8 決して、あなたを傷つけたりしません
エルヴァンの広い胸板を布越しに背中に感じる。自分より大きく硬い身体に無意識に強張りそうになる。けれど。
「大丈夫です。……決して、あなたを傷つけたりしません」
耳元で囁かれた穏やかな声と、ふわりと鼻をくすぐった香水の薫りに、せり上がろうとしていた恐怖が、ゆっくりと融けていく。
代わりにルミナエを満たしたのは、どうしようもなく騒ぐ鼓動だ。
ぱくぱくと心臓が跳ね、全身が熱くなる。どきどきしすぎて、うまく息ができない。
「あ、あの……っ」
「……どうですか? わたしの魔力を感じられますか?」
身じろぎして腕の中から逃げ出そうとするルミナエを包み込むように、あたたかな不可視の波動がエルヴァンから流れ込んでくる。
同時に、自分の身体の奥で、りん、とかすかな……。ともすれば聞き逃しそうなほど小さな、鈴が転がるような感覚を覚えた。
「っ!? エルヴァン様っ、わかりました! いま確かに――、っ!?」
喜びのあまり、勢いよく振り向いた瞬間、息を呑む。
いまにも頬がふれそうなほど近くに、エルヴァンの端整な面輪があった。
ほんのわずかに身を乗り出せば、なめらかな頬に唇が当たってしまいそうだ。
「す、すすすみません……っ!」
ぼんっ、と一瞬で頬に熱がのぼる。反射的に勢いよく身を引いた拍子に、背中が身体に回されたエルヴァンの腕にどんと当たる。
「どうしました? 謝る必要などありませんよ。すぐに魔力を感じ取れるなんて、あなたは筋がいい」
ルミナエが体勢を崩さないようにという配慮だろうか。エルヴァンの腕に力がこもり、優しく抱きしめられる。が、逆効果だ。いっそう鼓動が速くなる。
「どうでしょう? いまわたしは魔力を流すのを止めていますが、この状態でも自分の魔力を感じ取れますか?」
エルヴァンの言葉に我に返り、集中する。
だが、先ほどは確かに自分の中で何かが動いたと感じたのに、いまは欠片も感じられない。
「すみません。わかりません……」
「気にしないでください。もう一度、魔力を流してみましょう。他者の魔力が流れていたほうが、自分の魔力の揺らぎを感じやすいのです。わたしの魔力なしで自分の魔力を感じ、動かせるようになったら、この訓練は合格ですよ」
気を悪くした様子もなく告げたエルヴァンが、前に向き直ったルミナエを抱きしめ、ふたたび魔力を流す。
強張りを融かすような柔らかな魔力。
ルミナエはどきどきと騒ぐ心臓から意識逸らすべく、ふたたび目を閉じ、自分自身に集中した。
エルヴァンの魔力に応じるように、自分の身体の奥で何かが揺れるのを感じる。
(この感覚を忘れないようにしないと……っ)
「魔力を止めますよ?」
言葉と同時に、エルヴァンのあたたかな魔力の流れが途切れる。
「あ……」
エルヴァンの魔力が止まった途端、自分の中で揺れ動いていたものが、手のひらから砂がこぼれ落ちるように消えてゆく。
感覚を研ぎ澄まして探そうとしても、暗闇の中で手探りしているかのように、確かにあるはずなのに見つけられない。
「すみません、エルヴァン様。もう一度、お願いできますか? 魔力の流れが止まると、自分の魔力もわからなくなってしまって……。でも、少しずつ掴めそうな気がしているんです」
「わかりました。では、何度か流したり止めたりを繰り返してみましょう」
「お願いします」
エルヴァンに背中から抱きしめられていてどきどきしないわけがない。けれど、それ以上に『ドナシオン』の力を使えるようになりたいと心の底から願う。
……今世こそ、クズ夫に殺されないために。
エルヴァンが根気よくつきあってくれることに甘え、魔力を流しては止めるのを何度も繰り返してもらううちに。
「……あ。いま……っ!」
エルヴァンの魔力が止まっても、自分の中でりん、と鈴が震えたような気配を感じ取る。
りん……、りん……、と鳴るかすかな音を見失わぬように、そっと自分の中の魔力に意識の指先を伸ばし。
「これが、私の魔力……」
意識の中で、自分中に眠っていた魔力をそっと両手で包み込む。
ルミナエの言葉に応えるように、りりりりり、魔力が震えた。
「エルヴァン様! 自分の魔力の感覚がようやく感覚が掴めました……っ!」
目を開け、喜びに突き動かされるまま歓声を上げたところで、エルヴァンとつないでいた手をぎゅっと握りしめていたことに気づく。
「も、申し訳ありません……っ」
そっと手を放し、先ほどみたいなことが起こらぬよう慎重にエルヴァンを振り返ると、包み込むような笑みが至近距離にあった。
一緒に喜んでくれているのがひと目でわかる若葉色の瞳と視線が交わった途端、ぱくりと心臓が跳ねる。
「おめでとうございます。やはり、あなたは筋がいい。『ドナシオン』の力を持っているからでしょうか? 自分の魔力を掴めたのなら、常にそれを感じ取れるように意識を向けてください。その魔力が、あなたの力の源になるのですから」
「は、はい……」
一度、感覚を掴んだからだろうか。意識を集中すれば、すぐに己の魔力を感じられる。
「大丈夫です。エルヴァン様の魔力がなくとも、感じ取れるようになりました。あの、本当にありがとうございます。ずっと私の訓練につきあっていただいて……」
お礼を言ったところで、はっと気づく。エルヴァンと出逢ったのは昼過ぎだが、窓の外を見ればもう夜の
「す、すみません! 本当に長い時間を……っ!」
墓参りに行ったまま、ずっと帰ってこないルミナエを、屋敷の者はどう思っているだろうか。もし、ザカッドのほうが早く帰宅していたら……。
『養われてる分際で遊び歩くなんて、いいご身分だな!』
前世でぶつけられた罵声が脳裏に甦り、一瞬で全身から血の気が引く。
「あの……っ! 今日は本当にありがとうございました。でもそのっ、早く屋敷に戻らなくては、私……っ!」
恐怖に突き動かされるまま、がばっと立ち上がり
身を翻そうとすると、あわてて立ち上がったエルヴァンに、「待ってください!」と、はっしと手を掴まれた。
「ひゃっ!?」
エルヴァンの力が思った以上に強くて、こらえきれずにたたらを踏む。よろめいた身体を頼もしい腕に抱きとめられた。胸板に頬がふれた拍子に、ついさっきまでルミナエを包んでいた香水の薫りが、ふわりと揺蕩う。
「急にどうされたのです? 帰られるのでしたら、馬車でお送りします。ここから伯爵家まではかなりの距離があります。徒歩で帰れば、完全に陽が暮れてしまいます。ひとりきりで夜道を歩かせるわけにはいきません」
「で、ですが、これ以上、エルヴァン様にご迷惑をおかけするわけには……っ!」
「迷惑などではありません。むしろ、迷惑というのなら」
ルミナエを抱きとめた腕に、ぎゅっと力がこもる。
「このままあなたを帰しては、心配で夜も眠れなくなってしまいます。早く帰らなければならないというのなら、どうか、わたしに送らせてもらえませんか?」
決して押しつけがましくはない。けれどもどうにも断れない物言いに、仕方なく頷く。
「では……。お言葉に甘えさせていただいてもよろしいですか?」
「もちろんです」
ほっと息を吐き、嬉しそうに口元をほころばせたエルヴァンが抱きしめていた腕をほどく。
ずっとルミナエを包んでくれていた薫りをあたたかさが離れたことにふと寂しさを感じてしまい――。
ルミナエは自分の胸によぎった感情を振り払うように小さくかぶりを振った。
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