道なきうんこ


 案の定OIBSを発症させて急激な腹痛に襲われた僕は、また小一時間ほどトイレに缶詰するはめになった。

 完全に調子に乗っていた。

 なにが郡司真結衣のためならピアノを弾ける気がするだ。

 間抜け過ぎて恥ずかしくなる。

 世の中そう自分の思う通りには運んではくれない。

 現実はあまりに非情で、僕はやっと猛威を収めつつあるお腹を撫でまわす。


「どうやらだめだったみたいですね、アサヒさん。でも私はその挑戦する姿勢は評価します」


「……うんこに評価されても嬉しくないよ」


 そして待ってましたとばかりにまたうんこが喋り出す。

 彼女の言葉に唆されて無謀な暴挙を冒してしまったけれど、結局それは何の成果も生み出さなかった。

 やっぱりむりなんだ。

 僕が郡司真結衣の伴奏者になるなんて。

 想いを伝える、ましてや恋を成就させるなんて高望みもいいところ。

 今の僕にできることなんて、うんこ以外に何一つない。


「まだ諦めるのは早いですよ。たしかにピアノを弾くことはできませんでしたが、だからといってそれが郡司真結衣さんに想いを伝えられないことにはイコールになりません。それにピアノに関しても、まだまだこれからです。策を考えましょう。私にいいアイデアもありますし」


 僕の心を読んだかのようにうんこが慰めの言葉をかけてくる。

 こんな憐れなただの役立たずにこれほど優しくしてくれるのは、考えてみれば彼女だけだ。

 そう思うと僕は何だか少し自らのうんこが愛おしく思えてきた。


「……ありがとう。もう僕が頼れるのはお前だけだよ。でもどういう風の吹き回し? いつものお前はどっちかっていうと僕を責めることの方が多くなかったっけ?」


「どうやらアサヒさんは私のことを誤解しているようですね。私はたしかに日々を何の生産性もなく無意味にダラダラと過ごしクソを垂れ流すことしかしない無価値なうんこ野郎は嫌いですが、どういう形であり変化、前進を望み、苦悩しながらも何かしらの目標に向かって挑戦する人間は嫌いではありません。前者がこれまでのアサヒさんで、後者が今のアサヒさんだと私は思っています」


「なるほど。昨日までの僕がどういう風に見られていたのか理解できて大変参考になるよ」


 僕のうんこはかつての僕を凄まじい勢いでめためたに批難する。

 正直いって、ただ数年振りにちょっとピアノを触っただけの今の僕が、それほどにこれまでの僕と変われているかと思うとはなはだ疑問だ。

 むしろ全く変化していないと言っても構わない気がするけれど、どうも僕の自惚れから生じた馬鹿げた暴走は自らの排泄物の好感度を著しく上げたらしい。


「それでこれからアサヒさんはどうするつもりですか? もちろん諦めるなんて言いませんよね?」


「諦めたくはない、けどさ。僕に何ができる? このままだと郡司さんに迷惑をかけるだけだよ」


「まったくもう! だから私がアドバイスすると、私にアイデアがあると何度も言っているじゃないですか! なんで私のことを頼ってくれないんですか!? 私はアサヒさんにとってなんですか!?!?」


 いや、僕にとってお前はただのうんこだよ、と言いたかったけれど彼女のあまりの熱量に思わず口を噤んでしまった。

 いったい何が彼女をそこまで熱くさせるのだろうか。


「わ、わかったよ。じゃあ、とりあえずそのアイデアとやらを聞かせて。正直まだ自分うんこの助けを借りることには抵抗があるけど、お前が本気で僕を助けたいって気持ちは理解できた。だから、聞かせて欲しい」


「ふっふ~んっ! やっと私の話を聞く気になりましたか。まったくもっと早くからアサヒさんは私を信頼するべきだったんですよ。これだからうんこ人間は困りますね。判断がいちいちクソ鈍い」


「ぐっ……いいから、早く聞かせてよ」


 僕が助けを請うことを明言した途端、目に見えて調子に乗り出したうんこに若干苛立ちを覚えるがなんとか堪える。

 相手はうんこだ。

 うんこ相手にむきになってどうする。

 僕はただよく喋るうんこだな、と大人の態度で耳を貸すだけでいい。


「そうですね。それではまず、いったんピアノの事は忘れましょう。アサヒさんの呪いともいうべきその症状を解決することは後回しです」


「は? おいおい、いきなりなにを言ってるんだよ? 僕は郡司さんにバレエの伴奏者を頼まれてるんだぞ? どう考えてもまたピアノを弾けるようになることが一番大事じゃないか?」


「はあ、まったく。本当にアサヒさんはとんだお人好しさんですね。なんとなくアサヒさんがなぜピアノを弾けなくなったかわかってきましたよ。……アサヒさん、よく考えてください。今のアサヒさんにとって、もっとも叶えたいことはなんですか?」


「え? そ、そりゃ、またピアノを弾けるようになって、郡司さんのバレエの伴奏者として――」


「ノオオオッ! ダムシィット! 違います! 違うでしょう!? 自分の本当の望みすら把握できていないなんて! まったく何回うんこすればその頭の中は整理整頓されるんですかね!」


 うんこは絶叫するかのように僕を叱る。

 ラフマニノフ作曲のタランテラみたいな苛烈さだ。

 心臓と肛門がキュッと引き締まる。


「アサヒさんにとっての最優先事項は、“郡司真結衣との恋を成就させる”、ことです。そうですよね!? そうでしょう!?!?」


「あ、は、はい。そうだと思います」


「もしピアノを弾けるようになっても、最終的に郡司真結衣さんと結ばれなければ意味がないのです。要するに今のアサヒさんが達成すべき物事の優先順位は、まず郡司真結衣さんにある程度自分への好意を持たせる、或いは郡司真結衣さんにとって好意を抱かれても嫌ではない程度の格を持った人間にアサヒさんがなること。それが一番最初に来るのです」


「な、なるほど」


 流暢な日本語をうんこは早口で捲し立てる。

 前から思っていたけれどなんて滑舌が良いのだろうか。

 ハイトーンのソプラノという声質も相まって、案外歌手としての才能があるかもしれない。

 歌手デビューするうんこ。

 たぶん実現すれば人類史上初めての出来事になることだろう。


「極論をいえば、もし郡司真結衣さんがアサヒさんに少しも興味を抱かないようなら、そんな見る目のない女のためにわざわざ努力を課してピアノを弾く必要なんてありません。約束なんて無視して家で鼻クソでもほじっていればいいのです」


「いやいや、それはいくらなんでも無責任すぎるというか、人としてどうかと思うけど」


「甘い! 甘すぎますよアサヒさん! 見返りを求めず、好きな相手のために必死に努力をする。それはたしかに美しい行為だとは思いますが、今のアサヒさんに必要なのはそういった努力ではありません。今のアサヒさんは誰かのためではなく、自分のために挑戦すべきなのです! もっと自己中心的になってください! アサヒさんの人となりも知らず、ただ過去の名声だけを聞いて伴奏者を都合良く頼んでくる女なんてろくなもんじゃありませんよ! 利用されているだけです!」


 しかし僕のうんこが口にするものは極論も極論過ぎて、僕は若干心に据えかねる思いを抱く。

 僕のための忠言だとわかっていたとしても、純粋無垢を体現している僕の大天使を侮辱する発言は許せない。


「ちょっと待ってよ。それはいくらなんでも言い過ぎじゃない? 郡司さんは僕の病気のことを知らないんだ。僕のことを都合良く利用しているわけじゃない。彼女はそんな人じゃない。ただ単純に、伴奏者を探していて、偶然ピアノが弾けそうな人を見かけたから声をかけてみただけ。ただそれだけだろう?」


「……そうですね。申し訳ありません。興奮のあまりちょっと言い過ぎてしまったようです。謝らせてください」


「いや、べつに謝って貰うほどの事ではないんだけどさ……何を言いたいのかはわかったから」


 僕が反論を返すと、予想外にもうんこは素直に引き下がる。

 なんとなしに肩透かしをくらった僕も、言葉尻が自然にしぼんでいった。


「それで、えと、とりあえず僕がやるべき事としては、ピアノを弾けるようになる前に、ある程度郡司さんの好感度を上げとくってことでいいんだよね?」


「はい。私はそうすべきだと思います」


「なら具体的に僕はなにをすればいいの? 言っておくけど僕、なんの取り柄もないよ?」


「それは知っています。なのでまずは情報を集めましょう。どんなことでも構いません。好きな食べ物、交友関係、苦手なもの。とにかく最初は情報をかき集めて、郡司真結衣さんにとっての理想の男性像を推理します。そしてそれがある程度予想できたら、後はそこに近づく努力をするのみです」


「あー、なるほど。たしかに初手としてはそれが一番かもしれないね」


 妙な雰囲気になりかけたことを意図的に無視して、僕は話を本筋に戻す。

 するとうんこも気持ちを仕切り直してくれたのか、普段通りの落ち着いた口調で自らの意見を教えてくれた。


「ちなみにアサヒさんは郡司真結衣さんに関してどこまで知っていますか?」


「うーん、そうだな。片想いをしてる身としては、あんまり知ってることは多くないんだよね。かろうじて知っている事といえば……郡司真結衣。身長156センチ。体重47キロ。誕生日は8月27日。血液型はA型。三つ上の双子の兄達がいて、ラブラドールレトリバーを一匹飼っている。バレエ以外にもスイミングを習っていて、得意なのは背泳ぎ。あと住所は目黒区青葉台の――」


「あ、ストップです、アサヒさん。すいません。もう大丈夫です。私が悪かったです。だからもうそれ以上はやめてください」


「え? なに? どうしたの?」


 だが僕が薄っぺらな浅い郡司真結衣に関する情報をつらつらと述べていると、なぜかうんこがそれを遮ってくる。

 あまりに誰でも知っているような常識過ぎて、それ以上は興味がないというメッセージだろうか。


「どうやら郡司真結衣さんの情報を集めることより、別の方法を試した方がいいかもしれませんね」


「なんでなの? 僕も郡司さんの情報を集めることは重要だと思うけど」


「いえ、なんというか、はい、そっちは後回しにしましょう。それより先に、知ってもらった方がいい気がします」


「知ってもらう?」


 はやくも前言撤回する意志がブレブレのうんこに若干不安な気持ちになるが、僕は特にその事を指摘はしない。

 とにかく一度はうんこのアドバイスに頼ることを決めたのだ。今は素直に彼女の言葉に従うことにしよう。


「はい。そうです。郡司真結衣さんがどんな人なのかを知るのではなく、郡司真結衣さんにアサヒさんがどんな人なのかを知って貰いましょう」


 郡司真結衣に僕のことを知ってもらう。

 それはピアノという唯一のアイデンティティを失った僕にとって、彼女に想いを伝えること並みに難しいことに思えたが、どうにも他に道はないらしかった。



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