15 あなたが信じるのはどちらですか?


「……ナエ! ルミナエ! しっかりしてください……っ!」


 聞き間違えようのないエルヴァンの美声に、ルミナエの意識がゆっくりと浮かび上がる。


 途端、全身がばらばらになるかと思うような痛みに襲われ、こらえきれない呻き声を洩らした。


「動かないでください。いったい何が……っ!?」


 今まで聞いたことがないほど焦ったエルヴァンの声と同時に、一番痛みがひどかった右肩にエルヴァンのあたたかな魔力が流れ込むのを感じる。だが、痛みを癒やすにはほど遠い。


「申し訳ありませんっ! わたしがもっと治癒魔術に優れていたら……っ! いえ、そもそもわたしがあなたのそばを離れなければ……っ!」


 血を吐くようなエルヴァンの叫びに、ルミナエはこれが夢ではなく現実なのだと、ようやく気づく。


 いつの間にか、周りが明るい。だが、どうしてエルヴァンが伯爵家の屋根裏部屋にいるのだろう。


 ルミナエがまなざしに乗せた疑問を察したのか、エルヴァンが端整な面輪を苦しげにしかめて告げる。


「約束の時間が過ぎても、あなたがいらっしゃらなかったので……。もしかして何かあったのではないかと、いても立ってもいられなくて姿を隠して空から伯爵家に忍び込んだのです。窓からベッドの向こうに倒れているあなたの姿を見た時は、心臓が凍りつくかと……っ!」


 震える声で告げたエルヴァンがルミナエをかき抱こうとし――身体にさわるだろうと、奥歯を噛みしめてこらえる。


「――これほどあなたを傷つけたのは、あの外道で間違いありませんね」


 これまで聞いたことがないほど低い、怒りに張りつめたエルヴァンの声。


 同時にルミナエは意識を失う前のことを思い出す。


「だめですっ、エルヴァン様……っ!」


「ルミナエ!? いけませんっ! 無理に動いては……っ!」


 エルヴァンの制止も聞かず、まだしも動く左手で、仕立てのよいコートに包まれた胸を押しのけようとする。だが、声を出すだけで全身に激痛が走り、手に力が入らない。


「私のことなど、捨て置いてください……っ! このままでは、エルヴァン様が……っ!」


 昨夜ザカッドと浮気相手が言っていたのは、間違いなくエルヴァンのことだ。


 宿でエスコートされているのを見られたのか、一緒に馬車に乗り込むところを見られたのか。だが、そんなことはどうでもいい。


 もしザカッドがエルヴァンの名前や身分を知れば、絶対に魔の手を伸ばすだろう。真実がどうであれ、あることないことを吹聴して伯爵夫人と不貞を働いたとエルヴァンを脅迫し、骨のずいまでしゃぶりつくすに違いない。


 そんなことに、決してエルヴァンを巻き込めない。


 ルミナエが痛めつけられたのは愚かな夢を見たゆえの自業自得だ。けれど、エルヴァンは。


「お願いです、もう帰ってください! 私なんかのせいでエルヴァン様を――」


「馬鹿なことを言わないでくださいっ!」


「っ!」


 初めてルミナエに声を荒げたエルヴァンに、息を呑む。謝罪を紡ぐより早く、エルヴァンがルミナエの傷ついた身体を優しく抱きしめた。


「傷ついているあなたを放っておけるわけがないでしょう!? こんなにも傷つきながら、それでも自分より先にわたしを気遣ってくれるあなたを……っ!」


 ぎゅっと抱きしめる代わりに、エルヴァンのあたたかな魔力がルミナエの全身を満たしていく。


「……あなたと離れて、わたしもようやく自分の気持ちに気づきました」


 エルヴァンの静かな声が、ルミナエの鼓膜を揺らす。


「最初は姉を助けられなかった罪悪感から、あなたを救いたいと願いました。この気持ちは罪悪感からきているのだと。ですが……」


 若葉色の瞳が、心の芯まで貫くようにルミナエを見つめる。


「わたしにとって、あなたは姉ではありません。姉としてではなく……。ひとりの女性として、あなたを愛しているのです」


「……え……?」


 エルヴァンの告白に、ほうけた声がこぼれ出る。


「そ、そんな……っ! ありえません……っ!」


 ルミナエのかすれた声に、端整な面輪が傷ついたように歪む。かまわずルミナエは言を継いだ。


「わ、私はみすぼらしくて、役立たずで存在するだけでイラつかせるゴミみたいな存在で……っ! そんな私が、ご立派で優しくて魔術の才能にあふれたエルヴァンに想っていただけるなんて……っ! 天地がひっくり返ってもありえません……っ!」


「ルミナエ」


 わななくルミナエの言葉を、エルヴァンの声が遮る。


「ルミナエ、わたしを見てください」


 包み込むような力強い声に、導かれるように視線を上げる。若葉色の瞳が、真剣な光を宿してルミナエを見つめていた。


「先ほどの言葉は、あなたを侮蔑し、痛めつけてきた外道に言われたことでしょう? わたしが知っているあなたはまったく違います。あなたは人の痛みがわかる優しい人で、誠実で努力家で、逆境でも人を信じる心を失わなかったしなやかな強さの持ち主で――」


 若葉色の瞳が、柔らかな弧を描いて問いかける。


「ルミナエ。あなたが信じるのは、あの外道とわたしの、どちらですか?」


「エルヴァン様です……っ!」


 考えるより早く、言葉が口をついて出る。


 この世界に来てから、ただひとりルミナエを思いやり、優しくしてくれた人。エルヴァン以上に信じられる人など、いるわけがない。


 ルミナエの言葉に、端整な面輪にとろけるような笑みが浮かぶ。


「では、わたしの言葉を信じてください。――愛しています、ルミナエ」


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