お願いされるうんこ


「なあ、この“郡司真結衣”っていうの、もしかして郡司壮真の娘かなんかか?」


「は? そうだよ。てかなんでお前知らねぇんだよ。郡司真結衣は今回のコンクールの優勝候補だぞ。父親のコネ抜きでも、入賞筆頭っていわれてるんだからな」


「へえ。そうなんだな。じゃあこの伴奏者の“久瀬朝日”ってのも有名な奴?」


「いや、そいつは知らないな。あれ、でもどっかでこの名前見たような……」


 傘を閉じて会場内に入ると、ひしひしとした熱気を感じる。

 演者の親族か、関係ない一般人かは不明だけど、意外に観客らしき人たちも数多く見えた。

 入場口の何カ所かにはコンクールの簡単な概要が貼ってあり、出場者の名前の中に当然僕の名も含まれている。

 そしてやはり郡司真結衣は有名人なようで、会場に入ると様々な方向から視線を感じた。

 彼女の輝きが大きいせいか、それとも数年の時は長いのか、僕の方には注目は集まっていない。

 周囲には年齢が近い少年少女がところどころにいて、誰もかれもが才あるピアニストに見えて仕方がない。


「久瀬くん、大丈夫? 控え室はあっちだよ」


「あ、うん。大丈夫だよ。いこっか」


 久し振りのコンクールの雰囲気にのまれていた僕の肩を、郡司真結衣が軽く叩く。

 僕はここに来て、また不安で足下が竦みそうになっていた。

 落ち着きを取り戻すために、この二ヵ月間ずっと使い続けていた“耳栓”をポケットの中にちゃんとあるか確認する。

 OIBSが発症するのは、自分の奏でた音を聴いた時。

 ならば音を聴かずにピアノを弾けばいい。

 それがピアノ弾くために僕が見出した作戦だった。

 だけれども、やはり危惧を抱かずにはいられない。

 果たして本当に僕はこのまま郡司真結衣の伴奏者として役割を果たすことができるのだろうか。

 僕にはそれを確かめる術すらない。


 なぜならコンクールの当日になった今も、僕は自分が弾くショパンの舟歌を一度も聴いたことのないままなのだから。


 控え室まで辿り着くと、郡司真結衣は衣装に着替えると言って更衣室の方に行ってしまった。

 ひとり取り残された僕は適当な場所に座り、落ち着きなく辺りを見回す。

 弦が張り詰められているような独特の硬質な空気感。

 時々囁き声に近い会話がなされても、それは単発で終わり長くは続かない。

 見知った顔は今のところ確認できず、あの忌まわしき菖蒲沢の姿も見つけることはできなかった。

 今は耳栓をしながらピアノを弾くというふざけたうんこ野郎に成り下がった僕だけど、一応昔はピアノ界に名を馳せた神童だ。

 幼い頃の僕を知るピアニストに一人くらい声をかけられるかと思っていたけれど、それは杞憂に終わる。

 少し調子に乗っていたようだ。

 僕は自分で思っているより有名人じゃないみたいだ。

 昔に比べれば顔も身長もある程度変化しているので、それが理由で僕があの久瀬朝日だとわからない可能性もないことはない。

 でもたぶん違うだろう。

 単純に僕のことを知らないんだ。


 便利なメンタルを持つ僕は、そう考えると今度は緊張が和らぎ始めてくる。

 ここにいる誰もが僕のことなんか知らないし、興味も持っていない。

 みんな自分のことで精いっぱいだ。

 郡司真結衣の伴奏者、さらに久し振りのコンクールということで気負い過ぎていたかもしれない。

 そうだ。

 リラックスしよう。

 まともな方法ではなくとも練習はしてきた。

 それに僕のパートナーはあの郡司真結衣だ。

 足を引っ張りたくはないけど、それを差し引いても負けることなんてない。

 やっと心音が平常時の二倍程度までペースダウンしてきた。

 僕は久し振りに意識して呼吸をする。


「どうも! こんにちは!」


「ぶふぉっ!?」


 すると僕が息を吸ったタイミングで、いきなり耳元で明るすぎる大声が叫ばれ思わずむせ返ってしまう。

 何事かと隣りを見てみれば、まったく見たことのない少女がそこで満面の笑みでこちらを見つめていた。

 あまりに小柄な体躯をしていて勝手に控え室に入ってきた小学生かと思ったけれど、バレエの衣装に身を包んでいることから演者なのだと予想ができる。

 どうやらこの幼過ぎてまだ化粧に違和感の残る少女が、まったく部屋の空気を読んでいない大声の元凶らしい。


「キミが久瀬朝日だよね! うち、わかるもん! 絶対そうでしょ!」


「え、えーと、はい、僕が久瀬朝日ですけど……?」


「ほら! あたった! やっぱりうちって天才だね!」


 きゃっきゃっと少女は嬉しそうに手を叩く。

 彼女の明らかな声量の設定ミスが理由かわからないけれど、かなり周囲の注目を集めている気がする。

 わざわざ声をかけてくれたのはありがたいが、ちょっと人目を気にして欲しい。


「あの、もう少し声を抑えてくれると嬉しいんだけど」


「あ! ごめん! うちうるさいよね! それでいつも怒られるんだ! 静かにする!」


「うん。周りの人の迷惑になっちゃからさ」


「迷惑はよくないね! ソーリー!」


 軽く鼓膜が痺れる程度の声の大きさで少女は謝ってくる。

 人の話を聞いているのか聞いていないのか、まったくわからない子だ。

 それでも不思議と嫌な感じはせず、少しだけ郡司真結衣に似ていると思った。


「でもあれだね! なんか想像してたよりオーラないね! 地味! うん! 久瀬朝日すごい地味!」


 少女はけらけらと笑いながら僕をけなしてくる。

 ナチュラルな畜生だ。

 たしかに僕は目立つ方ではないけれど、だからといって初対面の女の子にここまで覇気のなさを指摘されるとは思わなかった。

 想像より地味だといわれても、そんなことは知ったことではない。

 そちらの想像が間違っていたのが悪い。


「真結衣っちが選んだ人だから、どんなキラキラ系王子かと思ったら、なんかくたびれたオジさんみたいだね!」


「元の想像は美化し過ぎだし、実際の感想は酷すぎるな。というか真結衣っちって郡司さんのこと? 郡司さんの知り合いなの?」


「そうだよ! うち真結衣っちの妹なんだー!」


「妹? 郡司さんに妹なんていないはずだけど」


「はっはーん! これがいるんだなぁ! まさにここにね!」


 スケートリンクみたいな胸を突き出し、少女はなぜか郡司真結衣との血縁関係を主張してくる。

 どうも僕のことを知っていたのは、過去の神童久瀬朝日ファンというわけではなく、郡司真結衣が関係しているのが理由らしい。

 しかし彼女に妹がいないのは揺るぎようのない事実だ。

 ならこの声の大きさを一向に調整できない少女は何者なのだろうか。


「それでね! 今日は久瀬朝日にお願いがあるんだ!」


「僕にお願い? というか君の名前まだ教えもらってないんだけど」


「うち今日ね! 実は午後から用事があって、自分の番が終わったらすぐ会場を出なくちゃいけないんだ! だからキミと真結衣っちの演技みれないんだよ!」


 ここに来て少女は僕の話をまったく聞かなくなった。

 喋るのはおろか、顔を合わせるのも初めてなのに、いきなりお願いとはなんとも図々しい子だ。

 思い返せば、郡司真結衣もほぼ初会話の状態でいきなり僕に伴奏者を頼んできていた。

 もしかしたら本当に腹違いの娘か何かかもしれない。



「だからさ……今日の予選で負けるなんてこと、しないでよ? うち、二人の演技、特に真結衣っちの踊り、ちゃんとこの目で見ておきたいからさ。それがうちからのお願い」



 そしてあどけない少女は、童顔に似合わない妖艶な笑みを浮かべる。

 背筋にゾクリとしたものが走り、僕は一瞬とんでもない怪物に牙を向けられている自分を幻視した。


「おい! 梶! もうすぐ出番だ! 準備するぞ!」


 聞き覚えのあるバスが刹那の静寂を突き破り、僕を包み込んだ錯覚がやっと消える。

 その声に反応した少女は軽やかに席を立ち、はーいとさっきまでの元気の良い声で返事をした。


「それじゃね、久瀬朝日! お互い頑張ろうね! ただ約束は破っちゃだめだよー!」


 ぶんぶんと勢いよく手を振りながら、少女は控え室の入り口付近に立つ背の高い少年の下へ駆け寄っていく。

 刺々しい、威圧感を放つ少年は僕の方を一度睨みつけると、何も言わずにすぐ視線を逸らす。

 あの宣戦布告から二ヵ月の間あいつは何も言ってこなかったが、今の目つきでいまだに衰えない敵意が分かった。


「圭介! 噂の久瀬朝日と喋ってきたよ! なんかね! 思ってたより地味だった!」


「久瀬朝日ぃ? 知らねぇなそんな奴。ウンコクセとかいう名前の無能がこの会場のどっかにいるって話は聞いてるけどな」


「あははっ! 相変わらず圭介はすごい久瀬朝日を意識してるんだね! 圭介がそんなに気にするなんて、パッとみヘボそうだけどやっぱり久瀬朝日ってすごいピアニストさんなの!?」


「うるせぇな。声がでけぇんだよお前は。無駄口はいいから行くぞ」


「はーい!」


 菖蒲沢圭介。

 ついに姿を現したあの嫌な同級生に付いていく少女を見て、やっとその正体に見当をつける。

 親子ほどの背丈の違いから不釣り合いに見えるが、きっと彼女こそが菖蒲沢のパートナーなのだろう。

 二人が廊下へと向かってからしばらくすると、今度は郡司真結衣が控え室に入ってくる。

 堂々たる立ち振る舞いと、映画の登場人物のような美麗さに僕は見惚れてしまう。

 そんな彼女は凛とした顔つきで何度か控え室を見渡すと、僕と目を合わせパッと顔を明るくさせる。

 超可愛い。

 僕は幸せだった。


「久瀬くん、お待たせ。私がいない間に何かあった?」


「いや、特に問題はなかったよ。菖蒲沢のパートナーの子に話しかけられたくらいかな」


 数分前まであの少女が座っていた席に郡司真結衣が腰掛ける。

 香水でも使っているのか、それとも体臭が生まれつき芳香剤代わりになっているのか、ラベンダーに似た優しい匂いがした。

 バレエの衣装に着替えた郡司真結衣は、あまりに眩し過ぎて直視できない。

 もうこんなの踊らなくても優勝できるんじゃないか。


「あー、乙葉ちゃんに会ったんだ。どうだった? 可愛かったでしょ?」


「え? あ、うん。まあ、郡司さんほどじゃないけど、それなりにね」


「それにしても、まさかだよね。乙葉ちゃんがこっちのカテゴリーにエントリーしてくるなんて」


 梶乙葉。

 あの少女の名前はたしかそんな感じだったはずだ。

 しかし僕がわりと勇気を出して言った褒め言葉を完全にスルーした郡司真結衣に引っかかるものを感じる。

 こっちのカテゴリーとはどういう意味だろうか。


「久瀬くんは知らないかもしれないけど、乙葉ちゃんは私たちの三つ年下なんだよ。まだ中学一年生。その世代では飛びぬけて優秀なバレリーナで、私的には恥ずかしいけど、“郡司真結衣の妹”なんて呼ばれてる子なの」


「中一? どうりで小さいと思った。それに妹ってそういう意味だったのか」


 一応今回のコンクールも年齢別でそれぞれ何歳以下の部と分かれているのだけれど、どうも梶は飛び級で僕らの部に挑戦しているようだ。

 そこまで考えて僕はあの小さな少女の恐ろしさに気づく。

 彼女は僕に予選で負けるな、本選でまた会おうといった意味のメッセージを残した。

 それはつまり自分は予選では終わらないと確信しているということだ。

 経験や身体能力で普通は劣るはずなのに、当たり前のように本選に残るつもりでいる。

 さらにいえば、あのプライドの高そうな菖蒲沢がわざわざパートナーに選ぶということは、生半可な実力ではないことは確かだろう。

 菖蒲沢と梶のコンビ。

 僕は予想以上に高い壁に挑もうとしているかもしれない。


「……あ、そろそろ、コンクール始まるね」


 郡司真結衣が顔を上げ、控え室に設置されてあるモニターへと目を移す。

 開会の挨拶が終われば、すぐに一番目のペアが演奏を始めることだろう。

 僕はまたキュルキュルと腹が音を立てるのを耳の内側で聞きながら、他の演者たちと同様に画面を見つめる。

 菖蒲沢圭介と梶乙葉。

 演奏の順序的には彼らの方が先だ。

 まずはお手並み拝見といこうじゃないか。




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