第4話 女王の涙

「母様……」


 明け方。

 ブリジットのそのつぶやきでボルドはふと目が覚めた。

 となりを見るとブリジットはまだ眠っている。

 どうやら寝言のようだった。


 ブリジットも時折、寝言を言うことがある。

 それはボルドを呼ぶ声だったり、日常のちょっとした会話のようなものだったが、この日のように母を呼ぶ寝言はめずらしい。

 ボルドは気遣きづかわしげに彼女の寝顔を見つめた。

 ブリジットの母である先代ブリジットはすでにこの世を去っている。

 先代の壮絶な人生はブリジットから聞かされてボルドも知っていた。


「ライラ……」


 ボルドはブリジットの幼名であるその名をつぶやく。

 彼女は寝室で2人きりの時は、その名で呼ぶことをボルドに許していた。

 そんなボルドの声に目を覚ましたようで、ブリジットが目を見開く。

 その両のまなこが涙でうるんでいた。

 それを見たボルドは静かに問いかける。


「お辛い夢を見られたのですか?」


 その言葉にブリジットはうなづき、ボルドの頭をその胸に抱いた。

 不安をかき消すように少しだけ力を込めて。

 ボルドはそんな彼女の背中を優しくでる。


「母は……あの日に変わってしまったのだ」


 あの日という言葉が何を示すのかボルドにはすぐに分かった。

 先代の愛する黒髪の情夫バイロンは敵に誘拐ゆうかいされ、女たちにその身をけがされ虐待ぎゃくたいされた。

 そんなバイロンを先代は泣く泣く処刑したのだ。

 他の女にけがされた情夫はブリジットの相手としてふさわしくないという理由によって。

 今、ブリジットが言うあの日とは、その残酷な運命を迎えた日のことだった。


「あの日以来、アタシの知っている母はいなくなってしまった」


 そう言うとブリジットは立ち上がり、彼女の私物をしまったきりの箱の中からある物を取り出してきた。

 それはみかけの手袋てぶくろのような物だった。


「それは……?」

「母がアタシのためにと自らんで下さった物だ。み物などやったことのない人だったが、アタシのために小姓こしょうらに習ってまで作ろうとしてくれた。だが……ここまでんだところで、あの日が来てしまったのだ」


 そう言ってみかけの手袋を握りしめるブリジットの目にさびしげな色がにじむ。

 ボルドはその手に自分の手を重ねた。

 先代はバイロンの処刑後から心を病み、それまでとは別人になってしまった。

 ブリジットが握り締める手袋てぶくろも、作りかけのまま完成することはなかったのだ。


「だが……これも母との思い出だ。確かに母がアタシのために作ろうとしてくれたあかしなんだ。こんな切れはしでも捨てることは出来ない」


 そう言うブリジットはどこか自嘲じしょう気味な表情を浮かべていた。

 ボルドはそんな彼女を静かに抱き締める。


「お母様はきっとライラのことを強く愛していらしたと思います」


 ボルドはそう言うとブリジットをそっと抱きしめる。

 ブリジットは彼に抱きしめられたまま、声を殺して泣くのだった。

 女王として絶対に他の者の前では見せない姿だ。

 自分よりも大柄おおがらな彼女の体が、この時ばかりはひどく小さく感じられ、ボルドは何があってもこの人の心を守るのだと、固く心にちかうのだった。

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