覚えているうんこ
自らの情けなさに絶望する僕は、自宅のトイレでもう一時間近くはうなだれていた。
今日一日だけで何回トイレに来ているのかわからない。
おそらく同年代の少年たちの倍はトイレの個室を利用しているはずだ。
あまりに下半身を露出させすぎてすっかり腹部が冷えてしまった。
おそらく明日辺りは便が液体状になっていることだろう。
『私の伴奏者になって欲しいの。だめ、かな?』
『あ、うん、えと、その、だめじゃないです』
僕は数時間前に交わした郡司真結衣との会話を思い返し、奇声にも似た唸り声を上げる。
結局僕は彼女の頼みを断ることができなかった。
もう何年もピアノには触れてすらいないのにも関わらず、僕はやったこともないバレエの伴奏者を引き受けてしまったのだ。
もう終わりだ。
これからいったいどんな顔をして彼女と会えばいい。
やはり今からでも断った方がいいのだろうか。
「……はぁ、でもやっぱり郡司さん、可愛いかったなぁ」
しかし現金な僕は、帰路に着く前に至近距離で眺めた郡司真結衣の姿を思い浮かべてだらしなく頬を緩める。
鼓膜にすっと溶け込んでいくカルメンを思わせるメゾソプラノ。
本物の妖精だと言われても疑えないほど神秘的な可憐さ。
あとなんかよくわからない凄く良い香り。
そう、ついに僕はあの郡司真結衣とお喋りをしてしまったのだ。
冷静に考えてみると僕は今日ありえないような体験をしたのだった。
付け加えて言えばずっと遠くから眺めることしかできなかった憧れの相手と直接言葉を交わしただけでなく、個人的な頼み事すらされた。
このうんこ野郎の僕がだ。
信じられない。
これは夢かもしれない。
僕がその頼み事を九割九分九厘の確率で達成することができないことを除けば、今日は僕の人生史上最も幸運な一日といえる。
「いい加減にしてくださいアサヒさん。魂の抜けたような表情をしたかと思えば、次の瞬間には変質者丸出しの気色悪いニヤケ面。さっきからころころ顔を変えてどうしたんですか? うんこのし過ぎでとうとう気が狂いましたか?」
するとそんな落ち込んだり喜んだりを短い間隔で繰り返す情緒不安定気味な僕に棘のあるソプラノが向けられる。
うんこだ。
僕のうんこがまた喋り出したのだ。
「うるさいよ。僕は今人生の岐路に立ってるんだ。邪魔をしないでくれ」
「岐路? どんな岐路ですか?」
「それはお前には関係ない。うんこはうんこらしく黙って水に浮かんでろ」
「郡司真結衣さんのことですね。ピアノに触ることすらできないくせに、なにかっこつけて頼み事引き受けてるんですか。その頭の中にはうんこでも詰まってるんですか?」
「毎回思うけどなんで知ってるの? うんこのくせに耳早すぎない?」
客観的に見れば非常に奇妙、というか頭がおかしいってことは自覚済みだけれど、当たり前のように僕は自分のうんことコミュニケーションを取る。
我が家は三階建ての一軒家だが、トイレが各階に一つずつあって、僕の部屋がある三階のトイレを他の家族が使うことは滅多にない。
だからこうやってトイレの中で意味不明な独り言を連発しても不審がられる心配はなかった。
「まあでも、仕方がありませんね。アサヒさんは郡司真結衣さんにゾッコンラブですから。断れないのは当然です。むしろこれはある意味大チャンスと言っていいでしょう。きっとうんこの神様がアサヒさんに与えた人生最後のラストチャンスですよ」
「なんだよ人生最後のラストチャンスって。頭の悪い言い回しだな。だからお前はうんこなんだ」
「反抗的な態度ですねアサヒ。せっかくこの私が応援してあげてるのに」
「なにがこの私だよ。お前はただのうんこだろ」
偉そうな態度のうんこに向かって僕は丸めたトイレットペーパーを投げつける。
うんこの神に与えられたチャンスなんてろくなものではないに決まっている。
申し訳ないがこちらから願い下げだ。
「任せてください。アサヒさん。私がうんこの誇りにかけてあなたの恋を成就させてみせます」
「はぁ、お腹だけじゃなくて頭まで痛くなってきた。僕の恋を成就させてみせるだって? 冗談じゃない。恋のキューピッドがうんこだなんて笑えないよ」
うんこの誇りなんて汚らわしいものを勝手に賭けて貰っても困る。
僕はこう見えて潔癖なのだ。
僕は時々自分のうんこが何を考えているのかさっぱりわからなくなる。
いや、もちろん普段から自分のうんこが考えていることを正しく理解できているかと言ったらそれも違うけれども。
「心配は要りません。私のアドバイスに従えば全てが上手くいくはずです。私も常々思ってました。このままではいけないと。このままじゃアサヒさんは本当にただのうんこ野郎になってしまうと。だからこれは私にとっても願ってもみない絶好の機会というわけです。私は本気でアサヒさんを心配してるんですよ」
「僕はまだうんこに心配されるほど落ちぶれちゃいないよ。大きなお世話だ」
「アサヒさん、私はただ――」
いい加減に鬱陶しくなってきた僕は、まだ喋り足りなそうなうんこを水に流し強制的に黙らせる。
でも僕は自分のうんこに言われて、少しばかり考えてみる。
僕の恋を成就させる。
果たしてそれは可能なことなのだろうか。
これまでは想像すらしたこともなかった。
郡司真結衣という少女は僕にとってあまりに遠い存在で、どこか空想上の人物のようなところがあった。
だけど今日、僕は実際に彼女と見つめ合い、互いの声を響き合わせ、約束を交わしあった。
これは全て空想ではなく、現実に起こったことだ。
郡司真結衣がいなくなる前に、自分の想いを伝える。
OIBSのせいで悲観ばかりしていたが、言われてみればこれは願ってもみない、むしろ想像すらできなかった千載一遇の大チャンスなのかもしれない。
認めたくはないがうんこの言う通りだ。
ここでいつものように全てを諦め放り出してしまえば、僕はこれまで通りただ異臭を放つだけのうんこ野郎のまま。
僕は、変わるべきなんだ。
誰のためにピアノを弾いているのかわからなくなってしまった僕。それはもはや過去のこと。
郡司真結衣のためなら、僕が心の底から惹かれている彼女のためならピアノを弾ける気がする。
「……ピアノを、弾こう」
かつてモーツァルトの再来と呼ばれた天才児、要するに僕のことだが、つい目を覚ました神童は確固たる自信を持ってトイレの外に出る。
いつまでもこんな狭くて無機質な牢獄に閉じこもってばかりはいられない。
家の階段を数段飛ばしで駆け下りながら、真っ直ぐに一階の演奏部屋を目指す。
まるで郡司真結衣という天使から翼を借り受けたみたいだ。
身も心もお尻も軽い。
解き放たれた僕はもう止まらない。
目的の部屋の前に辿り着くと、迷うこともなく扉を開いた。
春の風が若干かびくさい部屋に吹き込み、僕は部屋の灯りをつけるのに少しばかり手間どる。
ここに来るのは何年振りだろうか。
なんだか懐かしい気分だ。
記憶より部屋が小さく感じる。
きっと僕の方が大きくなったのだろう。
やっと照明のスイッチを探り当てた僕は、無駄に広い空間の奥で寂しそうに鎮座しているグランドピアノの下まで歩み寄る。
埃を被ったカバーをゆっくりと取れば、そこにはどこか貴婦人のような高貴さを漂わせた、昔と変わらぬ“彼女”の姿があった。
「久し振り、だね」
よく喋るあいつとは違って、寡黙な彼女は僕に言葉を返さない。
かすかに震える手で彼女に触れてみる。
感じ取れる冷たさが返答だと思った。
一瞬前まであれほど昂っていた心音が落ち着きを取り戻していく。
椅子を引き、僕は真っ白な鍵盤と見つめ合う。
僕は、変わるんだ。
何度か深呼吸をしてから腰を下ろせば、便器に座った時と同じような安堵感を抱ける。
やっぱり今なら、弾ける気がする。
郡司真結衣の姿を頭に浮かべて、僕は指を鍵盤にそっと乗せる。
うんこをした後にまだ手を洗っていなかったことにここで気がついたが、それはもはや些細なことだった。
――ダンッ。
そして僕はついに大きな一歩を踏み出す。
唄うように奏でられた美しいメロディ。
刹那、稲妻に似た衝撃が僕の中に走る。
ああ、覚えている。
この感覚を。
この感覚だ。
たった数秒で全てを理解した僕は頭上を仰ぎ、知らぬ間に溢れた涙で視界が滲む中、自分がいるべき場所を知った。
「あ、無理だこれ。めっちゃお腹痛い。トイレいこ」
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