打ちのめされるうんこ


 OIBSとは別の単なる緊張による腹痛を予感しつつ、僕は静かにその時を待っていた。

 厳かな宣誓と共に第一回郡司壮真バレエ・ピアノコンクールは無事始まりを迎えている。

 何組かのペアの演奏をモニター越しにではあるが実際に目の当たりにすると、いよいよ自分がまたコンクールに参加しているという自覚が芽生えてくる。

 自分が演奏している音でなければふつうに曲を聴くことができるので、他の参加者たちのパフォーマンスを鑑賞することに支障はない。

 どのペアもそれなりにレベルは高い。

 何度も練習してきていることが伝わるし、表現に関する個性を出そうとしている人もいる。

 さらにいえばそもそも伴奏者が一人いて、バレリーナが一人いるという構図そのものが僕にとっては珍しいものだったので、純粋に面白かった。


 だけど今のところ、正直いって僕たちを超えるペアはいないと思う。


 まだ序盤も序盤なのでさすがに断言はできないけれど、全ペア中の上位八組に入り、本選に出場を決めることはそこまで難しい目標ではない気がしてきた。

 この二ヵ月間、もちろん僕はただひたすら馬鹿みたいにピアノを弾き続けてきたわけじゃない。

 家族がいない時間帯を狙って僕の家に郡司真結衣をお招きして、二人で合わせの練習も積み重ねている。

 彼女に僕が耳栓をしながらピアノを演奏していることを気づかれないようにするのは大変だったけれど、今のところそれで何の問題も起きていないはずだ。


 パチパチパチ。


 乾いた拍手の音が聴こえる。

 また一組ペアが演奏を終えたようだ。

 隣りで真剣な表情をして画面の方向を見つめる郡司真結衣をそっと覗く。

 合わせの練習の際に彼女の舞踏をすでに見ているわけだけれど、正直今のところ彼女のレベルに達している人物は誰一人いないと言い切れる。

 彼女のバレエはまさに太陽。

 一挙手一投足が煌めきを放ち、周囲を明るく照らしだす。

 あの圧倒的表現力はやはり非凡なものだったのだと、今他のバレリーナ達を見て気づかされる。

 伴奏の方に関しては、僕は一度も自分の奏でている音楽を聴いたことがないので判断がつかないけれど、バレエだけでなら僕たちのペア、つまりは郡司真結衣の足下にも及ばないペアばかりだ。

 これは本当に僕が足を引っ張らなければ予選突破はもちろん、第一位入賞だって簡単にできるかもしれない。

 僕はこれまで一緒に練習してきた彼女がいかにレベルの高いバレエを披露していたのか知り、何だか自分が恥ずかしくなってきた。


「……来たね」


 するとそこで郡司真結衣が、顔は前に向けたままメゾソプラノで呟く。

 僕もつられて視線をモニターに戻すと、そこにはこれまでで一番身長差の大きいペアが並んで礼をする姿が見えた。

 菖蒲沢圭介と梶乙葉。

 早くも注目のペアの登場のようだ。

 僕は座る体勢を整え直し、果たして彼らが僕らの敵になりうるのかどうか見極めるべく画面に集中する。



 ――ダァン。



 重々しい低音が響き、舟歌が流れ出す。

 すぐに音色は黒鍵のみで弾かれる軽やかなメロディに移行し、透き通った青空と、その青を映す凪の水面が広がった。


 上手い。


 僕は一瞬で菖蒲沢が口だけの男ではないと理解する。

 すぐに白鍵が追いつき、二重のメロディが空気に波を立てる。

 適切な強弱と正確なタッチ。

 髪を獅子のような茶髪に染め、狼の如く鋭い眼光をした人間が弾いているとは思えないほど誠実なピアノがそこにはある。


 そして次の瞬間、僕は流星を見た。


 彗星のように視界を貫く、一筋の閃光。

 光は跳ねながら明滅し、ショパンの海に浮かぶ舟々に流星群を降らせていく。

 その小さく白い光は、梶という三つ年下のバレリーナだった。

 べつに舞台の照明が落され、彼女にだけスポットライトが当てられているわけではない。

 それにも関わらず、まるで夜を照らす唯一の灯火の如く彼女は光彩を放っていた。

 光のみ込まれてしまうような感覚を抱かせる卓越した表現力。

 全身に鳥肌が立つ。僕がバレエにこれほどの衝撃を受けたのは人生で二回目だ。


 郡司真結衣と同じ才能タレント


 僕は認めたくなかったけれど、その小柄な踊り子はたしかに世界を独り占めにしていた。

 そんな流星の躍動感にぴったりと寄り添うピアノ独奏曲。

 繊細かつ優しい菖蒲沢の旋律は、時には目を眩ませるほどの光を放つ梶のバレエに安寧をもたらしている。

 郡司真結衣のバレエを柔とするなら、梶乙葉のバレエは剛。

 同種の輝きを持つ梶だけど、鋭利であまりに激しい明滅を繰り返していて、油断すれば目を回し酔い潰れてしまいそうになる。


 しかしそんな苛烈さを、菖蒲沢の伴奏が薄いベールで包み込み、心地良い刺激に変えている。


 あくまで菖蒲沢は伴奏者に徹しているのだ。

 梶の天才性を最大限に生かし、個性を守り抜いているのはあの傲慢で高圧的な菖蒲沢だった。

 僕は信じられない気持ちで、ただただ目の前のパフォーマンスに圧倒されることしかできない。

 経験と練度に裏付けされた技術力もさることながら、ここまで現在進行形でパートナーの踊りに合わせてピアノを弾く応用力。

 間違いなく菖蒲沢圭介という少年は、僕がこれまで出会ってきた中でも最上級のピアニストだった。

 僕の知る同年代でトップクラスのピアニストといえば、現役時代に唯一敗北を喫した萩原が思い浮かぶけれど、彼に匹敵する衝撃を今僕は受けている。

 萩原があくまで冷徹で理知的な男性的ピアノだとすれば、菖蒲沢はどこまでも寛大で情緒豊かな女性的ピアノ。

 ベクトルこそ異なるが、その二人の音色は僕がこれまで出会ってきた中でも図抜けて美しい。

 流星の加速する明滅に、穏やかな旋律が深みを与える。

 気づけば僕は夜の海に浮かぶ小舟の上にいて、いっそ太陽が沈む前よりも明るく見える星空を仰いでいた。


 ふいに音が止み、星屑の夜に似た静寂が満ちる。


 次に聴こえてきたのは、パチパチ、という焚き木が燃えるような音。

 僕はそこでやっとそれが観客の拍手の音だとわかり、すぐにその喉を使わない歓声は万雷のものへと変化した。

 僕は放心したまま、綺麗な礼を見せる菖蒲沢と梶を見やっている。

 二人が去った後も拍手はしばらく続き、会場に余韻が残っているのがモニター越しでもわかった。


「……す、すごい」


「……化けたね。菖蒲沢くんの伴奏が、乙葉ちゃんを何段階も上につり上げた」


 思わずといった調子で漏れた僕の声に、珍しく感情を抑えた声で郡司真結衣が追従する。

 想像以上だ。

 会場の方では次のペアが姿を見せていたけれど、絶望したかのような表情をしている。

 それもそうだろう。

 今の直後に演奏だなんて、僕だったら軽く吐いてる。

 正直言って、次元が違った。

 菖蒲沢と梶のペアは僕の予想を遥かに上回り、どうすれば太刀打ちできるのか全くイメージが湧かない。

 郡司真結衣はたしかに最高のバレリーナだ。

 その事実は揺るがない。


 だけどこれはバレエコンクールじゃなくて、バレエ・ピアノコンクールなんだ。


 彼女一人じゃ、到底かなわない。

 足を引っ張らなければいいやだなんて考えじゃ、絶対にあの二人には勝てない。

 むしろ全盛期の頃の僕ですら、あそこまでの伴奏はできないだろう。

 単純な演奏でならいい勝負ができるかもしれないけれど、梶の伴奏という点でみればあれほどの完成度を僕にこなせるとは思えない。

 OIBS関係なしに、僕は菖蒲沢圭介というピアニストに劣っている。

 どうしようもないその事実に打ちのめされ、僕は耳栓をしていないのに周囲の音が聴こえなくなった。


「そろそろ私たちも、準備しよっか」


「……あ、うん」


 それからどのくらい呆けていたのだろう。

 知らない間にコンクールは中盤辺りを過ぎ去っていて、僕たちの出番が近づいているらしかった。

 控え室には今日何度目かわからないショパンの舟歌が流れていたが、その音に僕たちは色を感じ取ることができない。

 部屋を出る前に残った演者たちを見てみれば、その誰もが灰色にくすんだ瞳をしていた。

 きっと僕も似た目をしていることだろう。

 目を閉じると流星の光がちらつき、耳を塞げば慈母の囁きに近い音が響く。

 そしてしばらくすると、ついに僕と郡司真結衣の番がやってくる。


 舞台にまで続く長い廊下をゆっくりと歩いて行く。


 これまで通り僕は耳栓をし、久し振りに舞台の上に立つ。


 温い空調の風が頬を撫で、白橙の照明を身に受ける。


 目の前に広がるのは、予想していたより若干多めの観客たち。

 演奏前に満ちる独特な静寂に懐かしさを覚えたけど、それだけだった。

 数時間前までの緊張による高鳴りや、再びこの場所に戻ってきたことによる高揚感もなにもない。

 僕はピアノの前に座り、彼女は舞台の中央に立つ。

 アイコンタクトと共に僕は鍵盤を叩く。

 無音の世界で、僕は頭の中でショパンの舟歌を口ずさむ。

 これまで練習した通りに指は動き、期待した通りに僕はピアノを弾いていく。

 すぐ傍で郡司真結衣が踊っている。

 彼女もいつも通り太陽の如き輝きを放っている。

 滞りなく演奏は進み、頭の中で曲が終わるのと同時に、僕もまた手をピアノから放す。


 ミスはなかった。

 手応えもなくはない。

 現状のベストを出せた気がする。


 郡司真結衣の隣りに立ち、礼をすれば拍手をしている観客たちの姿が見えた。

 あまりにあっけなく、淡々と過ぎ去っていった僕と彼女によるショパンの舟歌。

 思っていた以上に何の感慨も覚えなかったけれど、僕の感覚では菖蒲沢と梶のペアの次くらいのパフォーマンスはできたつもりだった。

 控え室には戻らず、今度は観客席から残りの出演者たちを最後まで見守る。

 結局全員分の演奏を見終えるまで、僕と郡司真結衣の間にはまったく会話がなかった。

 それでも僕はこの時だけは、その事が大して気にならなかった。

 なぜかはわからない。


 本当に僕は今日、ピアノを弾いたのだろうか。

 郡司真結衣の伴奏をしたのだろうか。


 白昼夢の中にいるような気分のまま、僕は予選の結果発表の時を迎える。

 結局菖蒲沢と梶を超えるペアは最後まで現れなかった。

 自己採点でいえば僕らは予選二位辺りだろう。

 もちろん一位とは隔絶とした差があるけれど、おそらく僕たちと三位の間にも大きな差があると思う。


“予選第一位 梶・菖蒲沢ペア


 予選第二位 橋本・東海林ペア


 予選第三位 高橋・大迫ペア”


 どこか他人事のような感覚で、僕は結果発表を聞いている。

 しかし僕の予想とは反して、予選時点での上位三ペアに僕と郡司真結衣の名前は呼ばれなかった。


“予選第四位 三浦・北川ペア


 予選第五位 長谷部・遠藤ペア


 予選第六位 土居・町ペア”


 とっくのとうに耳栓を外しているはずなのに、音がやけに遠くに聴こえている。

 気づけば隣りから郡司真結衣が姿を消していたけれど、いつから彼女がいなくなったのか僕にはわからない。


“予選第七位 沖・奥寺ペア”


 失敗はなかったはず。

 僕のブランクはだいぶ改善していて、合わせの練習の時も郡司真結衣は僕の演奏に何一つ文句をつけなかった。

 でも結果が示している。

 僕はきっと、彼女の“伴奏者”になれなかったんだ。



“予選第八位 郡司・久瀬ペア”



 最後にやっと呼ばれた、僕と彼女の名前。

 その音色には喜色も達成感もなく、ただ虚しさが淡く響き渡っているだけだった。




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