思ったより早いうんこ


 まずは僕のうんこの話をしよう。

 僕のするうんこは本当によく喋るのだが、驚くべきことに固有の人格、または糞格と呼ばれるべきものを持っているらしかった。

 ある程度の個性を備えたその喋り方は人間でたとえるなら女性的であり、僕は便宜的に自分のうんこを彼女と呼ぶことにしている。


 最初は名前を付けようと思ったりもしたが、自らの排泄物に名を与えるという行為は中々に難儀なもので、いまだにやり遂げることができていない。

 初めて彼女の声を聞いた時の衝撃は尋常なものではなく、驚愕のあまり彼女の顔の上にさらなる糞尿を垂れかけてしまったことは今でもよく思い出せる。

 ちなみに彼女は別々の分かれた大便でも関係なく声を発することができるので、僕の糞がウサギのようなコロコロ状の時は、彼女はいつもその無駄にハイトーンな声でコーラスをするのだ。


 知識量や現状の認識に関しては基本的には僕と同様のものしか持たないが、時々僕の知らないような事までも喋り出すことがある。

 いったいなんでお前がそんなこと知ってるんだよ、うんこのくせに、と思うような場面も多々あるが、彼女は時々普通の人間は知らないような事も口にするのだった。

 どこが口なのかはいくら見ても分からないけれども。


「おー、やっと戻ってきた。またうんこ? 相変わらず久瀬のうんこは長いよねぇ」


 そして愉快な彼女との会話を終えて教室に戻り、自席まで足を運ぶと、僕に話しかけてくるアルトの声が聞こえてくる。

 この声の持ち主はうんこではなく、れっきとした一人の人間だ。


「うるさいよ。だいたい華の女子高生がそうやってうんこうんこ簡単に口にするのはどうかと思うよ。君には羞恥心が足りないよ。羞恥心が」


「えー、そうかなぁ? でもたぶんあたしがうんこうんこ言うようになったのって、久瀬の影響だと思うんだよねぇ。というか絶対そうだと思う」


「そんなわけないだろ。自分がうんこ女になった理由を僕に押し付けないでくれ。君自身の人格に問題があるんだ」


「うーん、まあ、あたしの性格が糞なのは否定しないけどねぇ」


 顔が半分ほど見えなくなるほどのボサボサ頭。

 制服も適当に着崩していて、シャツは第三ボタンまで外されていて、中に着込まれているのは目に痛いライトイエローのTシャツ。

 僕の席の一つ前に座り、こちらに身体を半分向けるそのクラスメイトの名は小野塚周おのづかあまね

 妙な縁があり、中学一年生の頃からついに高校一年生まで四年連続で同じクラスになった僕の数少ない友人だった。


「それにしてもまさか高等部に進学しても小野塚と同じクラスになるとは。これが腐れ縁ってやつなんだろうか」


「ん? なに? そんなにあたしとまた同じクラスになれたことが嬉しいの? まったく。久瀬は可愛い奴だなぁ」


「誰もそんなこと言ってないだろ。どれだけおめでたい耳をしてるんだよ」


「にひひ。照れてる照れてる」


「照れてない。それ以上からかうとうんこ投げるぞ。今日の僕のうんこは投げやすい形状をしてるんだ」


「うわぁ。最悪。久瀬が言うとそれ冗談に聞こえないんだよねぇ」


 ふざけたことをふざけた面で口にする小野塚に対して、僕は牽制しておく。

 この女はすぐに僕をからかう悪癖があったので、あまり調子に乗らせてはいけないのだ。

 たしかに学校中で悪い意味で有名な僕とこうやって普通に接してくれるのはありがたいことだが、それとこれとは別問題だった。

 女みたいな人格を持つうんこと、うんこみたいな性格をした女に続けざまに掻き乱された心に平穏をもたらそうと、僕は教室の前方に視線を映す。


 そうすれば僕は、世界を照らし尽くすような眩い太陽を見つけ出すことができた。


 僕の座席は廊下側最後列なのにも関わらず、その慈しみと華やかさを併せ持った輝きはここにまで届いてきている。

 あまりの輝きに目を細める僕は、その光の中心に一人の天使がいることを知る。

 郡司真結衣。

 僕はその天使の名をすでに知っていた。

 腰の辺りまで伸ばされた長髪はブラックダイアモンドを思わせ、少しダークグレイの混じった瞳は星屑の輝きすら霞ませる。

 名画をそのまま具現化したかのような神秘的かつ魅力的な相貌は完璧な調和を保っていて、ダヴィンチのモナリザよりよっぽど気品に溢れた微笑はこの世の物とは思えない。

 彼女の存在はたとえるならチャイコフスキーの白鳥の湖。

 彼女を見ているだけで、僕の心にはトロンボーンの音色が吹き荒れた。


「まーた、真結衣に見惚れてる。今の久瀬、ずっと我慢してたうんこをやっとする時みたいな顔してるよ」


「うわぁ!? な、なんだよいきなり!?」


 知らない間に小野塚があと数センチの距離まで顔を接近させていて、その事に気づいた僕は驚きのあまり軽く飛び退いてしまう。

 せっかく郡司真結衣のおかげで鮮やかな色彩を手に入れ僕の世界が、瞬く間にモノクロに薄白んでいった。


「久瀬がさっき考えてたこと当ててあげる。もし、あたしがいなかったら真結衣と近くの席になれたのにー、とか考えたでしょ」


「は? い、いやいや、そんなこと考えてないよ。それにどうせ僕が郡司さんと近くの席になれたところで、彼女に迷惑をかけるだけだ。遠くから見守るくらいでちょうどいいんだよ」


「なんか見守るって言い方きもいね。うんこのくせに上からな感じがして」


 僕の通う学校では席替えをする前の座席は名前順で決定されるため、苗字が同じカ行の僕と郡司真結衣が前後の座席になる可能性はたしかにあった。

 しかし実際にはちょうど僕が廊下側の最後尾で、僕より出席番号が一つ後ろの郡司真結衣は教室の最前列の席になってしまっている。

 出席番号が僕の一つ前が小野塚なので、たしかにもし彼女がいなければ、僕と郡司真結衣が前後の席になれたことだろう。

 でもべつに僕はそんなことは望んでいない。

 郡司真結衣の近くに腰を下ろすなんて、こんなうんこ野郎には過ぎた望みだ。

 緊張やら情けなさで出るものも出なくなる。

 僕にそんな資格はない。


「というかそんなに真結衣が気になるなら話しかけるなり、告白するなりしたらいいんじゃない? 真結衣は優しいから、たぶん久瀬が傷つかないようにフってくれるって」


「うるさいな。なんでどいつもこいつも僕が拒絶される前提なんだ。否定はしないけどさ」


「どいつもこいつも? 久瀬に恋のアドバイスをするような暇人があたし以外にいるの?」


 僕は心底不思議そうな顔をする小野塚から視線を外し、和やかに友人たちとの談笑に興じる美姫の方へもう一度目を向ける。

 郡司真結衣という奇跡の存在を知ったのは入学式のことだった。

 ちょうど今と同じ様な春の季節。

 まだ僕が学校中の笑い物になってしまう前。僕は彼女と出逢った。

 桜の花びらが舞う陽光に照らされた雪のように白い肌。

 ほんの一瞬、合致した視線。

 ただそれだけで僕の心は見事に奪われ、いまだに彼女の虜になったまま。

 俗にいう一目惚れというやつだった。

 直接言葉を交わしたことはこれまで一度もない。

 しかしそんなことは関係なかった。

 僕が郡司真結衣に恋をするのに、多くの理由は要らなかったのだ。


「はぁ、郡司さんって、彼氏とかいるのかなぁ」


「んー、たしかこの前はいないって言ってたけど。今はどうだろう。わかんないなぁ」


 僕の独り言に小野塚がぼんやりとした声で反応する。

 世の中不思議な事はあるもので、小野塚と郡司真結衣は家がご近所の幼馴染というやつらしかった。

 かつて少しばかり欲を出した僕が、小野塚に幼馴染の縁を使って郡司真結衣を紹介してくれと頼んだこともあるのだけど、幼馴染だけどそんなに仲良くないからムリ、とかクソみたいな理由で断られたことは記憶に新しい。


「まあでも、郡司さんに彼氏がいるかどうかなんて関係ないよな。僕みたいなうんこ野郎じゃ彼女には釣り合わない」


「わかんないじゃん。もしかしたら真結衣はうん専かもしれないよ?」


「うん専ってなんだよ。変な造語で僕の郡司さんを侮辱するのはやめろ」


「えー、せっかく慰めてあげたのに。久瀬って面倒くさいなぁ。それと僕の郡司さんって言い方うんこきもいからやめた方がいいよ」


 小野塚はこれ見よがしに大きな溜め息を吐く。

 腹立たしいうんこ女だ。

 だが事実、あくまで僕の知る範囲ではあるけれども、郡司真結衣に恋人関係にある人物がいるという話は聞いたことがない。

 完璧な容姿と性格を持つ彼女であれば引く手数多のはずで、実際に自信過剰などこかの憐れな男に告白されたという噂も小耳に挟んではいるが、その結果までは中々届いてこなかった。

 特定の男性をパートナーにするつもりはないのかもしれない。

 それか密かに想いを寄せる相手がいるとでもいうのだろうか。

 僕は持病とは別の理由でお腹が痛くなってきた。


「だけどさ、実際のところ、もし本気で久瀬が真結衣をどうにかしたいと思ってるなら、あんまりのんびりしてる暇ないよ」


「さっきから言ってるだろ。僕はべつに郡司さんとどうにかなりたいなんて身分不相応な夢は抱いてないって」


「実はさ、この前ちょっと噂に聞いたんだ。真結衣の噂」


「……なんだよ。その噂って」


 僕の意志と発言を無視して、小野塚はぺらぺらと自由に喋る。

 本当ならここで悪態の一つや二つついてやりたいところだったけれど、普段はニヤニヤと弛緩させている表情を珍しく引き締めているので、僕は素直に彼女の言葉をきく。



「うん。なんか真結衣、夏頃になったら、海外に行っちゃうらしいよ。要するに転校ってやつ。もうすぐあたし達、真結衣とは離れ離れになっちゃうみたい」


「……え?」



 やがて神妙な声色で紡がれたその言葉を受け止めた僕は、果たしてどれほど間抜けな顔をしていたことだろう。


 夏、海外、転校、真結衣、離れ離れ。


 やけにスロウなテンポで、短い言の葉たちが僕の脳内に染み込んでいく。

 

 期待していたわけではない。

 僕と彼女が隣り立ち、笑い合う日々を。

 

 理解はしていた。

 いつか僕と彼女が遠く離れ、二度と顔を合わせることのなくなる時が来ることを。

 


 だけど、これほどまでに早くその時がやって来ることは想像していなかったんだ。




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