もう喋らないうんこ
コンクールの予選の結果が知らされた後も、僕はすぐに会場を出ることはしなかった。
知らない間にスマホへ入っていた郡司真結衣からの連絡。
僕に何か用事があるようで、そのために少し待っていて欲しいということだった。
観客席からは離れ、待ち合わせ場所であるエントランスホールで、僕は一人彼女を待つ。
もしかしたら彼女は家族の下へ行っているのかもしれない。
ちなみに僕の家族は誰一人としてここには来ていないはずだった。
理由は単純で、僕がまたピアノを弾き始めたことは母も姉もすでに知っていたけれど、コンクールに出ることは伝えていないから。
どうして家族に今日のことをいわなかったのか。それは自分でもはっきりと答えは出せない。
でも結果的に呼ばなくてよかったと僕は少し安堵していた。
きっとこの安堵こそが、僕の弱さなんだろう。
手持ち無沙汰に辺りを見渡してみると、ある箇所に今日のコンクールの結果が張り出されているのが目に入った。
吸い寄せられるように僕はそこまで近づいていき、既知の結果を改めて見つめてみる。
僕と郡司真結衣のペアは予選第八位。
ぎりぎりで本選出場を決めた。
当初の目標からすれば大健闘だ。
実際、今日の結果を二ヵ月前の僕が知ったら大喜びでできもしないハンドスプリングをやろうとするはずだ。
なのに今の僕は空っぽだった。
予選第一位の場所に名前が載っているのは菖蒲沢と梶のペア。
彼らの次元の違うパフォーマンスに圧倒されたせいだろうか。
どうにもそれだけではない気がしていた。
僕の今日の演奏。
やっぱり何かが足りなかったのだ。
演奏自体に技術的なミスはなかったと思うけれど、どこかで致命的な失敗をしてしまった感覚がある。
それに付け加え、やはり耳を塞いだままピアノを弾くことには限界があると思った。
僕は追憶する。
そもそも、僕はなんでピアノを弾き始めたのか。
僕が初めてピアノを弾いたのはどんな時だったのか。今の僕にはそれが思い出せない。
「やっと見つけたぞ、ウンコクセ。おい、あの演奏はどういうことなんだよ」
心が渇き切ってしまっている僕に、ふと剣呑な声がかかる。
緩慢な動きでその怒気を含んだ声がした方向に顔を向けると、案の定そこには今回のコンクールの予選を首位で突破したピアニストの姿があった。
僕は彼のことが嫌いだったはずなのに、今は嫌悪や対抗心も感じない。
ただ、羨ましいと感じていた。
僕はここで初めて自覚する。
そうか、僕の心は折れてしまっているんだ。
想像以上だった規格外の彼の演奏と、想定通りだったのに期待外れに終わってしまった僕の演奏との差に、僕の心は折られてしまっていたのだ。
「……予選第一位、おめでとう。正直、僕は君のことを見くびってたよ。素直に尊敬する」
「そんなもんはどうでもいいんだよ。俺は今、お前の演奏のことを言ってんだ」
顔に青筋を立て、激昂している様子の菖蒲沢は僕からの祝福の言葉を切って捨てる。
どうにも様子がおかしい。
そもそも彼はなぜここまで怒っているのだろうか。
彼は勝者で、僕は敗者。
それにも関わらず彼はプライドを傷つけられた虎のように牙をさらし、恨みがましい視線で僕を睨みつけている。
普段の彼ならば勝ち誇った態度で僕を見下すはずなのに、感情を剥き出しにして距離を詰めてくる。
「なんだよあの独りよがりな演奏は。郡司に一切合わせようともせず、自分勝手に弾き散らかしやがって。相変わらずムカつく、反吐が出るピアノだぜ。あんなの伴奏じゃねぇ。……でもよ、それは百歩譲って構わねぇんだ。それがお前の個性で、郡司がお前に合わせるってのが、お前らのペアの戦略だとも言えるからな。だから俺が一番ムカついてるのはそこじゃねぇ」
菖蒲沢は今にも殴りかからんばかりの勢いだ。
独りよがりな演奏。
伴奏になっていない。彼の言葉は容赦なく僕を責め立てる。
おそらく全部彼が正しい。
僕は今日まで自分がピアノを弾くことに精一杯で、パートナーと自分の演奏の親和性になんて目もくれなかった。
だけど彼女はそんな僕に何も言わなかったし、何も言わない彼女に僕は甘えていたんだ。
僕はただ郡司真結衣という太陽の光を乞うばかりで、その暖かみの対価を支払おうともしなかった。
「なあ、おい。お前は今日の自分の演奏を聴いてなにも思わなかったのかよ? たしかにミスらしいミスはなかったし、練習を積んできたのも分かった。……でもあれは、お前の演奏じゃねぇだろ。あれはお前以外の誰かの演奏をそっくりそのままコピーしてるだけだ」
左胸の内側が痛む。
腹痛の代わりに襲いかかってくる苦しみに、僕は耐える術を持っていない。
僕の演奏ではない。
菖蒲沢の真摯な言葉が僕を撃つ。
やはり彼は正しい。
やっぱり全て彼の言う通りだ。
自分の演奏を聴くことができない僕は、まず初めにCDでショパンの舟歌を聞き込み、暗記することから始めた。
そしてそのイメージのままに、何度も覚え込んだ旋律を出来る限り再現できるように練習を積んだ。
本来なら曲を覚えて、その後に曲を自分らしいものに変えるべきなのに、僕はその作業を怠った。
なぜなら僕は最後まで知らなかったから。
自分がどんな音色を奏でているのかを。
僕の弾くショパンの舟歌はいつまでも借り物のままで、伴奏者はおろか演奏者にすらなれていなかったのだ。
「それに加えてピアノに対するリスペクトもない。本来ならピアノごとにするべきタッチの微調整もせずに最後まで弾きやがった。お前は郡司だけじゃなく、目の前のピアノすらも無視したまま演奏したんだぞ。お前、音楽舐めてんだろ?」
呼吸が浅くなる。
否定はできず、言い逃れも許されない。
ピアノへの敬意がなかった。
僕が感じていた根本的なミス。
おそらくこれがその正体だろう。
いつも家で弾くピアノと全く同じ様に、僕は今日も弾いてしまった。
少しでも音色を聴けば簡単に気づくことができた問題を、耳を塞いでいた僕は見逃したのだ。
「クソがっ! また俺を馬鹿にしやがって! お前は今日、音楽を冒涜したんだ! おい! お前はなんのためにこの場所に戻ってきたっ!? もう一度ピアノを弾くんじゃなかったのかよ! お前はっ! 俺はっ! いったいなんのために今日……っ!」
怒りで我を忘れたのか、菖蒲沢は僕の胸倉をとうとう掴む。
それをただ僕は見つめていた。
自分自身の音楽を見つめ直すことを避け、付け焼き刃の薄っぺらい音色を奏でた僕の瞳と鼓膜。
危険な雰囲気を醸し出す僕らに、周囲の人々がいろめき立つ。
「……ごめん。僕はやっぱり、だめみたいだ」
かろうじてまともに動く僕の数少ない感覚器官。
思っていたよりか細い声で、僕は菖蒲沢に謝る。
なぜ彼がこれほど怒っているのかはよくわからない。
結局僕は、ただのよく喋るうんこにしか過ぎないみたいだ。
「……もういい。お前に期待した俺が馬鹿だったよ。そうだな。お前はやっぱりそういう奴なんだ。お前にこだわってた俺がガキだった。俺の方こそ悪かったな。これまで変に突っかかって」
ふいに菖蒲沢の肩から力が抜け、僕の胸元から手を放す。
もう二度と掴むことはないといわんばかりに、彼にしてはだらしない動きで腕を下げる。
いつもの威圧的で刺々しい覇気は見る見るうちに萎んでいき、よく見ると整った顔立ちにも疲労感だけが滲んでいた。
「だけどさ、一つだけお前に頼みがある」
冷めた、というよりは醒めた目つきで菖蒲沢は壁に貼られたコンクールの予選結果を眺めている。
そんな彼は頼みがあると言う。
乱れた服装を整えることもせずに僕は、ただ寂しそうに名前の羅列を見つめる菖蒲沢を見ていた。
「頼むからよ、もうピアノを弾かないでくれ。次の本選は辞退しろよ。郡司に恥かかせるだけだろ。どうせ俺たちには敵わない。……もう俺は、お前の演奏をこの耳で聴きたくねぇんだよ。これが俺からの頼みだ」
菖蒲沢が僕を見ることはもうない。
そういえば彼のパートナーである梶にもお願いをされたが、内容はまったく正反対のもので、それが少しだけおかしかった。
やがて僕の返事を待つことなく、彼は会場の外へ去って行く。
口を噤んだまま見送った僕は、いつもより彼の背中が小さく見えたことを不思議に思った。
「……久瀬くん、大丈夫?」
呆然と立ち尽くす僕に、遠慮がちなメゾソプラノが聴こえる。
振り向く気力すらない僕の前へ、若干気まずそうな表情の郡司真結衣が顔を出した。
「……あぁ、郡司さん」
「なんか菖蒲沢くんにまた絡まれてたみたいだったけど」
「大丈夫だよ。僕は、大丈夫」
「そう? ならいいけど……」
僕が郡司真結衣の足を引っ張った。
それはどうしようもない事実で、彼女もその事には気づいているはず。
しかし彼女は僕を責めようとはしなかった。
穏やかなダークグレイの混じる瞳には事実、僕への失望は何も映っていない。
「これ、今日の演奏が録画してあるUSBメモリ。望結兄さんが撮ってくれたやつ。一応渡しておくね。……次の本選はさ、もっと私がうまく合わせるから。それじゃあ、また連絡するね」
普段と変わらない明るい笑みで、郡司真結衣は僕にそう声をかける。
そこで初めて、僕は気づく。
彼女が僕を責めないのは、僕に失望しないのは、彼女が優しいからじゃない。
きっと彼女は、初めから僕に期待していないんだ。
だから僕に怒りもしないし、落胆だってしない。
僕はずっと彼女の隣りに立っているつもりだったけれど、本当は違った。
彼女はたしかに僕のピアノを聴いてみたいといった。
でもそれはあくまで言葉通りの意味しか持っていなかった。
本当にただ、聴いてみたかっただけ。
その中身も、質も、音色にも、興味はない。
郡司真結衣の、残酷な本質。
「あのさ、郡司さん。僕は君にとって――」
――伴奏者じゃないのなら、何なのかな。
そう問い掛けようと思ったけれど、もうすでに彼女は僕の下から去った後だった。
掌には彼女に渡されたUSBメモリ。
会場に残る意味を失った僕は、一人帰路につく。
いまだに雨が止まない街を抜け、地下鉄に乗り込む。
二回ほど乗り換えをすれば、僕の住む街へ帰ってこれた。
家につくと僕は雨で濡れた服すら着替えずに、ノートパソコンを持ってトイレの中へと閉じこもった。
USBメモリを差し込めば、聞き覚えのない退屈な音が流れ始める。
その音色を耳にすると凄まじい腹痛に襲われ、僕は吐瀉するような勢いで糞を捻り出す。
痛い。
痛い。
腹が痛い。
痛い。
痛い。
胸が痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
心が痛い。
自然と滲み出る涙。
鈍痛は消えない。
もう糞は出ない。
でも涙は止まらない。
そしてその日以来、僕のうんこは一言も喋らなくなった。
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