2 異世界に転生してクズ夫とも別れられたと思いきや……


 痛い。身体がばらばらになりそうだ。


 ぎゅっと固く目をつむり、美奈絵は両腕で自分の身体を抱きしめる。


『うっとうしい! お前のシケた顔を見てるだけでイラつくんだよ!』


『ああんっ!? 養ってもらってるくせに口答えなんかするんじゃねぇよ! 俺がどこで誰と会おうが関係ないだろ! 奴隷は奴隷らしく黙って従ってたらいいんだよっ!』


 脳内で響く勝登の声から逃げるように、ますます強く自分自身を抱きしめる。


 いったい、どこで間違ってしまったのか。


 だが、もう考えても詮無せんないことだ。


(勝登に殴られるのなんて比じゃないくらい、あんなに痛かったんだから……。きっと、助かっていないよね……)


 ようやく、勝登から逃げられる。


 その安堵とともに美奈絵の心をよぎったのは、どうしようもないむなしさだ。


(私の人生って……。いったい、何だったんだろう……?)


 幸せだったのは結婚当初のほんの一時期で。浮気され、暴言を吐かれ、暴力を振るわれ……。


 ただただ虐げられるだけだった人生が、虚しくて仕方がない。


(……もう、やめよう。考えても仕方がないもの……)


 ただ叶うなら、死んだあとくらい、痛みとは無縁でいたい。


 自分を慰めるようにそっと手のひらで身体を撫でると、痛みが少しやわらいだ気がした。


 安堵とともに、優しく自分の身体を撫で続け――。


   ◇   ◇   ◇


「う……っ」


 自分の呻き声で、美奈絵は意識を取り戻す。途端、近くでがたんっ、と大きな音が鳴った。


「お、奥様……っ、奥様がお目覚めに……っ! だ、誰か……っ!」


 あわてふためいた叫び声と同時に、誰かが逃げるように部屋を出ていく。乱暴に閉まった扉の音に、美奈絵の覚醒がさらに促される。


「ここ、は……?」


 うっすらと開けた目に飛び込んできたのは、薄汚れた天井だ。


 天井が傾斜しているということは屋根裏だろうか。先ほどの『奥様』という呼称とは、どう考えてもそぐわない。


 身体が鉛のように重い。ゆっくりと身を起こした美奈絵の耳に、あわただしい複数の足音が届く。と、すぐさま扉が開けられた。


 現れたのは、派手な服を身に纏った筋骨隆々の三十手前の男だ。後ろには、中年の侍女と執事らしい白髪の男を従えている。


「……ちっ! 十日も意識不明で、いったいいつくたばるかと思ってたが……。まさか目を覚ますとはな。」


「勝登……っ!」


 わずらわしさを隠そうともせず吐き捨てた声を聞いた途端、美奈絵の口から勝手に言葉が飛び出す。


 その瞬間、頭の奥がずきりと痛み、すべてを知る。


 あの雪の夜、美奈絵と勝登は確かに死んだ。けれど、二人の魂の行き先は、天国でも地獄でもなく――。


「くそっ、やっぱりお前だったか。ったく、異世界に来てまでお前みたいなシケた女と夫婦だなんてよぉ。やってらんねぇぜ」


 赤い髪に茶色の瞳。顔立ちも鍛え上げられた身体つきも違うのに、わかる。


 いま目の前にいるのは、前世の夫、勝登だと。


 侮蔑に歪んだ口元と、嫌悪を宿したまなざしは、たとえ生まれ変わっても間違えようがない。


「けどまぁ」


 勝登が、不意に唇を吊り上げる。


「いまは機嫌がいいから見逃してやるよ。こっちの世界が気に入ったしな。女だって選び放題。騎士団長の俺に逆らえる奴なんざそうそういねぇ。気に食わなきゃ、手に入れた力で殴ってやればいいんだ。転生者様々だぜ!」


 はははははっ! と哄笑した勝登が背を向ける。


「もうすぐ御前試合が近い、喪中で出場できないなんて馬鹿らしいからな。終わるまでは見逃してやるよ。だが……」


 まるで足元に落ちたゴミを見るような目に、美奈絵は息を呑んで身を震わせる。嘲るように、勝登が鼻を鳴らした。


「ほんと、視界に入るだけでもイラつく奴だな! いいか? 守らなきゃいけねぇ慣例があるらしいからな。仕方がねぇから御前試合の観覧は許してやる。だが、俺に恥をかかせてみろ! 承知しねぇからな!」


 一方的に告げた勝登が身を翻し、部屋を出ていく。


 執事達があわてて勝登のあとを追った。が、美奈絵は扉が閉まったのも気づかず、がたがたと震え続ける。


 頭の中に、一気に自分のものではない知識と記憶が流れ込んでくる。


 ここはヘルバズ伯爵家であり、勝登は当主のザカッドであること。そして、美奈絵はザカッドの七歳年下の後妻・二十三歳のルミナエであること。


 そして、ザカッドとルミナエが馬車で事故に遭った際に、中身が勝登と美奈絵に代わってしまったと――。


「嘘よ……っ! そんな……っ!」


 身体の震えが止まらない。がんがんと頭が痛み、吐き気がする。


 後妻になって三年が経つルミナエもまた、ザカッドにずっと虐げられてきた。


 ザカッドは伯爵家の当主とはいえ、剣の腕だけで騎士団長に成り上がった粗野な男で、ルミナエの持参金だけが目当ての最低な男だった。地味なルミナエには目もくれず女遊びや賭博に興じ……。


 元から妻としての扱いなど、ほとんどされたことはなかったが、ルミナエの両親が病没し、これ以上、実家からお金を引っ張ることができないとわかった半年前からは、扱いがさらにひどくなった。


 伯爵家の奥方だというのに、事故の後、屋根裏部屋に押し込んで、医者に診せるどころか、ろくに看病すらされなかったのが、その証拠だ。


 ルミナエの記憶を手に入れた美奈絵には、ザカッドが考えていたことが推測できる。


 おそらく、ザカッドはルミナエを殺そうとしていたのだ。ルミナエが死ねば、持参金付きの新しい花嫁を迎えることができる。


 王城での御前試合で優勝すれば、娘を嫁にやりたいと思う貴族が必ず出てくるだろうと。


 ……まさか実行する前に馬車の事故に巻き込まれ、勝登の魂と融合するとは夢にも思っていなかっただろうが。


 この世界では、異世界人と魂が融合することがまれに起こるらしい。そうした者は『贈り物ドナシオン』と呼ばれる特殊な力に目覚めることが多いのだという。


 美奈絵――ルミナエは、震えながら先ほどの勝登――ザカッドの様子を思い出す。


 前世以上に高圧的で自信に満ちていた姿。きっと、勝登は特別な力に目覚めたに違いない。そして、美奈絵がルミナエの記憶や知識を得たのと同じく、ザカッドの記憶を得たのだとしたら――。


「そんな……っ! せっかく地獄から抜け出せたと思ったのに……っ!」


 ルミナエは震えの止まらない身体を両腕で抱きしめる。


 勝登は、御前試合のあと、ルミナエを殺すつもりだ。


 周辺諸国と緊張関係が続いているクゼルズ王国では、強い騎士や魔術師が重んじられる。素行の悪いザカッドが騎士団長の地位を保っていられるのも、それを補って余りある実力を持っているからだ。


 もし、ザカッドがルミナエを手にかけたとしても、騎士団長の力で揉み消され、事件にすらならないに違いない。


 いまルミナエを殺してしまえば、死者のけがれを王城に持ち込ませぬよう御前試合の出場資格を失ってしまうため、御前試合までは手出しされないだろうが、ザカッドが優勝した暁には、きっと――。


「どうして……っ!? どうしてこんな世界に来てしまったの……っ!?」


 逃げられたと思っていた地獄にふたたび囚われた絶望が、ルミナエの心を責めさいなむ。


 埃っぽい屋根裏に、ただルミナエの嗚咽だけが流れ続けた……。


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