リスク

爆裂五郎

良い人も、悪い人も

 新婚の夫婦、赤ちゃんを授かりさらに幸せいっぱい。

そして産まれた赤ちゃんを、飼い犬が噛み殺してしまったケース。

痛ましい話だ。だが、その可能性を全く考えずにいるのは、まずいことだ。

犬なんて皆飼っている、こんな事故なんて滅多に起きないはず。

それなのに何故うちだけこんな目に、と飼い主は当然思うだろう。

しかし本来、動物とは危険な存在だ。言葉を交わせる同じ人間ですら危険なのに、

どうして動物は安全だといえるのだろうか。

周知だろうが、犬は賢い動物だ。場合によっては人間以上に。

それ故、嫉妬や恨みも抱くだろう。

突如やってきた別の存在が、自分よりちやほやされていれば、腹も立つだろう。

ペットが人間と同列の大事な家族と言うなら、相応にペットの事を考える必要がある。

ペットに罪はない、とはよく言われる。

確かにペットは罪を背負う必要はないはずだ。

だが実際は、人を殺めたペットは殺処分される。無理矢理、罰を受けさせられるのだ。

ならばペットの上の立場にいる飼い主も、本来は相応の罰を受けなければならない。だがそんなことは、赤ちゃんとペットを失った夫婦に課すには重すぎるだろう。


また、車庫で車の出し入れをする際に、自分の子供を轢いてしまったというニュースも多々ある。

愛する子を不注意で死なせてしまった親の気持ちは、察するに余りある。

そして追い打ちを掛けるように、轢いた親は過失運転として罪を問われる。あまりに重たいことだ。


子供ができても、病気や事故で失うかもしれない。

そんなリスクの中で生きている親という存在は、「強い」という言葉では形容しきれないものを持っているように思う。

特に生後間もない赤ちゃんの面倒など、リスクの塊である。

赤ちゃんを抱きかかえる、というだけでも大変な行為だ。もし頭から地面に落としてしまったら、そう考えると恐ろしくなる。

眠っている赤ちゃんに添い寝をしていて、もし寝返りを打って赤ちゃんを潰してしまったら、そう考えると恐ろしくなる。

そんな凄まじいストレスを、休んでいる間すら抱えることになる親というのは、とてつもない精神力を備えているのだろう。

だが、それは当たり前のこととして世間では扱われる。人それぞれ能力や考え方は違うはずなのに、だ。




 人に限らず生ある者は、与えるより奪うことの方が多い。それではいつか全てがなくなってしまうのだが、実際そうだ。

生ある者は何かを殺め、それを食らっている。直接殺めていなくとも、結果を享受していれば同じ事だ。

そして可能な限り、他の生命の分、有意義に生きるように努めるべきなのだが、それを意識して生活することはあまりないだろう。


コミュニケーションにおいてもそうだ。人との会話は、ギブアンドテイクが成立するかどうかが肝要だ。

誰かと会話していても、有力な情報が得られるか、新たな発見があるか、楽しいか、何かしらのメリットがなければ時間の無駄と感じることもあるだろう。

今まさに綴られている、こういった文章もそうだ。無意味だと感じたならば、読むべきではない。時間の無駄どころか、ストレスになる。


大げさなのかもしれないが、人間社会で生きているならば、深く考えずに発した何気ない一言で、そうとは知らず傷心しきっていた人間の心にとどめを刺して、結果として死に追い込んでしまうこともあり得る。そこに悪意の有無は関係がない。

もちろん、逆に何かを救うこともあるだろう。だが、それは免罪符とはならない。切り分けて考えるべきだ。死んだ者に報いる方法などありはしないのだから。

事件になるとか、責任問題だとかは些細なことだ。誰でもコミュニケーションにおけるリスクは抱えている。

私は、傷を舐め合うだけの関係など、互いを堕落させるだけのくだらないものだと思って生きてきた。

だが私が傷付けたせいでそうなっているのだとしたら、考えの浅いくだらない存在は、私の方だ。

人は学ばない。過ちは繰り返される。よくそう言われる。

正確に言えば、学べない人間もいる。理解しているつもりでしかない人間のことだ。

そのことを私は身をもって理解している。

今やSNSなど当然のように世間に広まっているが、本来それは気軽に利用していいものではないのかもしれない。




 生活の中で、必ずリスクは存在する。

車を運転していて、誰かを撥ねる可能性。

道を歩いていて、車に撥ねられる可能性。

家の中で寝ていて、強盗に襲われる可能性。

添加物いっぱいの食べ物を食べ続けて、病気で死ぬ可能性。

リスクは無限に存在する。


ならば無菌室で、細菌にもウイルスにも人間にも干渉されない、完璧な空間で過ごすのがいいのだろうか。

だがそれでも、厳しいだろう。

災害などが起きて無菌室の管理が出来なくなり、急に有害物質だらけの外界に放り出されたその人間がどうなるのか、想像するまでもない。


極論すれば、生きているだけでリスクがあるといえる。

絶対に凄惨な最期を迎えたくないというのなら、自分で自分を死なせるしか手立てはないだろう。

だが、そんなことは愚かな行為である。どうしようもないくらいに。



では結局どうするのだ、という話になった時、リスクを最小限にする一番現実的な方法は、「リスクに慣れる」ことだろう。

食物アレルギーでも、毎日ちょっとずつ、徐々に食べる量を増やして治療する方法がある。

だが、それに耐えられない者も当然ながら存在する。

それらは切り捨てられなければならないのか?


たとえばの話だ。

流行病が発生し、ほぼ周辺の人間が全滅した中で生き残った者達がいる。

その者達は虚弱な体質だったが、その遺伝形質に流行病に耐える因子があった。

他の、優秀とされる人種を差し置いて、その虚弱な者達が生き延びたのだ。

そのおかげで、その地域の人間の絶滅が防げたという。

虚弱であったり能力の低い人間が、人類の唯一の希望となるケースもあり得る中で、何かを切り捨てるのにきちんとした判断を下せる者などいるのだろうか。




 そもそもリスクとは何だろうか。

厚生労働省だの、ISOだの、そういったことに私は詳しくないが、どうやら分野によって定義は色々と異なるらしい。

はっきりしていることは、人によってリスクの関心に差異があるということだ。

たとえばちょっとした怪我でも、感染症により後遺症が残る可能性があると危惧する人もいれば、とりあえず死ななければ問題ないという人もいる。

極端な例ではあるが、人それぞれ価値観は違うという話だ。

何がリスクであるか、捉え方は一様ではない。


また人によっては、リスクを負うことを楽しむ、ということもしているのではなかろうか。

多数の異性と交際したり莫大な額を掛けてギャンブルをしたり等々、

これらはハイリスクハイリターン、なのだろう。もっと身近な例を挙げると、

登山、バンジージャンプ、遊園地のアトラクション、スキューバダイビングなど、

子供も大人も楽しめるレジャーも、死亡事故が実際にいくつも起きている。

スリル以外に見返りもない娯楽に命を懸けるのか、

ハイリスクノーリターンではないのか、とも思えるが、

それでも楽しいから、脳に良い刺激が与えられるから、

きっと健全な行為のはずである。

問題は、どこまでリスクと向き合えるかだ。




 大昔から紡がれてきた人の歴史の中で、こういった話をゆったりと考える余裕など、今世紀以外には恐らく無い。根拠はないが、己の中で確信がある。

ここまで私は、様々なリスクの可能性について綴ってきた。だが私はこう思う。

今、この瞬間、考える余裕のある人間だけでいい。意見を残せ。


この世界を「より良く」するために。


このネットワーク社会で、より多くの思いを残し、次世代に繋げるべきだ。


人生経験を豊富に積んだ者とそうでない者、

電子機器の扱いが得意な者とそうでない者、

性別、人種、立場、状況、

どれも全く関係ない。

誰だっていい。


何も思いつかないが、何か意見を出したい人もいるだろう。

私自身が、それである。

であれば、自分の中でインスピレーションを湧かせなければならない。

そのためには、自分自身をぞんざいに扱うくらいの度量が必要なのかもしれない。

まあ私にそんなものはないが、以前に私は、人の歴史とは人体実験の歴史なのでは?と思ったことがある。

争いばかりの時代、争いの少ない時代、

飢餓、飽食、

アナログ、デジタル、

危険、安全、

賑やか、寂しい、

「どうあるべきか」は、不明だ。


あちらこちらで自動車が走っていたり、栄養バランス度外視の弁当が売っていたりと、我々現代人にとっては当たり前でも、それは未来人が見れば恐ろしい光景なのかもしれない。

医療も同じだ。ほんの数十年、数年前では当たり前だった治療法も、今ではハイリスクで予後も悪いとされるものは珍しくない。

それは進歩ではあるのだが、その当時では確かに最先端の医療だったものが現代医学で否定されるということは、当時の人々は現代のための実験台であったともいえる。またそれは常に、今尚続いている。

そのために多くの資源や労働力が使われている。


「進歩」とは何か。

それは人間が、より便利で楽な生活ができる世の中にすることなのだろう。

人間が、素晴らしい世界へと変えることなのだろう。

では、それを誰がそうと決めるのか。

本当は、何が変わっているのか。

変化、とは。



まあ、あまり考えすぎても、よくはないかもしれない。

心労で倒れては元も子もない。

一つ確かなのは、全ての存在は、「必要なもの」であるということだ。

少なくとも、今の私の思考の先に行き着いたものはそれだ。

こんな結論は誰でも、もしかしたら幼子でも理解していることかもしれない。

取るに足らないことなのかもしれない。

だからもう、何も考えなくてもいいのかもしれない。

誰かとても立派な人の教えに則って皆が生きていけば、それがきっと一番なはずだ。

しかし、それだけで終わってはいけないようにも私は感じる。

考えるということの意味、意義が存在しないとは、私は思いたくない。






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