油すまし
増田朋美
油すまし
その日は急に秋から寒い冬になってしまったようだ。急に灯油が売れだして、ガソリンスタンドも在庫がなくなって困っているという話がアチラコチラで聞こえている。まあ確かに、通例通り寒くなるのは良いことであるのかもしれないが、それでも寒いというのは、過ごしにくい季節がやってきたということになる。
その日、杉ちゃんとジョチさんは製鉄所に設置されていたストーブの灯油がなくなったため、二人で灯油を買いに行った。と言っても、車椅子の杉ちゃんは特に行っても意味がなく、ただの付添人程度しか役目がなかったが。二人は予定通りホームセンターの灯油売り場へ行って、灯油を買って、製鉄所に帰ろうとしたところ。
「失礼ですが、お二人共、富士市内の方ですか?」
と制服を着た警察官が杉ちゃんとジョチさんの前にやってきた。
「はい、そうですけど、警察の方が声をかけてくるとはなにかあったんですか?」
と、ジョチさんが言うと、
「実はですね、このあたりで最近、通行人をナイフで刺したり切りつけたりする通り魔事件が多発しておりまして、我々も調べているのですが、どうか住民の皆さんに気をつけていただけるように呼びかけているんです。」
警察官は言った。
「はあそうですか、そういうことなら、早く犯人を捕まえてくださいよ。それがお前さんたちの仕事でしょ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「はい。すみません。でも住民の方も気をつけて下さい。」
と言われてしまった。
「そうですか。それにしても、よくあるんですか?物騒な世の中ですね。犯人の特徴とか、そういう事はまだわからないのですか?」
ジョチさんがそう言うと、
「はい。まだ顔や特徴はまだ把握しきれていません。なんでも、黒いコートを着た人物で、特に若い人を狙うようなんです。ですから、お二人も気をつけてください。」
警察官は言うのだった。
「わかりました。僕らはもう45を超えているおじさんなので襲われるような事は無いと思うよ。ありがとうね。」
杉ちゃんはそういうのであるが、
「それにしても気をつけなければいけませんね。こんな田舎町なのに、通り魔が出るというのは、問題ですからね。」
ジョチさんは心配そうに言った。
とりあえずその日は、警察官に注意されてきただけで良かったのであるが、それから数日が経ったある日。
製鉄所の固定電話が音を立てて鳴ったので、杉ちゃんが電話に出た。
「はいはいもしもし。」
「失礼ですが、森千恵子さんのお宅はこちらでしたでしょうか?」
と間延びした声が聞こえてきた。
「え、あ、はい。こちらの施設の利用者ですけれども、お前さんは誰だよ?」
杉ちゃんがそう言うと、
「はい、森千恵子さんが、先程通り魔に手首を切られて、只今この富士警察署で保護したのですが、何でも彼女が示した連絡先は、こちらの番号だったものですから。」
相手はそう言っていた。
「はあ。森千恵子さんが、こちらへ連絡するように言ったんですか?だって彼女にはご家族が居るはずなのになんでこっちに電話するように言ったんだろうね。」
杉ちゃんはとりあえず言った。
「で、森さんを、僕らはどうすればいいんですかい?」
「だから言ってるじゃないですか。迎えに来てやって欲しいんですよ。もう、話が通じなくて。耳が不自由とかそういう事もなさそうですが、でも話を聞かせてくれと言っても、泣いてばかりで、犯人の顔とか、襲われたときの態度ととか、そういう事は全く得られないんですよ。それならもう帰ってもらったほうがいいって事になりましてね。」
相手は苛立ったように言った。
「わかりました。富士警察署に迎えに行けばいいのですね。もうそういうことならそれを最初に言ってくれ。森さんには落ち着いて待ってろよ問ってな。」
杉ちゃんはそう言って電話を切った。どうしたんですかといってやってきたジョチさんに事情を説明し、二人で小薗さんの運転する車に乗って、富士警察署へ向かった。二人が警察署の入り口へ到着すると、
「お待ちしておりました。もう、さっさと彼女を連れて帰ってください。これじゃあ、事情聴取もできません。俺たちの捜査もはかどらないので。」
と言いながら華岡がすぐやってきた。
「そんな言い方をされては困ります。彼女はどちらにいますか?さっさと連れてかえってなんて、それでは、まるで彼女をものみたいに扱ってるじゃないですか。彼女だって、被害にあった一人ですからね。」
ジョチさんがそう言うと、
「はい。こちらにいらしてください。」
と華岡は、二人を刑事課と書かれた部屋へ案内した。その部屋の隅に婦人警官に付き添われて、着物姿で椅子に座っている女性がいて、彼女が森千恵子さんだとすぐわかった。右手首に包帯が巻かれていた。とても怖い目にあったのか、涙をこぼして森千恵子さんは泣いていた。
「まあ幸いなことに、着物を着ていたので、犯人も狙い所がなかったんでしょうね。左手首を切られただけですみました。だけど、彼女は偉いパニック状態で、どのように襲われたのか、話をすることもできないし、犯人について話すこともできないので、もう連れて帰ってくれて結構です。」
華岡は嫌そうに言った。
「それは仕方ないことでしょう。彼女も手首を切られたんです。もう少し優しく接してやってください。とりあえず、彼女が落ち着くように、今日は連れて帰ります。」
とジョチさんは華岡に言って、森千恵子さんと一緒にいた婦人警官に、お迎えに参りましたと声をかけた。それに気がついてくれた森千恵子さんは、
「ごめんなさい。私が不注意だったばっかりに油すましに会ってしまって。」
なんて事を言っている。
「もうそればっかりなんです。俺たちは、犯人の顔貌の特徴や、服装などを知りたいんですがね。彼女は油すましに会ったとしか言わないんだ。それでは、何も情報が得られないのですよ。」
華岡はまたそう言っている。
「なんでお前さんが謝らなくちゃいけないんだよ。謝るのは犯人の方でしょ。」
杉ちゃんは呆れていったが、それでも彼女は油すましが出たと言い続けるのであった。そればかり言って、他の言葉が出てこないようだ。もしかしたらショックで訳の分からない言葉を口走っているのではないかと考えたジョチさんは、
「ここにいても仕方ありません。とりあえず製鉄所に戻りましょうか。」
と彼女にいい、彼女を静かに立たせた。三人は小薗さんの車に乗って、製鉄所に帰った。車の中でも彼女はひっきりなしに、泣き続けるのみであった。彼女に関しては、ジョチさんも困ってしまった。とにかく彼女に落ち着いてもらおうと言うことにして、杉ちゃんとジョチさんは、影浦先生を呼んで、安定剤を打ってもらうことにした。
影浦先生は、15分くらいしてきてくれたのであるが、森千恵子さんは、ずっと泣いているままで、何を言っているのかもわからない状態であった。言葉をかけても落ち着かないと判断してくれた影浦先生は、彼女の右腕に安定剤を打ってくれると、彼女は、応接室のソファに座って静かに眠りだしてくれた。ジョチさんは彼女の体に、毛布をかけてあげた。
「それで、彼女は、きちんと話ができるようになるものでしょうか?」
ジョチさんが影浦先生に聞くと、
「落ち着けば、喋れるようにはなると思います。でもですね、事件のことになると、またパニックになる可能性は十分ありますので、そこは慎重にやったほうが良いと思います。」
と影浦先生は答えた。
「それでは僕らはどうすれば良いものかな?」
杉ちゃんが聞くと、
「そうですね。もちろん危険な事をしたら、力づくで止めることは必要だとは思いますが、それ以外はあまり干渉しないで見守ってあげてください。」
影浦先生は言った。
「わかりました。僕たちも気をつけます。彼女が一日も早くこちらへ戻ってこられることを祈っています。」
ジョチさんは宗教家になったような言い方でそういった。実際のところ杉ちゃんたちにできるのは、それしか無いのかもしれなかった。
とりあえず、森千恵子さんは夕方まで眠り続けていた。目を覚ましたのは、五時を過ぎた頃で会った。
「あ、目が覚めましたか、大丈夫ですか?」
ジョチさんが作業をする手を休めてそういうと、
「あたし、どうしたんでしょう?」
と森千恵子さんは言った。
「覚えてないんか?お前さんは通り魔に手杭を切られて、パニックになってしまったので、それでここに連れ戻されてきたんだ。わかるかい?」
杉ちゃんに言われて、千恵子さんは、
「そうだったんですか。そんな事になっていたんですね。私、どうしたら良いのでしょう?」
と言った。
「うーんまあ、とりあえずゆっくりすることじゃないのかな。それがだいじなんじゃないか、今のお前さんにとっては。」
「そうですか。あたし、おかしかったんだ。申し訳ないです。本当にごめんなさい。」
改めて頭を下げる千恵子さんに、
「謝らなくても良いんですよ。それよりもゆっくり休養して、健康を取り戻してください。」
と、ジョチさんは言った。
「とりあえず今日はもう遅いから、自宅へ帰ったら?ゆっくり休んで、それからここへ来れば良い。それで良いじゃないか。」
杉ちゃんに言われて森千恵子さんは、
「ありがとうございます。」
と申し訳無さそうに言った。
「じゃあとりあえず自宅へ帰っていただきますかね。一人で帰れますか?無理なら小薗さんに車を出させますよ。もちろん、道案内をしていただければの話ですけど。」
ジョチさんが言うと、
「そうしてください。一人で帰るのは、ちょっと怖いですし。」
千恵子さんは小さな声で言った。そこでジョチさんはスマートフォンを出して小薗さんに電話し、森千恵子さんを乗せて、自宅へ戻してくれるように頼んだ、千恵子さんは小薗さんの車で自宅へ帰っていった。
その次の日。多分、森千恵子さんは、家で静かに休んでいるだろうなと杉ちゃんたちは思っていたのだが、おはようございますという声が聞こえてきて、ちゃんと朝10時に彼女は製鉄所にやってきた。ジョチさんが体は大丈夫なんですかと聞くと、家に居るより、こちらにいたほうが、気が紛れますからと彼女は言った。杉ちゃんたちは、影浦先生に言われた通り、事件の事は話さないように気をつけた。彼女も、その事件の事は、話そうともしないで、製鉄所の中で大好きなレース編みに熱中していた。製鉄所と言っても鉄を作るところではなく、勉強や仕事をするための、部屋を貸し出す福祉施設である。現在の利用者は、森千恵子さんを含め女性が3名。あとの二人は、通信制の高校に通っていて、一緒に宿題をするために製鉄所を利用していた。学校に行っていない森千恵子さんは、製鉄所の中で、レース編みをしているだけだった。ジョチさんたちはそれでも良いと言っていた。もしきっかけが得られれば彼女もなにか始めるだろうし、それを他の利用者に刺激されることだって十分ありえることだからである。製鉄所を管理しているジョチさんこと曾我正輝さんは、応接室で書物の仕事をしていたし、杉ちゃんは杉ちゃんで着物を縫っていた。製鉄所で間借りをしている水穂さんは、いつもどおりにピアノを練習していて、今日もいつもと変わらない時間が流れていくのかなと思われた。のだが、
「失礼します!ここで、森千恵子さんが居ると言うことでこさせてもらった。ちょっと彼女に話を聞きたいんだが。」
と富士警察署警視の華岡と、部下の刑事が一人、製鉄所にやってきた。
「なんですか。またパニックを誘発するような事はしないでくれませんかね。調べるなら他の被害者の人を調べてくださいよ。彼女は、情報が得られないので役に立たないというのは、あなた方が決めたことでしょう?」
とジョチさんは言うのであるが、
「いや。その、犯人について、他の被害者に聞き込みをしたので、彼女にも同じ事を聞きたいんだ。とりあえず、これまでに3人被害者がいるのだが、その全員の意見が一致しないと俺たちも次の捜査に進めないんだよ。」
と華岡は言った。
「ちょっと、彼女に話を聞かせてくれ。よろしく頼む。俺たちも、彼女がパニックにならないようにきをつけるから。な、頼む!」
そういう華岡は、急いで製鉄所の中に入った。
「いくら警察のえらいさんであるからと言って、精神疾患を持っている女性に話を聞くのはまずいですよ。そんな可哀想な事はしないでください。」
ジョチさんがそう言っても、華岡たちは、食堂へ行って、中でレース編みをしていた、森千恵子さんにこう聞いたのであった。
「あとの二人の被害者の話によると、事件の犯人は、カタコトの日本語を話す女性だったそうですが、あなたのときもそのような女性でしたか?」
「ええあの、その、、、。油すましが出たんです。」
千恵子さんはそういったのであった。
「油すまし?そんな架空の生物はどこにもいませんよ。それより、事件の犯人を教えてください。」
部下の刑事がそうきくと、
「油すましが出たんです!油すましが出たんです!油すましが私の前に出たんです!」
千恵子さんは、そう言うだけである。
「だから、油すましというのは、想像上の生物で、、、。」
と華岡が言うと、
「ちょっと待ってください。彼女のような人は嘘が言えません。事実を知りすぎてしまったからそういうふうに架空の生物を持ち出すんです。そういうことなら、彼女の言葉を少し噛み砕いてみましょう。油すましは熊本に出る妖怪です。確か、山道を歩いていて、このあたりは油すましが出ると何気なく発言したところ、本当に出たというのが油すましにまつわる伝説です。それ以外に何もありませんが。でも、それも事実のひとつなんですよ。」
と、水穂さんがどこからともなくやってきて、華岡にそう発言したのであった。
「それでは困りますな。そんな事噛み砕いてもしょうがないでしょ。」
と華岡が言うと、
「ええ。わかりませんか。もう一度いいますが油すましは、熊本に出没したんです。それを、考えると、彼女が言いたいこともわかります。つまり、その犯人が話していたのが、九州弁であったということでは?」
と、水穂さんが言った。千恵子さんは水穂さんの発言にぎょっとした顔で彼を見た。
「はあなるほど。つまり犯人は九州地方の人間だったのか。確かに、このあたりの言葉と九州地方の言葉ではかなり発音やイントネーションが違いますからな。他にも聞きたいのですが、犯人は女性だったのでしょうか?それもわかりませんか?」
と華岡が千恵子さんに聞くと、
「油すましが出たんです!油すましは、体にミノを着て、、、。」
と千恵子さんは体を震わせて泣き始めた。
「もう一度考えてみましょう。油すましは、体にミノを巻いて、下駄を履いているという姿で出没したんですよね。」
水穂さんがそう言うと、
「そうそう。ミノは、寒さを塞いだり、雨が降ったときにかっぱ代わりに着ていた。」
と杉ちゃんが言った。
「ということはつまり、ミノを着ていたということは、コートを着ていたということになりますね。」
水穂さんが通訳した。
「そうか。やっぱり、犯人はコートを着ていたんだな。それで、女の年齢層とか、そういうのは、わかりませんでしたか?」
華岡がまた聞くと、千恵子さんは、泣くばかりで何も答えは出なかった。
「でも、彼女は大事な事を話してくれたじゃないですか。つまり犯人は九州の方言を使い、コートを着用していた女性だったということです。それが抜けないということは、富士に来て間もない女性ということになるでしょう。だいたいの人は、方言を使わないように気をつけますからね。それが得られただけでも、良い収穫になったと思ってください。」
「そうそう。それ以上聞くと、彼女はまたパニックになってしまう可能性がある。だから帰った帰った!」
水穂さんと杉ちゃんに言われて、華岡たちは、そうだなと言って警察署に帰ることにした。杉ちゃんが、玄関に塩をまいておこうと言った。水穂さんが、彼女に大丈夫ですかと聞くと、森千恵子さんは、一生懸命泣くのをやめようとしてくれているが、それでも涙をこぼしているような感じだった。
「あたしだけなんで、手首を切られただけで済んだのかわからないんです。だって他の人達は、めった刺しにさされたとか、首を切られたとか、そういう感じなんでしょう?」
「そうですか。それはサバイバーズ・ギルトという症状ですね。大丈夫です。悪いのは通り魔の女性で、あなたではありませんよ。多分、誰でも良かったのではないかと思います。ただ、油すましは、あなたが着物を着ていたので、襲うつもりが、諦めてしまったのではないかな。」
ジョチさんはそうやってなく彼女を励ましたが、彼女は泣くばかりだった。確かにそうかも知れなかった。第一の事件の被害者は、全身を滅多刺し、第二の被害者は首を深くさされたことで、いずれもなくなっている。そういうわけだから、森千恵子さんが、助かったのも不思議なことかもしれない。
その後、彼女は毎日製鉄所へレース編みをするためにやってくるのだった。多分、家族と一緒にいてもつらいので、ここに来るのではないかと思われた。杉ちゃんもジョチさんも、水穂さんもできるだけ事件の事は口にしなかった。時間だけが虚しく過ぎていく。しかしテレビのニュースで、事件の事は、それ以上報道されなかった。というのも、どこかの外国で戦争が始まったとかで、事件のことを話すことはしなくなってしまったのだ。
それから、しばらくして、富士警察署から電話があった。杉ちゃんが出てみると、犯人の女性を逮捕したということだった。確かに、水穂さんの言う通り、九州の女性だったという。なんでも、九州から富士に引っ越してきたばかりで、自分の子供がいじめられているという被害妄想を抱いた上での犯行だったらしい事もわかった。そのことがセンセーショナルに報道されることがなかったので、杉ちゃんたちは、それを森千恵子さんには知らせないことにした。油すましは、油すましのままでいてほしいと杉ちゃんたちは願ったのであった。
油すまし 増田朋美 @masubuchi4996
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