アマデウスより明るいうんこ


 消臭スプレーを辺りに撒き散らしながら、僕は窓から差し込む朝日に目を瞬かせた。

 大便のし過ぎで痛みに喘ぐ肛門に、改めて軟膏を塗る。

 ひんやりとした感触が気持ちよい。

 うんこを一晩中し続けたせいで、身体が軽く脱水症状を引き起こしている。

 僕は用意しておいたペットボトルを手に取り、ゆっくりと飲み込んでいく。

 気分は悪くない。

 自然と頭の中で響き渡るのは“僕の”レ・プティ・リアン。

 モーツァルトが書き上げたバレエ音楽を、今日この日まで何度もピアノで弾いてきた。


 第一回郡司壮真バレエ・ピアノコンクールの予選から約一ヵ月。

 つまり今日はついに本選当日というわけだ。


 グランドピアノの前に取りつけられた新品の便座。

 トイレと兼用になっている演奏部屋なんて、世界広しといえどもここだけだろう。

 父のおかげで僕はOIBSを発症したままピアノを弾き続けることができるようになった。

 父には感謝してもしきれない。

 正直いって喘ぎ声が漏れるほどの腹痛を耐えつつ、しかも汚らしい排泄音を聴きながら弾くピアノは最悪と言っても過言ではなかったけれど、僕はなんとかそれを一ヵ月続けることができた。

 このピアノにも何度もうんこが飛び跳ねたりして臭いとか汚れがこびり付いてしまっているのではないかと心配だけど、とにかくやれることは全てやったと言い切ることができる。


 だけど、心配事が残っていないといえばそれも嘘になる。


 まず最も懸念すべき事といえば、結局僕のOIBSがコンクール本選の今日までに完治しなかったということだ。

 今でも僕は自分の旋律を耳にすると、急激な腹痛に襲われてしまう。

 コンクールのための対策は一応考えてはあるけれど、できれば治しておきたいところだった。

 世の中そう上手くはいかないらしい。

 次に心配なのは、主に僕側の事情で郡司真結衣と一緒にする練習を一度もできなかったことだ。

 彼女が僕の演奏に合わせるというスタイルを捨てたとはいっても、さすがに合同練習を一度もしていないのはまずい気がする。

 僕が下半身を丸出しにして、便器に腰掛けた状態ではないとピアノが弾けなかったのでこんなことになってしまった。

 うんこを垂れ流しながらピアノを弾くことに慣れてきたとはいっても、その姿を郡司真結衣に晒せるわけがなかったのだ。


 そしてもう一つ心配、というよりも気になることがあった。


 それは僕のうんこが喋らなくなってから、一ヵ月が経ってしまったということ。

 べつにあいつの甲高いソプラノが聴けなくて、寂しいとかそういうわけじゃない。

 もちろん寂しくなんてないさ。

 ただ、気になるんだ。

 どうしてあいつはもう喋らくなってしまったのか。

 唐突に口を開かなくなったその理由が少し、ほんの少しだけ気になっていた。


 うんこの声が聴こえない。

 そんな当たり前のことは、今の僕にとって当たり前じゃなくなっていた。


 寂しいわけじゃない。

 僕は何度もその思いを自分に言い聞かせる。

 でも確かに自覚している想いもあった。

 それは僕のピアノを、聴いて欲しいということ。

 あの口うるさいうんこを、僕の演奏で黙らせたかった。

 だからまだあいつが喋らないことが気がかりだったのだ。

 最初から静かにされたら、黙らせることもできないじゃないか。


 溜め息を一つ。

 僕はいくら考えてもわからない悩みを腸の奥にしまい込み、頭をコンクールに切り替える。


 僕はたしかに郡司真結衣に惚れていて、再びピアノを弾こうと決意したのも彼女が理由だった。

 だけどそれは最初だけ。

 今の僕がピアノを弾くのは彼女だけが理由じゃない。

 僕自身が弾きたいと思っているんだ。

 どんな痛みを感じようとも。

 郡司真結衣のためとか、菖蒲沢に勝つためとか、そういうのはもうどうでもいい。

 僕は、僕のために弾く。

 今はそれでいいと思っていた。


「おはよう、アマヒ。いい朝ね」


 そして僕が扉の外に出ると、麗かな朝には少し似つかないハスキーボイスが聴こえてくる。

 いまや僕専用となった演奏部屋の外に見えたのは、相変わらず月のように冷ややかな雰囲気を纏う姉の姿だった。

 感情の読めない鉄仮面はいつものままで、何ものにも混じらない純白に染まった髪も耳元まで刈り上げられたまま。

 扉を丁寧に閉めると、意味のわからないあだ名で僕を呼ぶ姉に視線を返す。


「おはよう、姉さん。早起きだね」


「ええ。昨日の夜はとても短かったわ」


 数か月前に母は、姉が僕のことをいつも気にかけていると言っていた。

 でもその割には結局、僕が再びピアノを弾くようになってからも姉との関係性は変わっていない。

 ラインだって知らないし、会話だって何日ぶりにするのかわからないくらいだ。


「またピアノ、弾くようになったのね」


「いまさらなんだよ。この三か月間ずっと弾いてたじゃん」


「いえ、アマヒがまたピアノを弾くようになったのはこの一ヵ月くらいよ。だから最近は毎日が明るい。光がまた灯った」


 姉の言葉に思わず笑ってしまう。

 本当に比喩的な言い回しばかりする人だ。

 ほとんど何を言っているのか理解できなかった。

 そんな苦笑をする僕を不思議に思ったのか、姉は首を傾げている。


「それで、なんで姉さんはこんな朝早くからこんなところにいるの?」


「だって今日はアマヒのコンクールの日でしょう?」


「え? なんでそれ姉さんが知ってるの? 僕、言ってないよね?」


 姉は当たり前のように、今日がコンクール本選だということを口にする。

 僕の記憶が確かならばコンクールの日程のことは姉はもちろん、母や父にも伝えていないはずだ。

 OIBSが完治していないのにも関わらず、さすがに演奏を家族に見せるのは恥ずかしい。

 もし両親にまた僕がピアノを弾く姿を見せられる日が来るとしたら、その時はできれば大便撒き散らしながらではなく、普通に肛門を固く閉めた状態で演奏できる時にしたかった。


「だから今日は私もアマヒのピアノ、聴きに行くわ」


「いやいや、来なくていいよ。まだ僕の病気、治ってないんだ。たぶんまともに演奏はできないと思うし」


「関係ないわ。私はただアマヒのピアノの音を聴きたいだけだから」


 さらにコンクールの見学にまで姉は来ようとしているつもりらしい。

 やっと姉の早起きの理由を知った僕は頭を抱える。

 勘弁してくれ。

 ただでさえ郡司真結衣の伴奏者という立場のせいで、普段よりプレッシャーがかかるというのに家族の目に晒されるなんて。


 僕は予想外の重圧に、また胃がきりきりとし始めていた。


「それに母さんと父さんにも今日のことは伝えてあるわ。二人とも喜んでた」


「はぁっ!? ちょっと姉さん、冗談でしょ?」


「冗談? いいえ。私は冗談は言わない」


 至極真面目な表情で姉は僕を見つめ返す。

 なんということだ。

 父や母までもが今日のコンクールにはやってくるというのか。

 僕は知らない間に、事態が大事になっていることに眩暈がしてきた。


「この一ヵ月の間、ずっとあなたがピアノを弾く音を聴いてきた。その間、ずっと私の心は穏やかだったわ。まだ少し淡いけれど、あの音はたしかにアマヒの色をしていた。美しかった」


 夢見るような顔つきで姉は僕の音色を語る。

 珍しく感情が漏れ出ている姉は優しく微笑んでいて、僕は少しだけ前に母が言っていた言葉を信じ始める。


「私は小さい頃、よく泣いていた。そんな私をいつも慰めてくれたものを、あなたは覚えているかしら」


 姉の話題が遥か過去に飛んでいく。

 セピアに煤けた記憶を宙に浮かべて、僕もまた懐かしい夜空を思い出す。

 幼い頃の姉は身体が弱く、たしかによく泣いていた。

 当時から好きだった絵を描くことができず、ベッドで横たわることしかできない姉。

 感情の隠し方をまだ知らない頃の姉。

 そんな姉の隣りで、口下手な僕はどんな慰めの言葉もかけられなかった。

 泣き喚く姉を唯一慰めたのは、彼女の好むモーツァルトの音楽だった気がする。

 月光だけが差し込む夜に流れる、アイネ・クライネ・ナハトムジーク。

 その音色だけが姉を安心させた。


「……覚えてるよ。モーツァルトでしょ? 姉さんはあんまり音楽には興味を持たなかったけど、モーツァルトだけは好きだったもんね」


 僕がそう答えると、なぜか姉は優しく笑った。

 てっきり口輪筋の使い方なんて忘れてしまっていると思っていた。

 普段は他者を突き放すような印象の強い瞳も、今はただの綺麗な三日月にしか見えない。


「……いいえ、違うわ。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。たしかに私は彼の残した曲が好きだったけれど、私の心を落ち着かせたのは曲自体じゃない。私には“アマデウスより明るい”があった」


 姉が僕の方へ一歩近づく。

 珍しく崩れた表情はそのままで、瞳を閉じて僕の額に自分の額を寄せていく。



「泣きわめく私を、暗く沈んだ私の心を明るく照らしたのは、あなたよ、“アマヒ”」



 額と額が触れる。

 夜のように冷たい人だと思っていた姉の額は太陽みたいに暖かくて、僕に穏やかな温もりを伝える。

 姉の大好きなモーツァルト。

 そんな彼より明るい光があったと言う。

 そしてその灯こそが、僕なのだと。


「眠れない私の傍で、いつもあなたは泣きそうな顔をしていた。泣く理由なんて一つもないのに。そして私の傍から離れたあなたは、いつも遠くでピアノを弾いていた。私が泣く夜にあなたが弾くのはいつもアマデウスの曲だけだった」


 すぐ近くで姉の掠れた声が聴こえる。

 姉にかける言葉を見つけられない僕は、いつもピアノを弾いていた。

 いつの日か、自分の音で姉を救うことができるように。

 でも、どうやらとっくの昔に僕の音は届いていたみたいだ。

 アマヒ。

 そんな意味のわからない仇名も、今はあまり悪くはない気がしている。

 僕はピアノを弾けなくなってからも、姉はずっとその仇名で僕の名前を呼んでいたんだ。


「……ちょうど今日弾くのさ、モーツァルトの曲なんだ」


「……そう。それは楽しみね」


 額を離すと、姉は再び目をあけた。

 表情はいつもの無味乾燥なものに戻っていた。

 だけど僕が今日ピアノを弾く時は、きっとまた違う顔を見れるような気がしていた。


「じゃあ僕は先に行くよ。演奏の順番は一番最初だから、遅れないようにしてね」


「わかったわ」


「あとさ……会場に着いたら、一応ラインして」


「……わかったわ」


 家族に演奏を聴かれるなんてと最初は思っていたけれど、逃げないと決めたんだ。これもまた大切なことだろう。

 僕は姉の横を通り過ぎ、服を着替えに自室へ向かう。

 腹の痛みも知らない間に収まっていて、今ならモーツァルトより上手くレ・プティ・リアンを弾けるような気がしている。


 窓から差し込む朝日は、どこまでも眩しい。


 糞捻り散らかした朝に昇る日は、いつもより少し暖かく感じた。




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