だめと言えないうんこ
今日の分の授業もつつがなく終えた僕はいまだに帰路につかず、もはや第二の家といっても過言ではない旧校舎三階のトイレに引きこもっていた。
べつに便意を催したわけでもないのに個室の中に入り、無防備に下半身を露出させている僕はどこか白昼夢を見ているようなぼんやりとした感覚を抱いている。
色々な映像が頭に浮かんでは消えていく。
考えはいつまで経ってもまとまらず、無意味に時間だけが過ぎていった。
「……郡司真結衣が、いなくなる?」
僕の口から声変わりのしていない幼げなボーイソプラノが漏れる。
その暗鬱とした響きは一度頭の中で広がった後、狭いトイレの個室に反響して再び僕に影を落とす。
中等部に入学した時からずっと想い続けていた相手が、もうおそらく二度と手の届かないであろう世界へと旅立ってしまう。
信じられないというよりは、受け入れられないと表現した方が正確だった。
もちろん僕は郡司真結衣とまともに会話したことだって一度もないし、特別な接点だって何一つ持っていない。
ほとんど他人と言っていい。
それに身の程知らずな希望を抱いていたわけでもない。
だけど、それでも、僕は彼女の顔をこの先一生目にすることができないであろうという事実をまだ直視できていなかった。
「……いや、まだだ。まだわからないだろ。これはあくまで噂だ。全部小野塚の聞き間違いか勘違いの可能性だってあるじゃないか」
僕は自分に言い聞かせるように独り言をブツブツと呟く。
そうだ。
まだ郡司真結衣がいなくなってしまうことが確定したわけではない。
本人の口から聞いたわけでもないし、教員の人から彼女が転校するという話だってされていないのだ。
実際は全て思い違いで、夏休みの間に海外旅行に行くとかそういったオチかもしれない。
情報源である小野塚周という少女が、これまで一度だって嘘や間違ったことを言ったことがないというのが少しばかり気掛かりではあるけれども、誰にだって初めてはある。
何の心配も要らないはずだ。
そんなことを考えながら深呼吸を繰り返すと、それとなく気分がよくなってきた。
泥水の如く透明度の悪かった頭の中もだいぶ明瞭になってきて、肛門は乾いたままなのに身体が幾分か軽くなった。
思考の片隅で現実逃避なんてフレーズがちらりとこちらの方を覗いた気がしたが、僕はそれに気づかない振りをして重い腰を上げる。
一応水を流してからトイレの個室を出れば、窓からはもう茜色の光が差し込んで来ていた。
きちんと手を洗ってから第二の我が家から離れ、旧校舎の廊下を来るときに比べてだいぶ落ち着いた足取りで歩いていく。
この旧校舎は元々は被服室や実験室、それに体育館などの実習棟として役割を果たしていたのだが、僕が入学する数年前から老朽化が原因で使われなくなってしまったらしい。
そこまで古臭く、傷みが酷いわけでもないので、特に入ることを禁止されているわけではなかったけれど、この何となくの物淋しさと不気味さからか僕のように好き好んで旧校舎に足を運ぶやつはめったにいなかった。
僕の記憶に間違いがなければ、この旧校舎も来年辺りからついに立て壊しの工事が始まるという。
郡司真結衣もいなくなってしまい、旧校舎のトイレも奪われてしまったら、僕はいったいこの灰色の学校生活のどこに癒しを見出せばいいのだろうか。
そのまま僕は旧校舎から抜け出し、人気のない渡り廊下を通り、自分のクラスを目指す。
教室に置いたままの荷物を取ったらそのまま今日は帰るつもりだった。
想定していたより学校を出る時間が遅くなってはしまったが、僕の家がここから徒歩で十五分もかからない程度の距離にあるので大したことはない。
父はおそらくまだ太平洋の向こう側にいることだろうし、母は月が空の真上に登りつめる前に帰っては来ない。
もしかすると僕の数少ない二親等である姉が先に家に着いているかもしれないが、あの人は僕にそこまで興味を持っていないので特別な感情は示さないはずだ。
僕ら高等部の学生が普段利用している第二校舎の窓越しから見えるグラウンドでは、たった一つのボールを何人かが追い回している。
青春の光景に、僕は目を細める。
部活にもろくに入らず、日々を無為に過ごしている僕からすると、その光景は左胸に痛みを誘発させる眩しさを放っていた。
神童。
モーツァルトの再来。
虹色の音を奏でる少年。
時々僕は昔の自分を思い出す。
かつての栄光は色褪せ、今の僕は壁と便器しかない無彩色の空間に閉じこもるばかり。
ただ僕はそこまで強くまたピアノを弾きたいと思っているわけでもなかった。
僕はピアノが好きだった。
想像した通りに指を動かし、鍵盤を叩き、求めた通りの音を響き渡らせるのは実に気分が良かったことを覚えている。
だけれど、あの頃の僕、つまりはOIBSに罹る直前の僕がピアノを弾くことにうんざりしていたこともはっきりと覚えていた。
相次ぐコンクールという名のお遊戯会。
練習に次ぐ練習。
僕が奏でるのは僕が奏でたい曲ではなく、審査員とかいう面白味のない大人たちを喜ばせるための曲だけ。
ピアノを弾けば弾くほど、僕は自由にピアノを弾けなくなっていった。
誰かに強制されていたわけではない。
でもたしかに両親を含む僕の周りの大人たちはそれを望んでいた。
もちろん僕はピアノが嫌いになったわけではない。
音の雨に濡らされている時だけは世界が美しく見えた。
でもやっぱり僕は、うんざりしていたんだ。
ただひたすらにうんざりしていた。
もしかすると心のどこかで、僕はピアノを弾かなくていい理由を探していたのかもしれない。
OIBSという病名を与えられて、安堵すらしていた。
きっとやっと自由になれたと、僕は解放されたような気分になっていたのだ。
セピアに褪せた回想の中、そぞろに歩いていると、やがて自分の教室に辿り着く。
扉は開かれていて、僕は特に躊躇することなく中に入ろうとする。
だけどその瞬間、目視できない壁に阻まれるかのように僕の身体がピタリと止まってしまう。
そこにあったのは、どこまでも静かで、冷たい、白い太陽だった。
背筋を針金のように真っ直ぐと伸ばし、鹿のような健脚は片足だけが地面についている。
教会の祭壇のように神聖で、厳かな気配。
その白い太陽は、並べられた机の間を縫うように滑っていく。
音もなく、滞りもない。あるのは人智を超えた美しさだけ。
僕の頭の中に、ウェーバーの最も有名な曲の一つ、“舞踏への勧誘”が流れる。
親戚にモーツァルトの妻がいることでも有名なカール・マリア・フォン・ウェーバーは、ロマン派で知られるドイツのピアニストだ。
硝酸とワインを飲み間違えるなんてお茶目なエピソードを持つ彼の舞踏への勧誘は、彼自身のオペラ歌手だった妻カロリーネのために作曲されたといわれている。
舞踏への勧誘に合わせて、白い太陽は踊る。眩しいのに穏やかで、リズミカルなのに静かな舞い。
僕はただ、ただ、見惚れていた。
それは僕の知る限り、この世で最も美しい光景、時間だったんだ。
「……あ、久瀬くん。まだ学校にいたんだね」
そんな風に幻想的な世界に沈んでどれほど経っただろう。
僕を引き上げる声が、ふいに白い太陽から聴こえてくる。
白い太陽は可憐な少女の姿をしていて、僕に向けられているのは、ありとあらゆるものに赦しを与えるような優しい眼差し。
宵闇に似た瞳には僕の間抜け面が映っていて、メゾソプラノが完全に思考停止した脳内に染みわたっていく。
「え、は、あれ、うお、ぐにゅっ、郡司さん?」
郡司真結衣。
僕のクラスメイトにして憧れの想い人が、なんと二、三歩足を踏み出せば届く距離にいる。
たちまち汗ばむ脇の下。
完全に油断をしていた僕はひたすらに硬直することしかできない。
「もしかして、見られちゃった?」
「ご、ごめん。勝手に。覗き見するつもりじゃなかったんだけど」
「……じゃなかったんだけど?」
郡司真結衣は小首をかしげて、僕を瞬き一つせず見つめている。
この僕の人生史上最も幸運かつ奇跡的な状況にも関わらず、天使との接触に不慣れな僕はユーモアの一つも言えず、無味乾燥な返事をするのみ。
心臓の脈が普段の倍速になっている気がする。
いつ心臓発作を起こしてもおかしくはない。
「そ、その、郡司さんが、あまりにも」
「……あまりにも?」
僕を試すかのように、郡司真結衣は真意を悟らせない、宇宙のように暗く底知れない瞳を向け続ける。
「静かに、綺麗に、踊るから、声をかけられなかったんだ」
だから僕はついうっかり素直な心を吐露にしてしまう。
たちまち頬が熱を帯びる。
綺麗だなんて言葉、こんな真正面から誰かにぶつけたことはハツよりチキンな僕には当然経験ないことだ。
「……へえ。静かで、綺麗、か。それは初めて言われたな。久瀬くんって、聞いていた通り面白いね」
「え?」
郡司真結衣はロシアンブルーのように目を細めて、思案げな表情をつくる。
それにしても初めて言われたというのは意外だ。
彼女が綺麗なことなんて羽根アリでもわかるのに、案外みんな実際に口にはしないのだろうか。
「でもなんかこうやって、久瀬くんときちんとお話するの初めてだね。同じ学校に三年間も一緒にいて、もうそろそろクラスが同じになってから一ヵ月くらい経つのに」
「あ、そ、そういえば、そうだね」
「もったいなかったかな」
「え? あ、うん」
夕日が薄れ始め、白月が顔を見せ始めている。
部活動に勤しむ学生を除き、下校時刻を過ぎた校内には人影がほとんど見られず、教室はもちろん、廊下にも僕と彼女以外誰もいない。
額から流れ落ちる大粒の汗に水分を取られたのか、僕の口の中はからからに渇いていた。
「あのね、久瀬くん、私さ――」
「あの! ぐ、郡司さん!」
「きゃっ! え、なに?」
そしてついに混乱の極地に達した僕は、心の制御と声のボリュームを操る術を忘れてしまう。
前触れなくいきなり大声を上げた僕を、ノルウェージャンフォレストキャットみたいな顔をした彼女が見つめていた。
僕はいったい何をしているんだ。
これだからうんこ野郎は困る。
「僕、その、聞いたんだ。郡司さんの、噂。聞いたんだよ」
「私の噂? どんな噂?」
「それは、えと、郡司さんが、なんか、転校、するみたいな。……本当なの? 夏になったら、郡司さんが海外に行っちゃうって。ここからいなくなるって、本当なの?」
突如湧き上がった衝動のまま、僕はどうしても彼女本人に確かめたかったことを尋ねる。
変な奴だと思われるかもしれない。
それでも構わなかった。
そんなの嘘だよと、いつも僕が遠くから目にするような笑顔で、否定して欲しかったから。
「……うん。本当だよ。でもよく知ってるね。あ、そっか。周から聞いたんだね。久瀬くん、周と仲良いもんね」
しかし、現実はどこまでも残酷だった。
どこか寂しそうに、僕から目を逸らして、彼女は僕の望んでいなかった言葉を返す。
郡司真結衣はいなくなる。
それはもう、避けられない運命だった。
「実は私、小さい頃からバレエを習っていたんだけど、その関係で秋ごろからオーストリアにある音楽の専門学校に通えることになったの。本当は私もまだ日本にいたいけど、中々ないチャンスだから。挑戦しようと思って」
「そう、なんだ」
郡司真結衣がクラシックバレエの実力者であることは僕も知っていた。
見るからにお嬢様な彼女には、その高貴な容姿に相応しい才覚が備わっていたのだ。
糞尿を垂れ流すしか能のない僕には、彼女はあまりに遠い存在だった。
「……あ、そうだ。いいこと思いついた。私、久瀬くんにお願いしようかな」
悲観に暮れる僕に、彼女は光の向こう側からまた満月のような瞳を向ける。
ショパンの華麗なる大円舞曲みたいに華やかで悪戯な笑みを浮かべて、僕の無知で色彩に乏しい目を覗き込む。
「私、知ってるよ。久瀬くんって、すごいピアノが上手なんだよね?」
「え? は、い、いや、そんなことないよ。いったい誰がそんなデマカセを――」
「ふふっ、だめだよ。隠したって無駄なんだから。あの子はいつも適当で何も考えてないように見えるけど、嘘だけは吐かない子だもん」
どこかの間抜けが中途半端に僕の過去を教えたのか、なぜか郡司真結衣はかつての僕がピアニストとして将来を渇望されていたことを知っているらしかった。
あくまで純粋に、一切のよこしまな穢れなく僕を見据える天使に向かって、僕はすでに自分が才能を枯らしていることを伝えられない。
それが僕の致命傷になるであろうことは薄々わかっていた。
それにも関わらず僕の喉は何の音も出そうとはしない。
「あのね、私オーストリアに行く前に、バレエのコンクールに出るんだ。それでね、そのコンクールはピアノの伴奏者とペアになって演じることになってるんだけど、まだその伴奏者が見つかってなくて」
ドクン、ドクンと、心臓が際限なく加速していく。
嫌な予感がしていた。
コンクール。
ピアノ。
伴奏者。
ペア。
見つかっていない。
この世界で唯一どんな願い事だとしても僕が断れない相手が、今まさに何を言おうとしているのかすでに悟っていた僕は、数分後自分が腹痛に悩まされている様子をありありと想像できた。
きっと僕はだめ、と彼女に言えないだろう。
「だからお願い、久瀬くん。私の伴奏者になって欲しいの。……だめ、かな?」
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