便意と言う勿れ
ノンストップうんこ
徹夜明けの頭はぼんやりとしていて、教師の言葉がまともに聞き取れない。
昨晩は結局朝までずっと、過去の演奏ビデオを見てはトイレに駆け込むということを繰り返して過ごした。
僕がピアノを弾いているコンクールの映像は、母に尋ねれば簡単に見つけることができた。
まったく知らなかったけれど、母は今でも時々昔の僕の演奏を見返すことがあったらしい。
とにかくそういうわけで、僕は数年振りに小学生時代の自分を見ることができた。
思っていたより幼い顔つきで、反対に今の僕が一応でも成長していることがわかった。
ただ肝心の演奏自体は、ほとんど聞くことができなかった。
どうやら僕の聴覚はたとえスピーカー越しであっても、自らが弾く音を受け付けてはくれないみたいだ。
予想以上の重症だといえる。
おかげさまで昨日は久し振りに母の手作りカルボナーラを食べたというのに、おそらくもう僕の胃袋の中にパルメザンチーズもホワイトソースも残っていない。
ノートに書き写したショパンの舟歌。
たしかに記憶にある楽譜。
だけど僕はこの瞳に映る音符たちをすくい上げることができない。
リズミカルに机を叩き、感覚だけでも取り戻そうとする。
頭の中に浮かぶのはさざ波一つ立たない凪の水辺。白石並ぶ街に立つどこか神妙な面持ちの男女。聴こえるのは緩やかなピアノの独奏曲。視えるのは一定の調子で浮き沈みしている小舟。
イメージは悪くない。
指も動く。
感覚はところどころ錆びついているけれど、そんなものは研ぎ磨いていけばいいだけ。
でもこれがいざ鍵盤に指の乗せ、音を実際に奏でるともうそこで僕は動けなくなってしまう。
「おーい」
うんこの言う通りにして、僕は自分がOIBSが発症する条件を特定した。
少しは前に進んだような気がするにはする。
でも結局一番大きな壁を乗り越えることができていない。
堂々巡りというやつだ。
コンクールに出場している自分の姿だってまともに見れないのに、郡司真結衣の隣りで曲を演奏するなんて絶対に無理だ。
期限はたったの二ヵ月。
一分一秒だって無駄にできないのに、僕はいまだスタートラインにすら立てていない。
「おーいってば」
僕の机を叩く硬質な音が大きさを増していく。
ありがたいことに机から奏でられる音ならば、僕の身体は拒絶反応を起こさないようだ。
だからといって本番も、こんなエアピアノで代用するわけにはいかないだろう。
郡司真結衣に恥をかかせたくはない。
「ちょっと久瀬。あたしを無視するなんていい度胸してるじゃん。それともうんこのし過ぎで難聴にでもなった? あ、ちなみに今の腸とかけてるからね」
「うわぁっ!?」
するといきなり甘く柔らかな香りがしたと思ったら、鼻と鼻とくっつきそうな程の至近距離からライトブラウンの瞳がこちらを覗き込んでいた。
油断していた僕は、むせながら背後に飛び退く。
驚き過ぎて椅子ごとひっくり返りそうになった。
「……はぁ、驚かせるなよ小野塚。僕に声をかける時は、心の扉にノックしろっていつも言ってるでしょ?」
「えー、ちゃんとノックしたよ? だけど返事ないし、それに鍵も開いてたから勝手に入っちゃった」
「なに言ってるんだ。僕の心のマンションはオートロックだぞ」
「にひひ。そうなの? そのオートロックは久瀬の肛門なみにガバガバだねぇ」
適当なことを言ってだらしなく笑う小野塚は、今日も顔の上半分を前髪で隠している。
さっき一瞬見えた彼女の目は意外に綺麗な色をしていたので、髪を止めるか切るかすればいいのにと思ったけれど、なんとなくそれは黙っておいた。
「ガバガバとか女子が言うなよ。本当に小野塚は下品だな」
「それ久瀬が言う? というか絶対あたしの語彙がうんこ塗れになったの久瀬のせいだし」
「だから僕のせいにするな。言いがかりにもほどがあるぞ」
「そうかなぁ? こう見えてあたしは昔はけっこうクール系だったのに。久瀬に会ってからなんか人生おかしくなっちゃった」
「人生とかいよいよ大胆に乗っけてきたな。僕にそこまで影響力があったら今頃こんなうんこみたいな生活は送ってないよ」
そこで初めて僕は今が授業中だったことを思い出し慌てて口を塞ぐ。
小野塚につられてべらべらと喋ってしまっているが、これはさすがにまずい。
しかし警戒するように教室の前方を見てみると先生の姿はもう見つからなくなっていて、私語はおろかそこら辺を歩き回っている生徒すらいる。
これはどうしたことだろう。
ショパンが描いた旋律に思い馳せている間に学級崩壊でも起きたのだろうか。
「なに急にキョロキョロしてんの? 授業ならもう終わったよ。もしかしてそれにすら気づいてなかったの?」
「え? それ本当に? うわ。まったく気づかなかった」
「うわぁ、さいあく。久瀬はただでさえ成績悪いんだから授業くらい真面目に聞きなよ」
「小野塚がめちゃくちゃまともなこと言ってる。なんかすごい恥ずかしいぞ」
小野塚が呆れたといわんばかりに頬杖をついて首を振っている。
どうやら僕の気づかない間に、授業は終わってしまったらしい。
授業が終わる際にはいつも号令がかけられるはずなのだけれど、それにも僕の耳はまったく反応を示さなかったようだ。
「なんか後ろでタンタンタンタンうるさいなと思ってたけど、あんのじょうあっちの世界にイッちゃってたんだねぇ」
「言い回しがなんとなく嫌だな。言ってる内容は正しいっぽいし、なんか僕が全面的に悪そうで否定しにくいけど」
なるべく周りの人の邪魔をしないよう音を抑えてイメトレをしていたつもりだったけれど、どうやら僕が思っていた以上に迷惑をかけてしまっていたみたいだ。
気をつけないといけないな。
今度からは机の上にタオルでも敷こうかと思案する。
「それでなにしてたの? ピアノの練習? ショパン弾いてたみたいだけど」
「そうだよ。もう知ってると思うけど、今度僕、郡司さんの伴奏者をやることになったから、その練習……ってあれ? 僕が練習してたのがショパンだってよくわかったね」
「へ? あー、えと、ほら、久瀬が自分で言ってたじゃん。小声でぶつぶつショパンショパンって。だからそうなのかなぁって」
「僕そんなこと言ってた?」
「言ってた言ってた。それでどう? ピアノの調子は?」
机を叩くだけでショパンのメロディを再現できたのかと一瞬自画自賛しそうになったけれど、どうやらべつにそういうわけではなかったらしい。
小野塚は一旦咳払いをしてから、僕の調子を尋ねてくる。
この前の菖蒲沢の一件もあり、僕が郡司真結衣と組んでコンクールに出場するという噂は学校中に広がっているという。
「ピアノはうん、まあ、それなりかな。イメージはできてるんだけど、なにせ長いこと弾いてなかったから」
「やっぱりずっと弾いてなかったんだ。そもそもなんで久瀬はピアノ弾くのやめちゃったの?」
「それは、なんというか、弾く意味を見失っちゃったみたいな」
「へえ。そうなの」
僕は苦しい言い訳で小野塚の質問をかわす。
さすがにピアノを弾くと腹痛になってしまうOIBSの話をするのは躊躇われた。
そんな僕のかすかな狼狽を見抜いているのか、小野塚は口元を微妙に歪めている。
「それで真結衣に頼まれたからまた弾くってこと?」
「そうなるかな。正直あんまり自信ないけど」
「ふーん、健気だねぇ」
小野塚はつまらなさそうに唇を尖らせる。
なぜか不満そうな態度だったが、その理由は僕にはわからない。
郡司真結衣が周囲の目を気にせず僕に話しかけるせいか、最近なんとなくクラスメイトや他のクラスの学生から盗み見るような視線を感じるようになった。
それでも実際に声をかけてくるのは、相変わらず小野塚くらいだったけれど。
「コンクールいつだっけ?」
「二ヵ月後。なに? 応援にでも来てくれるの?」
「絶対行かない。つかそれ間に合うの? 時間全然ないじゃん」
「間に合わせるよ。必ず」
いくら頭の中で自由にピアノを奏でても、実際に弾くのとはわけが違う。
集中力を持たせるのも大変だし、体力的にも心配だ。
口では強がりながらも、正直僕の中にはコンクールに間に合うイメージがまったく湧かなかった。
「あっそ。まあ、あたしには関係ないし、べつにどうでもいいんだけどね」
そして僕に興味を失ったのか、小野塚は僕の方に向けていた顔を前に戻す。
どうでもいいことだけど、時々考えることがある。
実はうんこの声が聴こえるのは僕だけではなく、皆そうなのではないかと。
本当は皆自分のうんこと会話をしているけど、それを誰か他の人に話すのが恥ずかしくて言えないのではないかって。
「……なあ、小野塚。ひとつ変なこと訊いていい?」
「ん? なに? また自分がどんな奴かって話? 前も言ったじゃん。うんこだよ。久瀬はうんこ」
「違うよ。その事じゃない。それにうんこじゃなくて、うんこ並みに面白い奴だろ。省略するんだったら後ろじゃなくて前の方を省略してよ」
僕に授業中騒音被害を受けたせいか、若干不機嫌な小野塚は顔だけを半分こちら側に傾ける。
あの明るいライトブラウンの瞳が少し見えて、僕は意味もなくドキリとした。
「もしさ、もし自分のうんこが喋ったらどうする?」
「は? なに? 迫りくるコンクールのストレスで頭おかしくなったの?」
「違うって。たとえばの話だよ。どうする?」
「話題の転換が斬新すぎてついていけないわ。久瀬ってやっぱイッちゃってるね」
小野塚は心底愉快そうに笑っている。
ほんの数秒前までご機嫌斜めだったのに、どうも腹の虫は収まったようだ。
やっぱりうんこ女だ。
とにかくうんこの話をすればすぐに機嫌が治ってしまう。
「それで? 小野塚だったらどうする?」
「いや、無視でしょ。いくらうんこが話しかけてきても、会話はやばいでしょ」
「本当に? でもうんこするたび話しかけてくるんだよ? それでも無視し続ける?」
「えー、毎回喋りかけてくるの? なにそのお喋りうんこ。ちょっとウケる。いや、でもやっぱないわ。無視だねぇ」
意外なことに小野塚はうんことの会話は否定すると言い張る。
乙女ぶって見栄でも張っているのだろうか。
もしあのマシンガントークを仕掛けられたら、相手がうんこだとしても反応したくなると思うのだけど。
やっぱり僕の頭がおかしいだけかもしれない。
「イヤホンするとか、耳栓とかして、徹底的に無視するかな。あたしだったら」
「そっか。意外だな。小野塚だったら喜んで喋ると思った。気が合いそうだし」
「それ馬鹿にしてる? いくらあたしでもうんことは仲良くなれないよ。同族嫌悪、みたいな?」
「なるほど。そういうパターンもあるのか」
「納得されたらされたで腹立つね」
貴重な意見を聞いた僕は、ありがとうと小野塚に伝える。
彼女は露骨に嫌そうに唇をへの字に曲げていた。
どうもせっかく回復した機嫌をまた損ねてしまったみたいだ。
今度僕もイヤホンを試してみようかな。
たまには静かに便を捻り出すのもいいかも――、
「……は! そっか! そうだよ! その手があった! なんで気づかなかったんだ! 僕は馬鹿だよ! 信じられない大馬鹿者だ! ありがとう小野塚! 君って最高だ! 僕は君が大好きだよ!」
「うへぇっ!? な、なに急に!? ば、馬鹿なのは知ってるし! というか、いきなり、そんなこと、こんな場所で、あたし……」
――パァンッ、と張り詰めていた弦が切れたような勢いで、僕の頭の中にアイデアが降ってくる。
ついに思いついたのだ。
僕がピアノを弾く方法を。
幻聴なのは間違いないけれど、そこら中でファンファーレが鳴り響いていた。
「僕、ちょっと体調が悪くなったから早退するね! 小野塚、先生に言っておいて!」
「は? ちょっと久瀬待ってよ――」
勢いよく席を立った僕はそのまま荷物を抱え廊下へと飛びだす。
もういても立ってもいられない。
僕は、今からピアノを弾く。
高鳴る心臓の音さえパーカッションに感じる僕を止められる者は誰一人としていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます