12 そんな不安そうな顔をしないでください


 屋敷を抜け出し、エルヴァンに魔術を教えてもらって早五日。


 一緒に昼食を楽しみ、そのあと魔術の訓練をして夕刻前には伯爵家のそばまで貸し馬車で送ってもらって別れるというのか、ルミナエの日課となっていた。


 エルヴァンの丁寧な指導のおかげで、ルミナエは胡桃を割るどころか、いまや大の男でも持ち上げるのに苦労しそうな大きな石まで軽々と持ち上げられるようになっている。


 せぎすなルミナエが腕ひと抱えはありそうな石を持ち上げているさまは、他人が見れば幻でも見たかと思うに違いない。


 エルヴァンに指導を受けるだけでなく、屋敷に帰ってからも魔力を身体のあちこちに込める練習を自主的にしているおかげか、少しずつ、魔力の扱いにも慣れてきた気がする。


「ルミナエ。大切な話があるのですが……」


 エルヴァンが重々しい表情で切り出したのは、帰りの馬車に隣り合わせに乗って、しばらくした頃だった。


 最初に送ってもらった日を除き、いつの間にかエルヴァンが隣に座るのがごく自然になっている。


 いつまでもこんな幸福な時間が続くはずがないと知りながら、いっときでもエルヴァンのそばにいられる時間が長ければいいと願うのが、ルミナエの奥に秘める小さな祈りだ。


 いつも穏やかな微笑みを絶やさないエルヴァンには珍しい迷うような表情に、ルミナエの胸が不安にとどろく。


「何でしょうか……?」


 問う声が否応なしに震える。


 何か、知らぬ間にエルヴァンを不快にさせるようなことをしてしまっただろうか。


 もしかしたら、ずっとエルヴァンを頼りっぱなしのルミナエが、いい加減、うとましくなったのかもしれない。


「そんな不安そうな顔をしないでください」


 ルミナエの表情を見たエルヴァンがあわてて言を継ぐ。


「その、御前試合まであと半月もありません。あなたの魔術の習熟度は目をみはるものがありますが、あなたの安全を考えると、策はひとつでも多いのではないかと思いまして……」


「策、ですか……?」


 ルミナエの呟きにエルヴァンがきっぱりと頷く。


「ええ。ここ四日ほど、わたしのほうでもあの外道の情報を集めたのですが……。女遊びが激しい上に、気に食わない輩にはすぐに暴力を振るう人でなしだというのに、なかなかの権力を持っているようで……。奴に対抗するためには、こちらも態勢を整えておいたほうがいいと考えたのです。そこで、申し訳ないのですが……」


 エルヴァンがそっとルミナエの手を握る。


「八日間、オルジェン王国へ戻ろうと思うのです。この国にわたしの味方になってくれる者はおりませんが、あちらなら頼りにできる方が何人かいるので……。訓練途中のあなたを置いていくのは心苦しいことこの上ありません。叶うなら、あなたも一緒に連れていきたいのですが……」


「いいえ、お気になさらないでください」


 端整な面輪を苦しげにしかめたエルヴァンに、ルミナエは力なくかぶりを振る。


 ルミナエが家を抜け出してエルヴァンと逢っていることすら、万が一ザカッドに知られれば、ただでは済まぬだろう。エルヴァンと一緒に旅行に行くなんて、夢のまた夢だ。


 エルヴァンの心の重荷を払うべく、ルミナエはできるだけ明るい笑みを浮かべる。


「エルヴァン様のおかげで、自分がどんどん魔術の習熟度が上がっているのが実感できます。エルヴァン様がオルジェン王国に行かれている間も自分でしっかり鍛錬を積んでおきますから、ご安心ください。それよりも……。私のためにご足労をおかけして、申し訳ございません」


 深々と頭を下げると、「何を言うのです!」と強い声が返ってきた。


「言ったではありませんか。あなたを助けたいと。そのためならば、どんなことでもしてみせます!」


 真剣極まりないエルヴァンの声音。熱を宿した若葉色の瞳に見つめられていると、ぱくぱくと鼓動が速くなり、勘違いしてしまいそうになる。


 ……エルヴァンはただ、ルミナエに亡くなった姉を重ねているだけだというのに。


 そもそも、みすぼらしくて役立たずで愛嬌も美貌もないルミナエなどに、優れた才能と美貌を持つエルヴァンが心を寄せるはずなどない。


「帰ってこられたら、また魔術を教えていただけますか?」


 エルヴァンとこうして過ごせるのは御前試合までの期間限定だ。エルヴァンの優しさにつけ込んでいると知りながら、それでも少しでも長く一緒にいたくて、思わずすがるように見上げてしまう。


「もちろんです。八日で帰ってきますから、九日後には、いつものように逢いましょう」


 少しのためらいも見せず、頷いてくれるエルヴァンの優しさが嬉しくて仕方がない。


「ありがとうございます。どうか、お気をつけていってらっしゃいませ」


 ルミナエのために尽力してくれるエルヴァンの優しさに胸があたたかなもので満たされるのを感じながら、ルミナエは微笑んで告げた。


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