宣戦布告されるうんこ


 さすがに二日連続で徹夜はまずかったのか、軽く意識が朦朧としている。

 全身にはずっしりとした倦怠感がのしかかっていて、朝の太陽が目に染みた。

 若干足下がふらつき、教室へと続く階段を一段登ろうとするだけで呼吸が乱れてしまう。


 昨晩数年振りに“ピアノを弾いた”僕は、筋肉痛気味の肩を鳴らし、それでも一歩一歩着実に進んでいく。


 始業の時間までまだたっぷりと三十分はある早朝の学校は静謐で、一瞬この世界には自分しかいないのかと勘違いしそうなほど音がしない。

 代わりに頭の中ではショパンが何度目かわからないループを繰り返しているけれど、いまだ自然と動く指の動きとはズレてように思える。

 この微妙な齟齬を修正するのに、あとどれくらいかかるだろうか。

 体力を取り戻す必要だってありそうだ。

 そしておそらくもっとも重要な事になるけれど、伴奏者としてパートナーに合わせて演奏する術も学ばなくてはならない。

 ピアノを弾くという最大の壁を超えた今も、まだまだ苦難は続きそうだ。


「……うん?」


 疲労感漂う身体を引き摺りやっとのことで教室に辿り着くと、そこには意外な先客がいた。

 煌々と窓から差し込む光に身を当て、窓の外を思案気な表情で眺める長髪の美少女。

 均整のとれた相貌は神話のエルフを思わせ、あまりに凛とした佇まいは近寄りがたさすら感じ取れる。

 郡司真結衣だ。

 僕が彼女の美しい横顔に見惚れていると、やがてこちらの方に視線を向ける。


「おはよう、久瀬くん」


「あ、お、おはよう、郡司さん」


 普段はあまり見せない大人びた微笑み。

 僕は心臓の脈がやたらと加速していることを自覚する。

 ずっと寝ていないこともあり、下手をすると本当に破裂か何かしてしまいそうだ。


「今日は早いんだね。昨日は早退してたから、その埋め合わせ?」


「え? あ、ああ、うん。そんな感じ。郡司さんはいつもこれくらいの時間に来てるの?」


「そうだね。だいたいこの時間帯にはいつも教室にいるかな。私、けっこう朝型人間だから」


「へ、へぇ、そうなんだ」


 最近は実際に自宅に足を運んだり、会話をする機会も多くなって来たはずなのに、やっぱり郡司真結衣と喋っていると動悸で息苦しくなってしまう。

 意識のし過ぎという奴だろう。

 普通に学校で話すだけでここまで動揺してしまうなんて、コンクールでの心配事がまた増えた。

 すぐ傍で蝶のように舞う彼女に意識を取られ、演奏続行不可能になってしまうかもしれない。


「それにしても昨日はびっくりしたなぁ。いきなり周に告白したと思ったら、教室飛びだして戻ってこないんだもん」


「……は? え、ちょっと待って。誰が誰に告白したって?」


「うん? 久瀬くんが周にだよ?」


 郡司真結衣がふいに口にした言葉に、僕の脳髄が一時停止を起こす。

 どうにも僕の知らない久瀬くんとやらが、小野塚に告白をしたらしい。


「昨日思いっ切り愛の告白してたじゃない。唐突すぎてびっくりしちゃった。久瀬くんって予備動作みたいなの、ないよね」


「あの、その、えと、もしかして僕が小野塚に告白したって言ってるの?」


「だからさっきからそう言ってるのに。というより久瀬くん当事者でしょ? どうしたの? 照れてる?」


 小首を傾げ、少し責めるような口振りをする郡司真結衣に僕は頭を抱える。

 いったいどういうことだ。

 何がどうなってこんなわけのわからない状況になっているのだろう。

 必死で僕は昨日の記憶を思い返そうとしてみるが、霞みがかって不明瞭な頭の中はまるで見通せない。


「いや、いやいや、それはない。僕は小野塚に告白なんてしてないよ。それはきっと何かの勘違いだ」


「またまた。だって久瀬くん、周に向かって君のことが大好きだー、って叫んでたじゃない。あれはどう考えても告白でしょ?」


「だから違うんだって。誤解だよ。それは、なんというか、言葉の勢いみたいな感じで、ほら、昨日の僕ははちょっと興奮してたから」


「興奮してたの? 早退するくらい具合悪かったのに?」


「ほら、あれだよ、発熱で頭がわけわかんない感じにヒートアップしてた的な」


 僕はどうにかして郡司真結衣の思い違いを訂正しようとする。

 せっかく条件付きとはいえピアノが弾けるようになったというのに、こんな謎の勘違いで僕の青春を終わらせるわけにはいかない。


「……ふーん、なんだ、そうなんだ。じゃあ、やっぱり周が言ってた通りなんだね」


「え? 小野塚が何か言ってたの?」


「うん。凄い焦った様子で、クラスの子全員にひとりずつ久瀬くんとの間にはなにもないって説明してた。さっきのはなにかの間違いで、告白とかそういうのじゃないって」


 しかしどうやら僕以上にこの誤解を怖れた人物がいたようで、すでにある程度は真実が流布されているようで安心する。

 それにしてもあの怠惰な小野塚が、わざわざ僕からの告白を否定するためにクラスメイト全員に話しかけるなんて。そこまで積極的な姿はこれまで一度も見たことがない。

 よっぽど嫌だったのだろう。

 少しだけ悲しくなった。


「あんなに顔真っ赤にして、必死になる周久し振りにみたよ。久瀬くん、罪な男だね」


 向けられるからかうような上目遣いから仄かに官能的な魅力を感じ、初心な僕は目を逸らす。

 僕が二ヵ月後に彼女のために弾くことになるショパンの舟歌はよく覚えていないけれど、たしか彼の恋人のこと想って書いた曲だったはず。

 そう考えると急にロマンチックで運命的な物を感じてしまう。

 もし、僕と彼女がコンクールで優勝した時は、その時は絶対に僕の想いを、今度こそ勘違いではない言葉を伝えよう。

 静かに漲る闘志。

 僕は固い決意の靴紐をもう一度強く結び直した。


「よお、ウンコクセ。朝っぱから作戦会議か? その前にお前はピアノとトイレの区別をつける練習でもした方がいいんじゃねぇか?」


 するとまたいつかのように、穏やかな朝を濁らせるバスの音色が聴こえてくる。

 どこからともなく姿を現したのは、あからさまに敵意を剥き出しにした背の高い少年。

 ちょうど今登校してきたらしい菖蒲沢圭介は、まだ教室にほとんど生徒がいないことを確認すると、我が物顔で僕たちの方へ近づいてきた。


「おはよう、菖蒲沢くん」


「郡司……お前のその余裕ぶった態度も変わらねぇな。こんな何年も音楽の世界から離れてたオワコン野郎と組んで、本気で俺に勝てると思ってんのか?」


「もちろん。出るからには当然勝つつもりだよ。というかその口振りだと、菖蒲沢くんもパートナー見つかったんだね」


「まあな。お前と組めなかったのは正直残念だが、俺の優勝に揺るぎはねぇよ。こんなウンカス野郎と組んだ時点で、もうお前は敵ですらない」


 菖蒲沢は郡司真結衣を相手にしても高圧的な態度を崩さない。

 彼女の伴奏者として立候補していたくらいだ。

 彼がピアニストなのはわかっていた。

 そして僕たちに勝つとかそういう次元ではなく、どうにも心の底から自分がコンクールの頂点に立つと考えているらしい。

 学校行事などでも彼がピアノを弾く姿を見たことはないので、実力がどの程度なのかは知らないけれど、よっぽど自分の実力に自信があるみたいだ。


「特別に教えてやるよ。俺のパートナーは“梶乙葉かじおとは”だ。お前のために、わざわざこっちに来てくれたみたいだぜ?」


「え? ……そっか、乙葉ちゃんがパートナーなんだ。それはちょっと予想外」


 挑発するような調子で菖蒲沢が知らない子の名を口にすると、これまでずっと飄々としていた郡司真結衣の顔がこわばる。

 有名なバレリーナなのだろうか。

 聞いた話では同年代には敵なしのはずの彼女が、わずかながらでも表情を曇らせる相手がいるなんて。


「こんなお荷物背負って本気で俺と梶に勝つつもりならそれはいくらなんでも自信過剰なんじゃねぇか? 本選に残れたらいい方。郡司、お前は必ず後悔するぜ。俺を敵に回したことをな」


 勝ち誇ったように鼻を鳴らす菖蒲沢を、郡司真結衣は真剣な表情で見つめている。

 普段の余裕と穏やかさが消えたその横顔に、僕はどんな言葉をかければいいのかわからない。


「それじゃあな、郡司、ウンコクセ。二ヵ月後を楽しみにしてるぜ」


 一方的に言いたいことだけ言い終えると、菖蒲沢は踵を返して去っていく。

 最後に僕は強烈に睨みつけられたが、特に何を言われるわけでもなかった。

 気づけばだいぶ時間が経っていて、教室にも段々と生徒が登校してくる。


「宣戦布告、されちゃったね」


「あ、うん。そうだね」


 そして束の間の緊張をほどいたのか、郡司真結衣が普段の落ち着いた雰囲気を取り戻す。

 ややいつもよりぎこちない気はするけど、それでも彼女は優しい微笑みを僕に送る。


「だけど久瀬くんはなにも気にしなくていいよ。ただ久瀬くんは、自分の思うように自由に弾いてくれればいい。あとは私がなんとかするから。それに菖蒲沢くんには勢いでああ言ったけど、べつに勝ちたくてコンクールに出るわけじゃない。私はただ想い残しをしたくないだけだから」


 八重桜みたいにはにかむ郡司真結衣は、どこまでも僕を気遣った言葉をかけてくれる。

 でも僕はそんな彼女の台詞を、そのまま受け取るほど男をやめていなかった。

 僕にとって彼女は太陽で、いつだって誰よりも光り輝く存在なんだ。

 この灯りに僕が影を落とすような真似だけはしたくない。


「大丈夫、後悔はさせない」


「ふふっ、ありがとう。頑張ろうね。……それじゃあ、また」


「う、うん」


 猫のように目を細める郡司真結衣は、そのまま自席の方に戻っていく。

 知らない間に始業の時間間近になっていたようで、僕も彼女を真似して自分の椅子の方に向かった。

 そこにはいつの間にか小野塚の姿もあって、僕は昨日のことを謝ろうと声をかけた。


「おはよう、小野塚。その、昨日はなんか凄い迷惑かけたみたいで、ごめん」


「……あぁ、べつにいーよ」


 嫌味の一つでも飛んでくるかと思ったけれど、意外にも小野塚の反応は実に鈍く、僕の方に顔すら向けようとしない。


「どうした小野塚? 調子悪いの?」


「ふつうだけど」


「本当に? あんまりそうは見えないけど」


「ふつうだって」


 具合でも悪いのか、小野塚はかなりのローテンションだ。

 結局僕の方には一瞥もくれずイヤホンをして自分の世界にこもってしまった。

 たぶん便秘だな。

 僕は小野塚の不機嫌に適当な理由をつけ、とりあえずは気にしないことにする。

 思い描くのは二ヵ月後の僕と郡司真結衣の姿。

 ポケットに忍ばせた、僕がピアノを再び弾けるようにした救世主を手でこねくり回しながら、僕は静かに日が昇っていくのを待った。




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