衣の期待すら裏切り、なぜやめてしまったのか。

 僕はその理由を知りたかった。


「あたしにリベンジしたかった? ……はぁ、まじで久瀬ってうんこだねぇ。呆れを通り越して、感動するよ」


「な、なんだよ。だって勝ち逃げとかずるいじゃないか」


「うわぁ、それ本気で言ってるっぽいのがまたムカつく」


 僕に敗北を教え、あの郡司真結衣を虜にしたピアニストである小野塚は、なぜか疲れたような微笑みを零している。

 その姿はあまりに弱々しく、本当にあの絶対性に溢れていた萩原と同一人物なのか疑わしいくらいだ。

 僕と同じ様に、彼女もまた何か大きなスランプに陥ってしまったのだろうか。

 もうピアノを弾けない身体になってしまったというのだろうか。


「勝ち逃げなんてさ、あたし、してないよ」


 やがて聴こえたのは、諦観に満ちたアルト。

 僕は小野塚の言葉の意味がわからず、思わず彼女の顔を覗き込む。

 普段の飄々とした表情は影に隠れ、繊細な少女が打ちひしがれているだけ。


「とっくのとうに久瀬はあたしにリベンジできてるってわけ。それも一度や二度じゃない」


「え? どういう意味?」


 僕はすでに小野塚に勝っている。

 伝えられた言葉の意味が掴めない。

 いまだに彼女は、僕の方を見ようとはしない。

 顔を上げようとはしなかった。


「あたしはさ、初めて久瀬と一緒のコンクールに出た後も、ふつうにピアノは続けてたんだよ。コンクールにも出てたし、あんたの演奏も何度も聴いた」


「コンクールにも出てたし、僕の演奏も何度も聴いた? そんなわけないよ。だって僕はあの日以来君の姿を見てない。さすがに君がいたら気づくって」


「いや、気づかないよ。だって久瀬はさ、前だけを見てたから」


「だ、だからその前に小野塚が――」


「違うって言ってんじゃん」


 力なく小野塚は首を横に振る。

 そして僕がずっと追いかけていたのは幻影なのだと、澄んだアルトで伝える。


「あたしはさ、もうあんたの前にいなかったんだよ。あたしがあんたに勝ったのは、あんたの前に立てたのは最初の一回だけ。あの日以来は、あたしはずっとあんたの影を追ってた。ずっと後ろにいた。あたしは予選を突破をして、本選の舞台に立つってことができなかった。あんたと競い合う場所にすら行けなかった」


 その残酷な事実に、僕は言葉を失う。

 入賞争いの前に、彼女は予選で姿を消していたのだ。

 あの頃の僕はピアノを弾くことに夢中だったから、予選程度ならたしかにまともに他の参加者の顔や演奏は観ていなかった気がする。

 でも幼き僕には想像できなかったのだ。

 あの萩原が本選に残ることすらできないなんて。


「なにがあったの? 怪我とか、病気とか、そういう問題?」


「ううん、違うよ。ふつうに実力不足。あそこら辺の年代はさ、たった数日で凄い成長をしていく。元々表現力とかじゃなくて、年齢の割には高いってだけの技術力で評価されたあたしが周囲に追い抜かれるのは時間の問題だった」


「なんだよ、それ。成長するのは小野塚だって同じじゃん。なのに、いきなり本選にすら残れなくなるなんて……」


「あたしはさ、迷っちゃったんだ。なんかあたしの信じる音楽を全部ぶっ壊す奴に出会っちゃったせいで、変な夢を見ちゃったってわけ」


 唐突に小野塚は意味のわからないことを言う。

 完璧だった彼女の音楽を壊した奴。

 誰だか知らないが僕はそいつを恨む。

 彼女を迷わせるなんて余計なことをしてくれる。


「コンクールで勝つために一番大切なことって、なにかわかる?」


「え? そりゃやっぱり、なんか、こう迫力っていうか、表現力とかオリジナリティじゃない?」


「はぁ、やっぱりね。全然違うよ。……コンクールで勝つためのセオリーは、“リスペクト”だよ」


 僕の言葉を真っ向から小野塚は否定する。

 コンクールで勝つために必要なこと。

 とりあえず自由曲だったら審査員受けのするものにして、後は自分らしく全力で弾けばそれで僕は勝つことができた。


「たとえば今回あんたが弾いた舟歌だったら、これをショパンが書いたのはいつ頃くらいか知ってる?」


「いや、知らないけど。なんかそれがコンクールに関係あるの?」


「大あり。ショパンが舟歌を書いたのは晩年。だからもし舟歌を弾くとしたら、それを意識しないと。鍵盤を強く叩けないとかね」


「なにそれ? そんなこと意識しないといけないの?」


 おかしそうに小野塚は声を少し弾ませる。

 ショパンが舟歌をつくった頃身体が弱っていたから、僕らもそれに合わせなければならない。

 聞いたことのないセオリーだ。

 というか意味がわからない。


「あとこの曲はショパンが別れて間もない元恋人のジョルジュ・サンドを想ってつくった曲ともされてる。だから表現の部分でも必ず哀しみを入れないと。当然弾いてる間ずっと楽しそうに笑ったりするのもNG。久瀬って調子いい時は表情に出るタイプだと思うけど、本来ならそれもダメだから」


「そ、そうなんだ。というか詳しいね。ショパン好きなの?」


「べつに好きじゃないけど、ふつうはこれくらい研究するわけ」


 僕が全く知らない常識を語る小野塚は、ここでやっと顔を上げる。

 夕焼けを思わせる明るいライトブラウンの瞳。

 完璧だと思っていた彼女の音楽は、完璧にしようと意図して創り上げられたものだったのだ。


「でも、出会っちゃったんだ。そういうセオリー全部無視して、自分の好きなように自由に弾いて、それでコンクールで結果を出しちゃうようなふざけた奴に。曲に合わせて弾くのはあたしだけじゃない。むしろ九割九分の人が、あたしと同じ様に曲に自分を合わせるタイプだと思う。曲を自分に合わせるタイプはコンクール向きじゃない。そのスタイルであたしの前に立てる奴なんて、想像もしたことなかった」


 彼女は嬉しそうに微笑む。

 憧憬の滲んだ瞳の中に、僕は自分と同じ色を見つけ出す。

 僕が憧れたように、彼女もまた憧れていたのだと知る。



「……神童、モーツァルトの再来。あたしが憧れた唯一のピアニストはそんな風に呼ばれてた。あたしもそいつみたいに自由に、ありのまま弾けたらどれだけ楽しいかって思った。だから後悔してないよ。あたしはたしかにあの日以来まともに勝てなくなったし、もうコンクールにも出なくなったけど、今のあたしは自由にピアノを弾けるもの」



 小野塚周はピアノをやめた。

 それは事実であり、事実ではなかった。

 彼女が弾かなくなったのは、あくまで昔のピアノだけ。

 僕はあの頃の音色を美しいと思ったけれど、どうやら本人は違ったらしい。

 ないものねだりというやつだろうか。

 それでも小野塚は後悔をしていないと言い切っていて、僕はやっぱりそんな彼女を羨ましいと思った。




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