4 「ありがとう」なんて誰かに言われたのは何年ぶりだろう


「エルレーヌ様の、弟……」


 ルミナエは驚きにかすれた声で、告げられた内容をおうむ返しに呟く。


 エルレーヌに弟がいたとは知らなかった。ルミナエは生前のエルレーヌに会ったことさえなかったのだ。シュテルク家の事情は、召使い達がこそこそと話している噂を聞きかじった程度しか知らない。


 ルミナエはヘルバズ家に嫁いできてから、毎年、エルレーヌの命日には墓参りをしているが、一度も誰とも会ったことはない。そのため、離散したシュテルク家のエルレーヌの縁者は、全員いなくなっているのだと思い込んでいた。


「わたしは十年近く、オルジェン王国で過ごしていたのです。あちらの魔術学園に通うために留学していて……」


 ルミナエの声に疑問を感じ取ったのか、エルヴァンが視線を伏せて説明する。


 隣国のオルジェン王国はクゼルズ王国と異なり、騎士よりも魔術師が多く輩出されている魔術王国だ。そちらの魔術学園に留学していたというのなら、きっとエルヴァンは優れた魔術師なのだろう。


 ルミナエの両肩から手を放し、「失礼」と断ったエルヴァンが姉の墓碑に向き直る。ルミナエは尻もちをついたまま、あわててずりずりと後ろに下がって場所を空けた。


 そっと花束を墓碑の前に置いたエルヴァンが、目を閉じ、胸の前で両手を組む。


 祈りを捧げるエルヴァンの横顔を、ルミナエは不躾ぶしつけだと知りながら、息をするのも忘れて見つめた。


 眉間にしわを寄せ、長い祈りを捧げるエルヴァンの横顔は見ているルミナエの心まで痛くなるほど苦しく切なげで……。


 ひと目見ただけで、仲のよい姉弟だったのだろうとわかる。


 ルミナエに兄弟はいない。もしいたら、ルミナエが死んだあと、こんな風にいたんでくれるだろうかとふと考え、馬鹿なことをと心の中で自嘲する。


 死後のことなど思いわずらっても何の意味もないというのに。


「申し訳ありません。長くお待たせしてしまいました」


 不意に目を開け、こちらを振り向いたエルヴァンの言葉に、いつの間にかぼんやりしてしまっていたルミナエは、はっと我に返る。


 若葉色の瞳が柔らかな光をたたえてこちらを見ていた。


「ありがとうございます。姉のお墓の管理を、あなたがしてくださっていたのですね。何とお礼を言えばよいのか……」


「い、いえ……っ。私はただ、掃除をしただけで……」


 美青年に深く頭を下げて礼を告げられ、ルミナエは千切れんばかりにかぶりを振る。


 お墓参りだというのに、ルミナエは花の一本すら用意することができなかった。ただ、手桶に水をんで墓石を綺麗に洗い、周りの雑草を引き抜いただけしかしていない。


「いえ、それだけでも十分です。きっと姉も天国であなたに感謝していることでしょう。本当に、ありがとうございます」


 エルヴァンの真摯しんしな声に、胸の奥に小さな炎が灯った心地がする。「ありがとう」なんて誰かに言われたのは何年ぶりだろう。


「ですが……」


 顔を上げたエルヴァンの声が低く沈み、ルミナエは思わず身を震わせる。何か、エルヴァンの気に染まぬことをしてしまっただろうか。


 いや、そんなことを考えても無駄だ。勝登は理由があろうとなかろうと、美奈絵に手を上げるのが日常茶飯事だった。美奈絵が何もしていなくても『お前のシケた顔を見るだけでイラつくんだよ! オンナの魅力なんて欠片もないゴミが!』と殴り、何かすればそれを理由に足蹴あしげにし……。


 いつしか、美奈絵は何も感じぬように心を閉ざし、感情を外に出さぬように表情を動かすことも少なくなった。結局、そうしても勝登の態度が変わることはなかったのだが。


「あなたは先ほど、ルミナエ・ヘルバズと名乗られましたが……」


「は、はい……」


 名乗った瞬間のエルヴァンの苛烈な怒気を思い出し、答える声が震える。尻もちをついた身体は腰が抜けてしまって、いまだに立てそうにない。


 ルミナエの頷きに、エルヴァンの若葉色の目が細まった。


「あなたのご身分をうかがっても?」


「わ、私は……」


 果たして、答えたところで信じてもらえるのか。貧乏人のような粗末な服を纏ったルミナエが、本当は伯爵夫人だなんて。だが、エルヴァンの鋭いまなざしは沈黙を許してくれそうにない。


 若葉色のまなざしから逃げるように、ルミナエはうつむいて声を絞り出す。


「私は……。ヘルバズ伯爵家当主、ザカッドの妻、です……」


「っ!?」


 告げた瞬間、エルヴァンが息を呑んだ鋭い音が冬の空気を震わせる。


「まさか……っ! いや……っ!」


 信じられないと言わんばかりのかすれた声に、ルミナエはぎゅっと目を閉じ、身を強張らせる。


 先ほど、ヘルバズ家に向けられた激しい怒り。エルヴァンにとっては、ヘルバズ家は姉を殺したも同然の家だ。お飾りとはいえ、その奥方であるルミナエに怒りの感情が湧かないと誰が断言できるだろう。


 身体を硬くし、震えるルミナエの声に、感情を押し殺したようなエルヴァンの声が届く。


「ヘルバズ伯爵夫人……。お願いします。わたしのためにお時間をいただけないでしょうか? ……あなたと、お話させていただきたいのです」


 ふわりと鼻先をくすぐった薔薇とは違う香水の薫りに、ルミナエはびくびくと目を開ける。


 途端、身を乗り出したエルヴァンの端整な面輪が大写しで飛び込み、危うく悲鳴を上げかけた。


「突然、不躾なお願いをしているのは承知の上です。ですが、どうか……っ!」


 身なりのよい美青年に真剣な表情で頭を下げられ、驚愕する。


 いつもいつも高圧的に命じられるばかりで、こんな風に誰かに頼まれたことなんて、この数年間、一度もない。


 ルミナエには、血を吐くような懇願を断ることは不可能だった。


「わ、私でよろしければ……」


「ありがとうございます!」


 告げた途端、エルヴァンがほっとした様子で顔を上げる。次いで、恭しく手を差し出され、ルミナエはきょとんと首をかしげた。


「どうぞ、お手を」


「い、いえ、あの……。そ、その、申し訳ございません……っ! 腰が抜けてしまいまして……」


 告げた瞬間、『何だと!? このグズが!』と脳内で勝登の罵声が甦り、反射的に身を強張らせる。


 だが、エルヴァンから返ってきたのは申し訳なさそうな声だった。


「先ほど、わたしが怯えさせてしまったせいですね。誠に申し訳ありません。……失礼ですが、手を貸しても?」


「えっ? はい、あの……?」


 わけがわからないまま頷くと、不意にエルヴァンが身を乗り出した。かと思うと。


「ひゃぁっ!?」


 突然、横抱きに抱き上げられ、悲鳴が飛び出す。


「あ、あのっ、シュテルク様っ、いけません! 立派なお召し物が土で汚れてしまいます……っ!」


「払えば大丈夫です。それより、わたしのせいで立てないほど怖がらせてしまったあなたを放っておくことなどできません」


 足をばたつかせて下りようとするが、エルヴァンの腕はゆるまない。


 いったい、何が起こっているのか。混乱と驚きが頭が真っ白になってしまう。


 美奈絵にとってもルミナエにとっても、身近な男性は夫だけで。その夫は妻を暴力と暴言で支配するようなクズ男で、こんな風に優しくされたことなんて一度もない。


 男性の力強さは、恐怖の対象でしかないというのに。


 まるで守るように抱きしめるエルヴァンの力強い腕に、安堵を感じている自分がいる。


 まだ逢ったばかりだというのに、この人は決して自分に理不尽な暴力を振るったりなどしないだろうと、素直に信じられて。


「外套を着ていてさえ、これほど……」


 危なげなく歩を進めるエルヴァンが、何かをこらえるかのように低い呟きを洩らす。


 だが、ばくばくと鳴る心臓を両手で押さえ、頼もしい腕の中で身を硬くするルミナエの耳には、届かなかった。


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