君の便意で僕を呼んで

周とうんこ



 父が海外から帰ってきた次の日から、僕の家で大リフォームが始まった。

 父曰く、一階のトイレを演奏部屋に改造するらしい。

 その事を知った母は青ざめた顔していたけれど、父に詰め寄り耳元に何かを囁いただけで、特に怒ることもしなかった。

 いや、声をかけられた父が冷や汗をかいていたので実際には怒っていたのかもしれないが、特に僕へ何かを言うことはなかった。

 聞けば費用などは父のお小遣いから出されるみたいだ。

 父は僕に出世払いで返せよなんて冗談を笑って言ったけれど、僕は本気でいつかこの恩は返そうと思った。

 新しい僕専用の演奏部屋が完成するまでは、少しだけ時間がかかるという。

 自宅のピアノが使えない間どうしようかと考え、とりあえず僕は郡司真結衣に頼ることにした。

 今思えばコンクールが終わってから、ちゃんと話していない。

 本選に向けてきちんと一度くらい話し合うべきだろう。

 僕はたしかに彼女のことが好きで、最初はそんな大好きな女の子に頼まれたという理由でピアノを再び弾き始めただけだった。

 

 でも今は違う。

 僕の中には一人のピアニストとして、郡司真結衣というバレリーナの伴奏者として舞台に立ちたいと思っている。


 菖蒲沢と梶には正直いって、今も勝てる気はしない。

 だけどこのままじゃ駄目だ。

 僕はたしかにうんこ野郎だけど、このままじゃ終われない。

 あいつらの顔にうんこを塗りたくるくらいはしないと終われない気がしていた。


 父と話すことで、僕は自分の弱さに気づいた。


 ピアノを弾くと、腹が痛む。

 僕はそれを言い訳にして、ずっと逃げていただけだった。

 ピアノを聴くと、心が傷む。

 僕は自分の音色を怖れて、ずっと避けていただけだったのだ。


 今なら僕がOIBSに罹った理由が分かる。


 きっと僕はこれ以上自分の演奏を聴きたくなかったのだろう。

 弾くたびに自由を失い、輝きを失っていく自分の演奏を。

 自分のピアノを好きでい続けることに自信がなくなって、嫌いになってしまう前に僕は弾くのを止めた。

 

 でも僕は弾き続けるべきだった。

 たとえ自分のことが嫌いになろうとも。

 

 きっと僕は信じるべきだった。

 ピアノだけは僕を裏切らないことを。


 やがて僕のポケットに入っていたスマホが身体を振動させる。

 取り出してみれば、郡司真結衣からラインの返事が来ていた。

 僕が送ったラインの内容は、ピアノを数日間貸して欲しいというものだった。

 郡司壮真という彼女の父がピアニストであることは知っていたので、ピアノを所有していることは分かっていた。


『今からうちに来れる? 今なら先生付きでピアノ弾けるよ』


 今日は開校記念日で休日となっている。

 工事の騒音を遠くに聴いていた僕は自室のベッドから身体を起こすと、衣服を着替えるべくそのまま立ち上がった。

 ありがとう、助かるよ。じゃあ、今から向かうね。

 そんな短いメッセージを郡司真結衣に送り返すと、僕は彼女からの文面を見直す。

 先生付きでピアノが弾けるとは、どういう意味だろうか。

 いくら気にしてもわからなかった。

 だけどたぶん彼女の家に着けば分かるだろう。

 特に気にすることもなく、僕は返すのを忘れていたUSBメモリを持って家を出た。




 道がうろ覚えだったので若干時間がかかったけれど、なんとか無事郡司真結衣の家に辿り着くことができた。

 相変わらず綺麗な家だ。

 僕は手をハンカチできちんと拭いてからインターホンを押す。

 対応してくれたのは天使のようなメゾソプラノで、今更だけど彼女の言うピアノの先生を思い浮かべてみる。

 よく考えてみれば思い当たる人物はたった一人しかいなかった。

 郡司壮真。

 彼女の父であり、日本屈指の実力派ピアニスト。

 そしてコンクールの審査委員長。

 当然あの僕の悲惨な演奏を聴いているはずだ。

 急に帰りたくなってきた僕は、胃酸の過剰分泌を自覚しながら扉が開かれるのを待つ。


「いらっしゃい、久瀬くん。待ってたよ」


 特に待たされることもなく、すぐに扉は開く。

 季節のせいか普段よりラフなTシャツ姿の郡司真結衣は、今日も夏より眩しい輝きを放っている。

 手土産のクッキーを最初に手渡すと、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。


「ごめんね、郡司さん。本当に助かるよ」


「いいっていいって。家のピアノがしばらく使えないんでしょ? その間は私の家の全然使っていいよ。最近は誰も弾いてなかったし」


「本当にごめん」


「だからいいって言ってるのに。私たちペアなんだからさ。助け合うのは当然だよ」


 郡司真結衣はまるで気にしていないと言う。

 きっとそれは本心からの言葉だろう。

 ふつうコンクール直前にパートナーが練習時間の確保に苦労していると聞いたら、もっと不安がるものだけれど彼女は本気で気にしていないのだ。

 それが頼もしくもあり、悔しくもあった。


「そういえば郡司さん、これ返すよ。ありがとう」


「あ、うん。ちょうど今、“二人”でこの前の演奏見直してたところだったんだ」


「え? 二人で?」


「そうだよ。言わなかったっけ? 今、ピアノの先生が来てるって」


 そして予選での演奏映像が記録されているUSBメモリを返却すると、郡司真結衣は悪戯っ子みたいな笑みをみせる。

 妖精みたいで可愛らしかったけれど、僕は戦慄した。

 もし彼女の言うピアノの先生が父親のことだったとしたら、まさに今あのどうしようもない演奏をすぐそこで鑑賞しているということになる。

 多少メンタルを立ち直らせつつあるといっても、さすがにそれはキツイ。

 自分から押しかけておいて、僕はやっぱり帰ろうかと思った。


「ふふっ……ほら、周。久瀬くんが来たよ」


 しかし前に来た時とは違い、二階ではなく一階のリビングに案内された僕を待っていたのは、予想とはまったく異なった人物だった。

 顔の上半分だけでなく、下半分さえ隠してしまいそうな勢いで伸びたパサパサの黒髪。

 袖なしのシャツを一枚羽織っただけという郡司真結衣以上にラフな格好。

 ソファの背もたれに堂々と足を乗っけて、自宅のようにくつろいでいる案外スタイルの良い少女。

 小野塚周。

 ここしばらくの間めっきり話す機会の減っていた僕の数少ない友人が、なぜかそこにいた。


「ういー、よっす久瀬。それで真結衣、もう映像観終わったから、あたし帰っていい?」


「もう、ダメに決まってるじゃない。感想くらい聞かせてよ。というかせっかく久瀬くん来たのに」


「久瀬とかべつにどうでもいいし。だいたいこの映像も真結衣がみろみろうるさいから観ただけじゃん。元々興味ないから、感想とかべつにないんだけど」


「はぁ、本当に周って私のこと嫌いだよね。なんでなの? あともう少しで海外に行っちゃう幼馴染に対してよくそんな冷たくできるよね」


 相変わらずドライというか無気力な態度を、小野塚はやはり郡司真結衣に対しても崩さない。

 それにしてもどういうことだろう。

 ピアノの先生というから、てっきりそれは郡司真結衣の父親のことだと思っていたけれど、ふたを開けてみればそこにいるのはあの怠惰だけが特徴の小野塚だ。

 一応小野塚は郡司真結衣の幼馴染なので、ここにいること自体はそこまで不思議ではない。

 でもなぜ彼女のことをピアノの先生なんて表現をしたのか、僕にはさっぱりわからなかった。


「ちょ、ちょっと待って。郡司さん? ピアノの先生って小野塚のことなの?」


「え? そうだよ。他に誰のことだと思ったの?」


「いや、だって、べつに小野塚はピアノとか詳しくないでしょ?」


「なんの冗談? 久瀬くんなに言ってるの? 私より久瀬くんの方が周のピアノに関してはよく知ってるんじゃないの?」


 僕の疑問に、むしろ郡司真結衣の方が困惑した様子をみせている。

 驚く方がおかしいといった態度だ。

 何か奇妙なズレが生じているのは確かで、自然と僕らの視線は問題の張本人に向かった。


「おい、どういうことなんだよ小野塚。君ってピアノとか弾けたの?」


「ちょっと周。どういうこと? もしかして久瀬くんに言ってなかったの?」


 状況をややこしくしている張本人であろう小野塚はというと、心底面倒臭そうに頭をぽりぽりと掻いて黙り込んでいる。

 その沈黙に珍しく苛立った気配を見せる郡司真結衣は、おそらく僕らの演奏を再生していたであろう機器を操作して、画面を変える。


 やがて始まったある一人のピアニストの演奏。


 僕の耳に届く、精密かつ無駄のないスタイリッシュな音色。

 聞き覚えのあるその音を耳にして、僕は気づいてしまう。


「……これ、ハギワラシュウ、だよね?」


 間違いなく画面に映し出されている少年は、まだ自由にピアノを弾けていた頃の僕が唯一敗北したピアニストである萩原だった。

 余計なもの全てを削ぎ落した、無慈悲なまでに緻密な音。

 しかしその冷たいメロディは触れ難い高貴さと美しさを兼ね備えていて、忠実に奏でられる曲は完璧という言葉が相応しい。

 どうして彼の演奏が今、このタイミングで目の前に映し出されているのか、すでに想像はついていたけれど、素直に受け入れることができなかった。


「はぁ、やっぱり久瀬ってうんこだよねぇ。“シュウ”じゃなくて“アマネ”だから」


 小野塚は懐かしいものを見るような眼差しで、画面を見つめている。

 郡司真結衣は大切なものを見守るような表情で、耳を澄ましている。


 彼ではなく、彼女だった。


 ずいぶんと髪の伸びた“萩原”は前髪を掻き上げ、画面に映るものと同じ無愛想な顔を僕へ向ける。



「萩原はあたしの旧姓だよ。さっき久し振りにあんたの演奏を聴いたけど、ずいぶんと下手になったねぇ。久瀬朝日くん」





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