②鬼軍曹
「声が聞こえん!!!!!!!!腕立て20回上乗せじゃあ!!!!」
と新隊員達に檄を飛ばす男の名は獅子尾リュウジ。階級は2等陸曹。獅子尾の檄に怯えながら腕立てをする新隊員たちからは汗と涙と鼻水がボタボタとこぼれ落ちて駐屯地のアスファルトを潤している。事の始まりは数秒の遅刻だった。1人の新隊員が忘れ物を取りに生活隊舎に戻った結果、集合時間に3秒遅れてしまった。
「1秒の遅刻につき全員で腕立て伏せ10回!3秒遅れたから30回だな!がはは!」
と、わざとらしい笑い方をしながら冗談半分で腕立てを始めた獅子尾と新隊員たちだが、獅子尾の悪い癖なのか段々とヒートアップしてしまい30回で終わるはずだった腕立て伏せはいつしか100回を超えていた。腕立ての姿勢が悪い、手を抜いてる奴がいる、カウント時の声が小さいなどなど、腕立ての回数が増える理由は山ほどあった。
陸上自衛隊第901教育大隊。関西のとある駐屯地に所在し、新隊員や予備自衛官補などの教育を担当する部隊である。近畿地区と中部地区の新隊員は入隊と同時にこの大隊に配属され、まず最初に新隊員教育課程というプログラムに参加する。3ヶ月の間に敬礼などの基礎動作から銃器の取り扱い、戦闘行動や歩哨などの技術までみっちりと叩き込まれる。
獅子尾はこの901教育大隊所属の助教である。正確には先任助教という役職であり、指導部を取りまとめて指揮をするのが獅子尾の主な任務になる。本来、新隊員の指導というのは3等陸曹の「班長」と呼ばれる隊員たちが行うものなのだが、獅子尾は時々現場に出てきて新隊員と共に汗を流す。(新隊員は涙も流すわけになるが)
獅子尾の左胸にはレンジャーと格闘指導官のバッジがついており、ベテランの自衛官でもドン引きするほど精強な隊員であることが一目でわかる。
そんなこともあってか、ついたあだ名が「新教の獅子鬼」
獅子尾は隊員たちの間では有名人なのである。悪い意味で。
「その場に立てぇ!!!!」
獅子鬼のシゴキが終わった。フラフラと立ち上がった新隊員たちは全身汗まみれでグチャグチャになっている。
「次遅刻したら1秒につき20回の腕立て伏せだからな!!!遅れるなよ!!!」
「はい!!!!」
世の自衛官たちはこのようにして時間厳守の重要性を身体で覚えていくのである。
「獅子尾2曹ー!、ちょっと来ーい!」
少し離れたところから白髪混じりの肥満体型自衛官がこちらを向いて手招きしている。あのシルエットは遠目からでもわかる。901教育大隊長だ。
「お疲れ様です大隊長。どうかされましたか?」獅子尾はいつものように話しかけるが大隊長の雰囲気は良いとは思えない。
「上級部隊の隊長から苦情が来ててね、さっきのアレはやりすぎなんじゃないかって。最初から最後まで見られてたみたいだよ。」
またその話か…と獅子尾は心の中で落胆した。近年の自衛隊はハラスメントに厳しい。パワハラ、セクハラ、マタハラなどなど。数年前までは聞かなかったような言葉が最近ではよく聞くようになってきた。一部の人間は獅子尾の指導をパワハラだと言う。しかしながら獅子尾にはそれを真っ向から否定する理由がある。
訓練。理不尽に耐える訓練。
我々自衛官は戦闘集団であり、我々の任務には常に理不尽が付きまとう。戦場には理不尽が溢れ、溢れる理不尽はストレスとなって我々の体を蝕み、心を壊していく。災害派遣にしたってそうだ。現場に派遣されてから良い事なんて一つもなかった。津波によって破壊された街、瓦礫の山、ずらりと並んだ遺体の袋、手足が凍りつくほどの寒さ、空腹。当時、まだ若かった自分にとってあの災害派遣は理不尽の塊だった。心が壊れるかと思った。
理不尽に耐える心。この教育大隊ではその心を養ってほしい。というのが獅子尾の考えである。しかしながらそれを理解していても、快諾してくれる者はこの大隊にいないのである。
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
大隊長のネチネチ説教から解放され教育隊事務室に戻った獅子尾はデスクに突っ伏して深いため息を吐いた。
「今はビシバシ教育する時代じゃないの。君の教育スタイルは時代遅れなの。」
今までの自分を全否定されたかのような説教だった。
「んなこと言ったってさぁ〜。優しく教えてもいいけど、それじゃ強い隊員は育たないでしょうが〜」
愚痴のような独り言を漏らしてしまった。こんな事を言うのは性に合わないが、このモヤモヤを吐き出さないとこの先ずっと引き摺りそうな気がしたからだ。
「まぁまぁ、パイセン。大隊長だって今まで庇ってくれてたほうなんですよ?今の時代、しょーもない事で処分もらっちゃう可能性だってあるんですから。今まで何もなかった事に感謝すべきですよ。」
と、横槍を入れてくるのは後輩の大橋2曹だ。スラっとした長身小顔のモデル体型で顔も整っており性格もクールで優しい、ゆえに女性隊員からの人気は高い。なぜこんな男臭い職業を選んだのか不思議なくらいの美男子である。ゴリラのような体型で熱血鬼軍曹と揶揄される自分とは真逆の存在である。
「大橋、それ慰めてる?」
「いえ全然。」
「はぁ…。全部忘れてお酒飲みたい…」
「お付き合いするので奢ってください!」
新隊員の前ではクールなのに俺との間ではお調子者なのがまた可愛らしい後輩である。
「じゃあ午後の訓練が終わったらまた連絡したるわ」
「お待ちしてますよ、パイセン♡」
「語尾にハートをつけるな。そういう趣味はないわい」
昼休憩の後、午後からはラックサック訓練が始まる。
獅子尾はラックサックには参加せず、駐屯地の中央にある隊舎の屋上で訓練全体の指揮をとる。班長の配置や部隊の動きを無線機で指示し、不測事態が起きれば大隊本部に連絡するのが獅子尾の任務だ。
「退屈なんだよなぁ、この役。」
獅子尾はラックサック訓練をしている新隊員を見るのが好きだった。ラックサックのようなハードな訓練では人の本性が現れる。1人の世界に入り黙々と歩く者、他の隊員を気遣い鼓舞する者、諦めてその場に座り込む者、隊列から離されても我武者羅について来る者など様々だ。人の本性が現れる瞬間を見るのが獅子尾はたまらなく好きである。
が、今回は屋上からの指示役である。
屋上の手摺りから体を乗り出して双眼鏡で周囲を見渡す。いまのところ問題は無さそうだ。
「始まって早々に事故なんか起きるわけないわなぁ」
なんて軽口をこぼし、前のめりの体を元に戻そうとした瞬間
“ドンッッッ”
後ろから何者かに突き飛ばされた。
前のめりの体はそのまま前転でもするかのように綺麗に宙を舞った。
全てがスローに見えた。
手摺りから離れていく体、向かう先は30メートル真下のアスファルト。皮肉にも午前中に腕立て伏せをしていた場所だ。
「あ、これ死ぬかも」
と悠長なことを考えていた獅子尾だが最期に突き飛ばしたヤツの顔だけでも見てやろうとスローモーションの世界の中で手摺りの先を見渡した。
獅子尾が最後に見たのは、腕立て伏せの原因を作った新隊員。ショックで寝込んでいるはずの新隊員だった。
「自業自得ってことかぁ」
“グシャッ”
誰かの悲鳴とともに世界が真っ暗になった。
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