第9話

 サイダー缶の冷たさにやられた芹沢せりざわの顔が思った以上に可愛くて、だからわたしはポケットからスマホを取り出して激写した。

 芹沢せりざわにはバレなかった。冷えた首元を押えるのに一生懸命で、そんな彼女の手にはもう一缶サイダー缶が握られていた。


 あれ、と思って、わたしの手にある缶と、芹沢せりざわが握っている缶を見比べていると。


「それ、奢り」と。

 芹沢せりざわが。


「なんか茅森かやもり、一人で委員会頑張ってるらしいじゃん。だからおつかれーって感じの、奢りというか、労いというか。さっき生徒玄関近くの自販機で買ってきたの」


 おつかれーって感じの。

 奢りというか、労いというか。


 そんなゆるゆるした理由で、わたしに与えられたサイダー缶。「飲みなよ」と微笑む芹沢せりざわには従わず、わたしはそれを胸に抱えて、水滴で制服を少し濡らした。


 持って帰ろうと思った。

 夏休みの思い出として、冷蔵庫のなかに閉じ込めて、ぬるくなってしまわないように、ずっとずっとひやして。冷蔵庫のとびらを開けるたびに、その缶を見つけて、芹沢せりざわのことを思い出せるように。……やっぱりわたし、ちょっと重いほうなのかな。


「飲まないの?」

「……うん。えっと、今のど乾いてないし」

「奢った身としては、今ここで気持ちよく飲み干してくれたほうがいいんだけど」

「ちゃんと飲むから。家に帰ってから、よぉく冷やして」


 芹沢せりざわは諦めたような笑みをつくってから「まぁいいけど」と言った。それから、自身の手にあるサイダー缶を開けてごくごくと呷った。

 わたしは安心感に目を閉じた。このときのわたしの顔は、苺みたいに真っ赤だったと思う。それを隠してくれたのは、空色のカーテンから差した太陽の光。


 缶を抱きながら、そこでふとカーテンが大きく波打っていることに気づいた。窓から入り込んだ風、という外力を受けて、ふわふわと浮き沈みをみせる。

 その隙間から見えた青空。雲ひとつない青空の高い位置に、青春模様に燃えた太陽がゆっくりのぼっていく。夏の太陽は高い。


 貰って嬉しかった、サイダー缶。けど、その嬉しさには、実は、大きな大きな忖度が働いている。その忖度を、恋と呼ぶ。


 ようは、好きな人に、芹沢せりざわに奢ってもらったから、こんなにも嬉しかったのだ。他の人に同じことをされても、今みたいには喜べない。

 誰かになにかを奢ってもらうのは、日常のなかにありふれた些細な出来事だけど、そんな些細な出来事を芹沢せりざわと共有できたからこんなにも嬉しかったのだ。


 増していくわたしのなかでの芹沢せりざわの価値を自覚しながら、胸の高鳴りを意識する。苦しさと心地よさが心臓のなかに共存している。わたしはそれらを撫でつけるように大きく夏風を吸って、吸って落ち着かせる。


 芹沢せりざわから貰った、正しい言葉と、サイダー缶。

 それらは、わたしにとってあまりに大きなもので、心の底から貰って嬉しかったもので。

 だから自然と「芹沢せりざわから色んなものを貰いすぎた」と思ってしまう。なにか、対価になれるだけのものを、わたしは返したい。


 ねぇ、今度さ。わたしにも奢らせてよ。駅前とかてきとうにふらついてさ。

 そんな風に、わたしがお返しを申し出ようとした、そのときだった。


 わたしと芹沢せりざわの二人だけの世界に割って入るように、時間がすぎてシンデレラの魔法がとけてしまうように、彼女は「そろそろ時間だ」と言い出した。

 それは、芹沢せりざわが受ける補習の開始時刻だった。わたしはお返しついでに二人でデート、なんて桃色な妄想をしていただけに、冷水を浴びせられたかのようにハッとした。


 芹沢せりざわは少し眉を下げて笑って言った。


「ごめん。そろそろ補習始まっちゃうから、行くね」


 時間切れ。

 彼女には、行かなくてはいけない場所があるようだった。


 ……だけど、芹沢せりざわは教室の出入り口でふと足を止めた。飲み終えた缶を「燃えないゴミ」に投げ入れつつ、なんだかもじもじと身体を揺すりつつ。


「……あのさ。その、私、明日も補習受ける予定なんだけどさ。えっと、茅森かやもりは、明日も学校来る?」


 わたしは驚いてすぐに言葉が出なかった。

 彼女の言葉にはつまり、わたしが学校に来る確証がとれれば、芹沢せりざわも確実に学校に来るという意味が暗に含まれていて。


「うん。来る。明日も、来る」


 わたしは焦って若干噛みつつ、はにかんでそう答えた。





* * *


 翌日。委員会開始時刻になっても、百瀬ももせ落合おちあい先輩は出校してこなかった。

 休みの連絡もなく。結局、いつものひとりぼっちの委員会活動に元通りだった。


 気まぐれに、昨日とは仕事に着手する順番を変えてみる。今日は、中庭の花壇に水やりをするところから。

 中庭から見上げた四角い空には、厚い雲がいっぱい浮かんでいる。遠くのほうでゴロゴロと鳴っているくらいだから、おひるあたりでひと雨くるんじゃないかしら。


 ジョウロで水を注ぎながら、芹沢せりざわに思いを馳せる。補習は午前十一時からだから、できるだけ早く仕事をこなさないと彼女と過ごす時間が減ってしまう。

 昨日芹沢せりざわが教室から去ったとき、シンデレラの魔法を連想したけど、今となってはそれはいただけない。午前十一時なんて半端な時間に対して、そんな綺麗な言葉を当てはめるのは間違っている気がするし、正しくない言葉を与えることはやっぱり自制したかった。


 また、昨日までのわたしは百瀬ももせに対してどこか否定的だった。

落合おちあい先輩が参加する日だったら」という見返りがないと委員会に顔を出さない彼女に対して、やっぱりわたしはどこか否定的だった。


 だけど今は違う。

 昨日までのわたしは確かに、水やりをすることに「枯らしたくない」という後ろ向きな理由を与えていたけど、今のわたしは違う。


 芹沢せりざわだ。

 仕事を終わらせて教室に帰れば、芹沢せりざわが待っているのだ。


 今日からのわたしは、百瀬ももせと同じ立場にあるといえた。

 正直にいえば今のわたしには、「この大変な仕事をこなせば芹沢せりざわに会える」と思ってしまっているところがある。


 百瀬ももせが、委員会に参加する理由に「落合おちあい先輩」を設定していて。

 わたしは、仕事の「見返り」として「この後芹沢せりざわに会える」ということをモチベーションに使用している。

 その二つを並べてよく観察してみると、それらは全く同じことをしているいえた。


 これは正しい言葉だ。

 昨日までの自分と今日からの自分は、やっぱり明確に違っている。わたしはもう、「枯らしたくない」の一心で水やりをできる人間じゃなくなっていた。


 水やりをしに学校へ行けば、芹沢せりざわに会える。今のわたしの行動の軸は、芹沢せりざわに侵略されている。


 百瀬ももせと同じ立場になってみると、なんだか彼女のことを擁護したい気持ちがちょっとずつ募ってくるようだった。

 そこでようやく百瀬ももせに対して優しくなれた。百瀬ももせを許してあげられるくらいには寛容になれた。

 好きな人がいればそれぐらいの画策をしても、まぁしょうがないよねぇと。


 だから今日からのわたしは、ひとりぼっちで仕事をしていても苦を感じないのである。むん。強いぞ、今日からのわたしは。


 ジョウロを傾けながら花壇を眺めていると、ふと思いついたことがあった。


「このはなが綺麗に咲いたら一本摘んで、芹沢せりざわにプレゼントしてみようかな」


 ……だけど、呟いてみてからやっぱりやめた。


 中庭で育てられているリーガルリリー。

 高貴さを彷彿させるような純白の花弁を持つ、夏の花。だけどその実、高すぎる気温には弱く、水を欲するくせに多湿な土壌には向かない、脆弱でお世話が面倒な花。

 

 そんな、わたしがこつこつ水やりをして育てたはなを突然プレゼントをされても、芹沢せりざわはびっくりして困ってしまうのではないか。

 そんな考えがよぎったから、わたしは自分からはなを摘みに行くのではなく、芹沢せりざわが摘みに来るのを待とうと決めたのだった。


 それに。


 リーガルリリーは、香りが強く。

 はなつ花粉が刺激的過ぎるから。





* * * * *


「こんにちは、茅森かやもりさん。こんなところで奇遇ですね」


 背後から小鳥がさえずるような綺麗な声でわたしの名前が呼ばれた。

 聞き覚えのある声だなぁと振り返ると、わたしの傍らに、真っ白なリボンをつけた制服姿の女の子が立っていた。女の子は花壇をうっとりとした目で眺めていた。


天使あまつかちゃん」

「綺麗ですね、このはな。なんてお名前なんですか?」

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