9 勘違いしてはいけない


「あ……っ」


 エルヴァンがすぐに用意してくれた貸し馬車に二人で乗り込み、動き出してからしばらく後。


 見るともなしに窓の向こうの町並みに視線を遊ばせていたルミナエは、いままさに高そうなレストランから出てきた人物を見つけた途端、思わず声を洩らして身を震わせた。


「どうしましたか?」


 向かいに座っていたエルヴァンが素早く気づき、ルミナエの視線を追う。が、ルミナエはそれどころではなかった。


 がくがくと震える身体を押さえ込むように、両腕でぎゅっと自分の身体を抱きしめる。その様子に、エルヴァンが察したらしい。


「もしや、あの男が……?」


 エルヴァンの低い声に、頷きだけを返す。


 レストランから出てきたのはザカッドだった。太い腕の中では、派手な化粧をした女性がびるような笑みを浮かべてザカッドにしなだれかかっている。


 レストランの明かりに照らされた赤ら顔から、二人がかなりお酒を飲んでいるのは夜目にも明らかだ。


 ルミナエが乗っていると気づかれることなく、馬車が二人の前を通り過ぎる。ザカッドはルミナエがこんな時間に外にいるなど、想像もしていないに違いない。


「あれが、姉を苦しめ、いままさにあなたを苦しめている外道ですか……っ!」


 怒りに満ちた低い声に、ルミナエははっとしてエルヴァンに視線を向ける。


 すでにザカッドの姿は見えなくなっているというのに、若葉色の瞳は険しい光をたたえて馬車の窓を睨みつけていた。


 隣国にいる間にエルレーヌが結婚し、死亡したためザカッドの顔を知らなかったらしい。


「素晴らしい妻をないがしろにして、女遊びとは……っ!」


 怒りに満ちた呟きに、ルミナエは自嘲に唇を歪めてかぶりを振る。


「エルヴァン様、私は素晴らしい妻などではありません。気が利かず陰気でまったく魅力のない……。視界に入るだけで腹立たしさがこみ上げる存在なのです」


 美奈絵の時もルミナエになってからも投げ続けられた侮蔑の罵声。


 告げた途端、エルヴァンが息を呑んだ。かと思うと、身を乗り出してルミナエの両手を握りしめる。


「あんな外道の言葉など、真に受ける必要はありません! たった数刻あなたと過ごしただけですが、あなたが心優しい素晴らしい女性であることは、わたしが保証します!」


 思いもよらなかったエルヴァンの言葉に、驚きでとっさに言葉が出てこない。


 結婚して以来、そんな風に評してくれた人など皆無だった。エルヴァンの言葉が、心の奥底に小さな炎を灯す。


「ありがとう、ございます……」


 胸の奥がじんと熱い。気を抜けば涙がこぼれてしまいそうで、ルミナエは顔を隠すように頭を下げて礼を言う。


「エルヴァン様は……。どれほど私を救ってくださるのでしょう……」


「いえ、わたしはまだあなたを救えていません」


 硬い声に顔を上げると、若葉色の瞳が真剣な光を宿してルミナエを見つめていた。


「今日はまだ、魔術の基礎中の基礎をお伝えできただけです。御前試合までにちゃんと『ドナシオン』の力を扱えるようにしなくては。……また明日も、逢っていただけますか?」


 ルミナエが断りの言葉を紡ぐより早く、エルヴァンが言を継ぐ。


「もちろん、決して迷惑などではありません。あなたはもうわたしの大切な生徒です。ならば……。ちゃんと最後まで責任を取らせてください」


 真剣極まりないエルヴァンの表情は、ルミナエが何と言おうと引く気はないとひと目でわかる。


 ルミナエとしても、エルヴァンの手助けなしで『ドナシオン』の力を使えるようになるとは思えない。エルヴァンの申し出はありがたいことこの上ない。


「ありがとうございます。何とお礼を申し上げたらよいのか……」


「では、お礼は『ドナシオン』の力を使えるようになった時にわたしにいろいろ見せてくだい。魔術師にとっては、それが一番の褒美ですよ」


 悪戯いたずらっぽいエルヴァンの笑みに心が軽くなる。


「本当に、ありがとうございます」


 心からの感謝を込め、ルミナエは微笑んで礼を告げた。


   ◇   ◇   ◇


 屋敷の近くでエルヴァンと別れたルミナエは、裏口から入り、足音を忍ばせて屋根裏部屋へと戻った。


 扉の前に置かれていたのはとうに冷え切った質素な夕食だ。使用人達の頭の中にはルミナエの存在などほこりよりも軽いに違いない。ルミナエがいままで帰ってきていなかったことすら、気づいていないだろう。


 だが、いまのルミナエにとってはありがたい。


 自分は妻を置いて他の女性と遊び歩くくせに、勝登もザカッドも束縛が激しく、妻の外出をひどく嫌った。そのため、ルミナエには友人と呼べるような人物はほとんどいない。


 妻を支配し続けるために外で新たな出会いや知識を得て、余計な知恵がつくのを嫌っているからに違いない。


 今日、エルヴァンと出逢えたことは、きっと人生最大の僥倖ぎょうこうだ。


 夕食の盆を手に窓際のテーブルについたルミナエは、もそもそと味気ない食事をとる。


 エルヴァンにおいしい軽食をごちそうしてもらったせいで、粗末な食事がいつも以上につらい。


 それでも皿を空にしたルミナエは、窓の向こうの夜空を見上げ、深く吐息した。


 今日、自分の身に起こったことが、いまだに信じられない。


 エルヴァンのような立派な青年に出逢えたばかりか、彼に魔術を教えてもらうことになったなんて。


 魔力を感じ取る訓練のことを思い出した途端、後ろから自分を抱きしめた力強い腕やあたたかさを思い出し、かぁっと全身に熱が巡る。


 ずっと腕の中にいたせいか、エルヴァンの少し甘い香水の薫りが、ルミナエにもうつったように感じる。


「エルヴァン、様……」


 無意識に名を紡ぎ、我に返ってあわててかぶりを振る。


 初めて魔力を感じ取れた喜びに振り向いた時、予想以上に距離が近くて、ルミナエを見つめる若葉色の瞳があまりに優しくて……。


 このまま、くちづけるのではないかと思ったなんて。


「~~っ!」


 ぶんぶんとかぶりを振り、ルミナエは心に浮かんだ妄想を振り払う。エルヴァンのような素敵な美青年がルミナエなどに女性としての興味を持つはずがない。


 勘違いしてはいけない。エルヴァンがルミナエに優しくしてくれるのは、亡くした姉のエルレーヌを重ねているためなのだから。


 それでも、ルミナエをひとりの人間として大切に扱ってくれるエルヴァンの思いやりが嬉しくて……。


 ルミナエは窓ガラスに映る自分の顔に、何年ぶりかの笑みが浮かんでいることに気がついた。


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