14 真夜中の絶望


 明日になれば、オルジェン王国から帰ってきたエルヴァンとようやく逢える。


 浮き立つ心をなだめて眠りに落ちていたルミナエは、ばんっ! と屋根裏部屋の扉が蹴り開けられた音に叩き起こされた。


「てめぇっ! いい度胸じゃねえか!」


 驚きに飛び起きるより早く、ザカッドの野太い罵声とともに、ほどいていたくすんだ茶色の髪を掴まれ、引きずられる。


「ひ……っ!」


 遠慮容赦のない力に、痛みと同時にぶちぶちと何本も髪が抜ける音がした。


 ベッドから引きずり出された身体が、床に叩きつけられる。身を庇うより早く無防備な腹を蹴られ、ルミナエは痛みに息を詰まらせた。


 だが、理不尽な暴力はそれだけでは終わらない。


「俺に隠れて男に逢ってたんだってな! ゴミ女のくせにいい度胸じゃねぇか! 死にてぇのか、ゴラァ!」


 ブーツでルミナエを足蹴にしていたザカッドが、ひときわ強く右肩を蹴り上げる。


「あが……っ!」


 ごきっ、と異音が響き、ルミナエは痛みに悶絶もんぜつした。肉体強化の魔術を使う間さえない。


 いや、使わなくてはと思うのに、心と身体が強張ってうまく使えない。最近はたやすく感じられた魔力が、恐怖で消し飛んでしまったかのように感じ取れない。


 痛みで身体がばらばらになりそうだ。この世界に転生してから久々に与えられた痛みに、恐怖に身体を震わせながら、ただ身体を丸めることしかできない。


 前世と同じように、ただただ痛みに耐えるルミナエの耳に届いたのは、女の声の嘲笑だ。


「ほんっと馬鹿よねぇっ! こんなみずぼらしくて何のとりえもないゴミクズみたいな女が、誰かに相手にされるワケがないのに!」


 聞き覚えのない耳障りな甲高い声。


「こいつはホント馬鹿なんだよ。だから、こうして俺がしっかりしつけてやらなきゃいけねぇんだ。ったく、手間かけさせやがってよぉ!」


 苛立たしげにもう一度ルミナエを足蹴あしげにしたザカッドが、部屋の中に入ってきた女の肩を抱く。


 ルミナエは女の名前など知らない。だが、あたたかそうなガウンの下に覗く薄手で派手な夜着を見ただけで、彼女がザカッドの浮気相手なのだとひと目で察した。


 こんな時間に堂々と伯爵家にいるということは、ザカッドがたびたび連れ込んでいるに違いない。


 ザカッドにしなだれかかった女が、びた声を出す。


「ねぇ、もう気が済んだでしょ。こんな寒い部屋にいつまでもいたくないわ。どんなに目障りな女でも、御前試合までは始末できないんでしょ? だったら放っておきましょうよ。もうあなたの偉大さを思い知っただろうし」


 くすり、と笑みをこぼした女が、白い手をザカッドの胸板にわせる。


「今年の御前試合は諦めるけど……。来年は、あたしが伯爵夫人として、国王陛下の御前に立てるのよね?」


「当然だろ。こんな陰気なゴミ女とずっと夫婦でいるなんて、おぞましくて反吐へどが出る。お前のほうが百倍伯爵夫人にふさわしいぜ」


 猫なで声を出したザカッドが音を立てて女の頬にキスをする。やだぁ、と口では言いながら、女の声は甘ったるい愉悦に満ちていた。


「にしても、こんな女に近づくなんて、悪趣味な男もいたもんだぜ。こんなゴミに近づいたって、腐臭がするだけで、何の旨味もないってのによぉ」


だます価値もない女をたぶらかそうとするくらいだもの。きっと相手の男もロクなもんじゃないのよ」


「……がう……」


 身体がばらばらになるのではないかと思うほど痛い。口からは逆流した胃液のすえた臭いがする。けれど。


 気がつけば、ルミナエはかすかな抗議の声を上げていた。


「……あの方は、ろくでもない方じゃ、ありません……」


 ルミナエはどんなに蔑まれてもかまわない。けれど、エルヴァンのことを、何も知らない女に悪く言われるのは耐えられない。


 虫の羽音よりもささやかな、かすれた呟き。けれど、ザカッドと女の神経を逆撫さかなでするにはそれだけで十分だった。


「はぁっ!? ゴミ女が何言ってるのよ!?」


「誰が反論していいって言った!? このゴミがっ!」


「が……っ!」


 『ドナシオン』の力が宿った蹴りが容赦なくルミナエの身体にめり込む。ルミナエが痛みに呻こうと、ザカッドはまったく手加減する気配がない。


「だ、だんな様……っ! このままでは御前試合の出場が……っ!」


 びくびくとうろたえきった声を上げたのは、騒ぎを聞きつけて上がってきた執事だ。


「ちっ!」


 執事の言葉に舌打ちしたザカッドが、最後にことさら強くルミナエを足蹴にする。


 だが、ルミナエにはもうかすかに呻く力しか残っていなかった。


 ザカッド達が捨て台詞とともに屋根裏部屋を出ていっても、全身をさいなむ痛みに、指一本動かすことができない。


 なんて愚かだったのだろう。たとえ『ドナシオン』の力があっても、魔術を習っていても、ザカッド相手には、まったくの無駄だというのに。


 ルミナエ程度が努力したところで、何ひとつ変えられるはずがない。


 骨折しただろう右肩だけではない。全身が傷だらけになっている。


 唯一、顔だけが無事なのは、そこがドレスでは隠せない場所だからだろう。そういう点においてザカッドは狡猾こうかつで抜け目がない。


 だが、身体よりももっとずっと痛いのは、希望が踏み砕かれた心だ。


 ほのかな期待を抱いていた分だけ、叩き落された絶望の淵が深く、昏い。


(なんて馬鹿なんだろう……)


 最初から、何もかも無駄だったのに。


 ただ、クズ夫に虐げられ、理不尽に壊される存在としてしか、生きられないのに。


 叶わぬ希望を抱いて、それにあらがおうとするなんて。


 馬鹿だ。愚かの極みだ。


 絶望と諦念が涙となって、つぅ、と頬を伝い落ちる。


 こんな自分に貴重な時間を浪費させてしまったなんて。


(……申し訳ございません、エルヴァン様……)


 ろくに動かせぬ唇で謝罪を紡ぎ、ルミナエは全身を苛む痛みから逃げるように意識を手放した。


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