第10話

「リーガルリリー。夏に咲くはななんだよ」

「そうなんですね。リーガルリリー、かっこいい名前です」


 天使あまつかちゃんは、花弁に顔を寄せてすんすんと鼻を鳴らした。……のち、けほんけほんとせて「花粉、花粉がぁ……」と撃沈した。攻撃的な花ですね、と評する。

 わたしもそうだと思う。見た目ばかり清楚で、だけどその実、花粉が刺激的。


 わたしはさっきから気になっていた、天使あまつかちゃんの胸元におどる真っ白なリボンに指を差した。あんなに顔を花壇に寄せていたのに、汚れひとつ付いていない。


「それ。学校指定のリボンじゃないじゃん。なんで真っ白なの?」


 この学校の制服において、リボンとは生徒の学年を象徴するもの。

 三年であれば、緑。二年であれば、青。一年であれば、赤。だけど、彼女はその「象徴」の枠組みから外れた、別のシンボルを飾っているように見えた。

 彼女のリボンは、なにを象徴しているんだろう?


 天使あまつかちゃんは、むんと胸を張って誇らしげに言った。


「羨ましいでしょう。ぼく以外、誰も身につけていない唯一のリボンですよ」

「いや、普通に校則違反だし」


 ……いやでも、夏休み中だし、ちょっとぐらい羽目を外してもいいのか。百瀬だれかさんだって、昨日、平気で髪染めて学校に来てたし。


 わたしは、自身の胸元の赤色のリボンを撫でて言った。


「まぁでも、夏休み中だし? 少しくらいならおしゃれして遊んでもいいか」

「わーい。おしゃれです、おしゃれです」


 天使あまつかちゃんが甘えるようにわたしに抱きついてきた。彼女はわたしよりひとまわりくらい華奢な体躯をしているから、羽根のように軽い。

 わたしの鼻腔をくすぐったのは、花よりも強くて甘い香り。不快感は一切ない。天使あまつかちゃんの髪から香っているのか、身体から香っているのかはわからなかった。


 こんな近い距離感で天使あまつかちゃんと密着しているのに、どういうわけかわたしはひどく落ち着いていた。芹沢せりざわと触れ合っているときは明確に違う感覚。

 いうなれば、自分より年下の子供と触れ合っているときのような感覚だ。「可愛い」にも恋愛感情が孕んでおらず、純粋に子供を慈しんでいるような感じだった。


 天使あまつかちゃんはたっぷり二、三分くらいわたしにくっついた後、「あっついですぅ……」とへろへろになって離れた。

 そりゃそうだ、今日は夏休み二日目。確かに空には厚い雲が立ちこめているけれど、今日の気温は、おひる頃には三十度近くまで上がるはずだし。


「このおはなは、育てるの難しいですか?」

「難しいっていうよりは、面倒って感じ。夏に咲くくせに高温には弱いし、水を欲しがるくせに土に湿気がたまるとすぐに元気がなくなるの」

「なるほど。発達の過程に、多くの矛盾を孕んでいるのですね」


 まるで人の子のこころみたいですね、と天使あまつかちゃんは花壇を見つめる。優しい手つきで白い百合を撫でれば、花弁から静かに雫がこぼれ落ちた。

 こうやって、花を慈しめる現代っ子って珍しい。委員会のほとんどのメンバーですら、仕事として与えられているのに職務を全うしようとしないし。


 はなを手の内で転がすようにして弄ぶ天使あまつかちゃんは、ふと。


「でも。その面倒くささが、可愛いんじゃありませんか」


 わたしは思わず破顔した。


「そうだね。お世話の面倒くささを『可愛さ』と錯覚しちゃうくらいには、わたしはこのはなのこと、好きだな」


 それはもう恋ですね、と。

 天使あまつかちゃんも気の利いたことを言ってくれる。


 これだ。

 この軽さだ。天使あまつかちゃんの言葉にも、芹沢せりざわの言葉にも、普段の生活内で接する友達や教師と違って、強い水圧を感じない。


 過剰な賞賛はなく。

「優等生モード」になる必要もなくて。

 わたしは、気楽に会話に興じることができる。


 この軽さで水圧も感じず、ゆったりと水中を漂っていたい。

 ここがいい、ここにいたい、とはなを優しくつつく天使あまつかちゃんを、背中側から抱きしめる。こんな無遠慮に抱きつけるのは、相手が天使あまつかちゃんだからだ。芹沢せりざわには、恥ずかし過ぎて絶対できない。


 体格差が体格差だけに、わたしは天使あまつかちゃんに覆い被さるみたいな格好になる。けど、天使あまつかちゃんは何も言わず無言でわたしを受け入れてくれた。

 

 そのままの姿勢で、二、三分ほど経ってから。


茅森かやもりさん、少しは落ち着きました?」

「……ううん。もうちょっとだけ、このまま。いい?」

「……仕方ないですね」


 誰かの肌に触れること。誰かに寄りかかってその安心感に目を閉じること。

 それが当たり前のようにできるのは貴重で、だから小説とか映画とかのフィクションの世界で多用されるんだろうなぁと思う。


 現実では、こんなにもうまくいかない。

 わたしは、天使あまつかちゃんには今みたいに簡単に抱きつけるけど、芹沢せりざわには絶対できない。その貴重さは、恥じらいと恋心のせいで増していく。


 わたしはそれらの悶々を解消するように、天使あまつかちゃんを抱いた。彼女はずっとずっと静かなままで、わたしを受け入れてくれた。一度も「暑い」だなんて言わずに。


 今だけは、水圧に押しつぶされないように。


 見上げた四角い空を覆う黒い雲。厚い雲の下、わたしは目を閉じ彼女を抱き、彼女はずっとずっとはなを優しく指でつついていた。


 ……わたしと天使あまつかちゃんが最後に交わしたのは、そんな話。


「そういえば、茅森かやもりさん。あなたに渡さなくてはいけないものがあったのでした」

「渡さなくてはいけないもの? なに?」

「これです。これを、あなたに託さなくてはいけなくて」


 そう言って天使あまつかちゃんが渡してきたのは、紙飛行機だった。……なんか綺麗な折り方をしてるっていうか、フォルムが凝ってる。めちゃくちゃ飛びそう。


 けど、何かの裏紙を使用して折っているらしく、下敷きを使わずにノートをとったときみたいに筆跡の溝がデコボコしている。


 何の裏紙だろう……?

 そう思って渡された紙飛行機を解体してみると、それは物理の補習で使用された一枚のプリントらしかった。「補習受講者向け確認テスト」と一番上にある。


「……うわっ、ひどい点数」


 ペケまみれ。三十六点。

 なんか採点者に「もっと頑張るように」とか励まされている。


 天使あまつかちゃんは、この紙飛行機を折った本人を擁護するように言った。


「これ。校舎の敷地内に落ちてたんです。だからぼく、拾って。……なんかひどい点数なので、他の誰かには絶対にバレないように、こっそり返してあげてください」


 ぼく、この学校来たばかりで知っている生徒とか少ないですし、と困ったように眉を下げて。


 いやでも、わたしだって、それなりに学内で顔が広いことは自負しているけど、この紙飛行機をとばしたのが見ず知らずの生徒だったら、色々気まずいよ。


 断ろうかな、と思ったそのとき。ふいに、テスト用紙の名前欄に目が向いて。

「あ」と声が洩れる。胸が高鳴る。


 そこには、「芹沢澪理せりざわみおり」と。

 彼女らしい丸っこくて可愛い字で。


「ちなみに、そのテスト用紙の裏側もよく観察してみてください」


 そう天使あまつかちゃんに言われて、プリントをひっくり返す。

 紙の裏側には、気の抜けるようなミミズみたいなよれよれした字で、彼女の悲痛な叫びが書かれていた。わたしは思わず吹き出した。


『あたまよくなりたい』


 吹き出せば、わたしは、一昨日芹沢せりざわのことを想って決めた誓いがあったことを思い出した。どうして今まで忘れていたんだろう、と自分を責めさえした。


 ——次に、芹沢せりざわに困った事が起きたら、わたしは身を粉にしてでも彼女のことを助けたいと思う。力になりたいと思う。味方になりたいと思う。

 ——これは神様に誓って。天使に誓って。


天使あまつかちゃん、この紙飛行機とばしたばか、わたしの友達なの」

「そうなんですか。いやぁ、まったく偶然ですねぇ」


 わたしは胸いっぱいに夏の空気を吸い込み、意気込んだ。


「わたし、この子に勉強を教えてあげなくちゃいけない」

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