第8話

 カーテンの空色に染まっていたわたしたちは、しばし見つめ合った。ぽけーっと見とれているわたしはようやくハッとして、言い訳がましい言葉を並べてしまう。


「……あぁ、えっと。委員会の仕事で、ちょっと色々」

「そうなんだ。夏休み一日目なのに大変だね」


 教室後方の棚に寄って、花瓶に手を掛ける。ちらり、と教室前方にある時計に目をやると、もう少しで時針が「十」を差すところだった。

 夏休み一日目の、午前十時。委員会にも部活にも所属していなかったはずの芹沢せりざわこそ、どうしてこんな時間に学校に来ているのだろうか?


 動作の一部始終を見ていた芹沢せりざわが、わたしの表情から色々察したという感じで「あぁ」と頷いた。


「私、補習受けるんだ。物理の成績あんまり良くなかったし、住吉すみよしも補習受けるから付き合おうかなって。十一時から物理の補習が始まるんだけど、住吉すみよしが受ける国語が朝早くからだったから、登校から一緒で」

「……そう、なんだ。いや、ちょっとびっくりしてたの。なんで芹沢せりざわが学校に来てるのかなって」


 茅森かやもりと違って理系科目は苦手だからねぇ、と芹沢せりざわが笑う。唇からちろりと八重歯が覗いて、思わずわたしの胸が高鳴る。


「緑化委員会だっけ。水やり? 大変だね、手伝おうか?」

「い、いいよ別に。慣れてないと疲れるだけだし、これから補習なんでしょ」


 言ってから、少しの後悔。仕事を一人でこなすのは結構大変だし、芹沢せりざわの発言に甘えれば、できるだけ多くの時間を彼女と共にする口実にもなるはずだったから。


 けど、言わなくてよかったぁ、と高速てのひら返し。芹沢せりざわの机に広げられている教科書とノートには、いくつもの数式と作図が踊っていた。

 彼女は夏休みだというのに、わざわざ勉強しに学校へ来ているのだ。その邪魔をする権利を、わたしは持っているはずがなかった。


 わたしの些細な心の揺らぎで、彼女を翻弄してはいけない。わたしのわがままで、彼女を困らせてはいけない。


 ……芹沢せりざわが、補習よりもわたしとの接触を優先したいと、主張しないかぎりは。


 だけど、わたしの考えをひょいっ、と軽い調子で掬い上げるかのように、芹沢せりざわがわたしを誘った。「ねぇ、今ヒマ? ちょっと喋ってこうよ」と昨日のわたしの口ぶりを真似て。


 ほとんど反射的に「いいよ」と答えそうになるわたしだ。はなを枯らすわけにはいかない。自分を制御するためにも、目の前の花瓶を力を込めて掴む。

「ちょっとだけ待って」と言ってから、わたしは廊下を駆け出す。花瓶は割れ物だから、もっと慎重に、優しい手つきで扱わなくてはいけないのに。





* * *


 仕事をすべて終わらせ百瀬ももせと別れると、わたしはすぐに教室へ戻った。

 

 芹沢せりざわが座っていた席の一つに前に座って、彼女を振り返る。芹沢せりざわは、机上の開いた教科書のページの端っこを指先でぴらぴらと弄んでいた。


 芹沢せりざわに対する周囲からのイメージといえば、外見が今どきの女の子って感じで、教室にいるときは大抵ぽけーっと窓の外を眺めている気怠げなギャル。そんなオーラばっかりが先走っているせいで、一部の生徒から「怖い」と誤解されているところがあった。

 彼女は自分自身の交友関係内でしか会話をしないし、クラスメイトとのコミュニケーションも少ないから、端的にいえば周囲からビビられている。怖い系ギャルじゃないかと。


「緑化委員って夏休みも仕事あるの?」と芹沢せりざわが言い出したのが始まりで、わたしたちは互いの夏休みにそれぞれ抱えている事案について語り合っていた。物理の補習午前中だからだるいとか、委員会のほとんどの生徒がサボるから一人で仕事片付けなくちゃいけないんだよねとか。


茅森かやもりはそんなに仕事押しつけられて、大変じゃないの?」


 わたしが机の上の物理の教科書を眺めていると、芹沢せりざわは「まぁ、サボることが委員会の常識になってるから、むしろ茅森かやもりが異分子になっても仕方ないかもね」と皮肉っぽくため息をついた。


 彼女は頻繁にスキンシップを求めるぐらい甘えたがりのくせに、ときたま今みたいに冷たい視線で人を見る。緑化委員会の沽券など、全く気にしてないって感じで。


 芹沢せりざわの「人を見る目」というものは案外正しくて、わたしの現在の境遇を観察して「偉い」だとか「優等生」だとか、同情めいた言葉を当てはめることが全くなかった。わたしは、そんな彼女の鋭い観察眼に惹かれていた。


 芹沢せりざわは、芹沢せりざわだけは、過剰な賞賛をわたしに向けてこない。まっすぐな正しい評価を、言葉を、わたしに付与してくれる。

「周囲からの重圧」と言い換えられる正しくない期待に気疲れしていたわたしは、過剰な賞賛から発生する水圧に押し潰されそうになっているわたしは、芹沢せりざわと初めて言葉を交わすなり、その一目惚れが本物であることに気づいた。


 わたしと芹沢せりざわは、先月末ぐらいからクラスメイトたちに隠れて、放課後の図書室や人気のない駐輪場の裏などでたびたび密会めいたことをしていた。

 密会は二週間に二、三回あるかないか程度で、実のところ、交わしている言葉数を裏打ちできるほど逢瀬を重ねているわけじゃない。わたしと芹沢せりざわは、日常の小さなくぼみみたいな時間に人知れずひっそりと会っていた。


 今回で、七回目の密会。

 わたしは、しっかり数えている。ちょっと重いかなって自負してるところもあるけど、やっぱり好きな人との逢瀬の回数は自然と数えてしまう。


 あのときはこんな話をしたなぁ、と一人寂しい孤独な夜に芹沢せりざわを思い出してベッドの中で悶々としたこともあった。

 この前はあんな話をしたよね、と花壇に水をやりながら、はなに話しかけることもあった。はなに頻繁に喋りかけると、よく育つらしい。

 

 わたしは密会感覚で勝手に盛り上がってしまっているんだけど、芹沢せりざわのほうはどうなんだろう? 芹沢せりざわは私のことをどう思っているんだろう?

 ……好きであってもらいたいな。そんな考えがすぐに出てしまう私は、恋に盲目になった恋愛体質な女の子だ。芹沢せりざわの正しい言葉から恋煩いの頃を連想してぽけーっとしていると、突然、汗ばんだ首元にひやりと冷たい何かが当たった。


 完全に油断していたわたしは、すっとんきょうな声をあげてしまう。


「——ほえっ!?」

「もう。茅森かやもりったら、急にぽけーっとする。私が話しかけてもずっと呆けてるんだから」


 しっしっしっ、といたずらっぽい笑みを浮かべた芹沢せりざわの右手には、冷えたサイダーの缶が握られていた。彼女はそれをぽけーっとしているわたしの首元にあてがっていたのだ。そのことを悟る。


 ぞくぞくと遅れて鳥肌が立っていく。間抜けな声を出したのを思い出して、じくじくと羞恥心が育っていく。

 やったなこのやろう、と、ぷにっと頬をつついて反撃すれば、「私は女郎だ」となぜか誇らしげに胸を張る芹沢せりざわ。うるさい、うるさい。


 むぅ、と睨んでやれば「あら怖いこと」と冗談めかしてせせら笑う。会話のペースも握られマウンティングにも失敗したわたしは、ただただ芹沢せりざわにいじられるばかり。

 抵抗できるのは、口先ばかりの言葉だ。わたしは言った。


芹沢せりざわはいじわるだ」

茅森かやもりは怒りっぽい」


 芹沢せりざわはわたしの発言を受けて、ニヤニヤしつつ挑発するような口ぶりで返してくる。ぎり、と唇を噛んで、わたしは正しくない言葉を重ねる。


芹沢せりざわは子供みたいだ」

茅森かやもりは大人ぶってる」

芹沢せりざわは甘えたがりだ」

茅森かやもりは恥ずかしがり」

芹沢せりざわは……」


 それから、続けるべき言葉を見失う。さっきまでの意地が、そこらへんでふっと冷める。わたしの「怒りエネルギー」的ななにかがしょんぼり心の奥まったところへ帰宅してしまったがゆえに、わたしはひとりぼっちでただ呆けるほかなかった。


 言葉を探す。


 芹沢せりざわは。

 芹沢せりざわは。

 芹沢せりざわは。


芹沢せりざわは……」


 今度は口に出して言葉を探してみる。


 芹沢せりざわは。

 芹沢せりざわは。

 芹沢せりざわは。


芹沢せりざわが……」


 頭のなかの連想に頼ってみる。


 芹沢せりざわが。

 芹沢せりざわのことが。


 わたしはす——


芹沢せりざわがぁ?」


 そう必死で言葉を探していると。

 恥ずかしげもなく、気障ったらしさもなく、自分でもびっくりしてしまうぐらい、ほとんど無意識的に自然に。

「好き」と。


 そんな言葉がわたしの心からあふれ出てきて、危うく口先からこぼれそうになった。


芹沢せりざわが? 芹沢せりざわさんがなんだよう」とやかましい芹沢せりざわを無視して、わたしはひとり、危ない危ない、と息を吐いていた。


 正しくない言葉は続かない。

 だけど、正しい言葉だからといって、それを口にできるかどうかは別問題だ。


 わたしは、芹沢せりざわのことが好きだ。

 それは確かに正しいことだけど、それを口にしてしまえば、これまで二人で交わしてきた言葉とか、育んできた関係とか、そういうものが全部壊れてしまうのではないかと思ってしまった。


 だからわたしは口を噤ぐ。「芹沢せりざわが?」と茶化すように繰り返す彼女の顔が憎たらしくて意地悪で可愛くてつい目を逸らしてしまいそうになるぐらい、魅力的だった。


 好き。

 その言葉を相手に伝えて、世の中の恋人同士たちは愛を育んでいるという。


 今のわたしにはできそうもなかった。意地がなくて、芹沢せりざわ側に受け入れてもらえる確証が見つからなくて。


 わたしはなんとか現状をごまかす言葉を探して、


「ばか」


 とだけ言って、ぷいっと芹沢せりざわから窓のほうへ顔を背けた。


 よかった、教室のカーテンが空色で。太陽がそこに差して青色のスポットライトになり、舞台上のわたしの真っ赤な顔を隠すことができたから。

 窓からは先程まで太陽を覆っていた雲たちはどこへやら、今となってはどこまで真っ青な空を覗くことができた。


「ばか」と言われて目を白黒させている芹沢せりざわの顔は存外愉快だった。そこでようやく、わたしは余裕を取り戻す。

 好きって簡単に言えないから恋なんだろうなぁ、と頭の片隅みに育っていた考えをどこか遠くに、地球の外とか宇宙とかに放ってしまって、今度はわたしが冷たいサイダー缶を芹沢せりざわのほっぺたにあてつけた。


 それは呆けている彼女の手から奪ったもの。

 芹沢せりざわはなかなかいい声で鳴いた。愉快、愉快。

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