第7話
委員会室で待てど暮らせど、同じ当番の子がやってこない。サボったのだろう、とすぐに予想がつく。
緑化委員の仕事は確かに激務といえたし、先輩たちが「手を抜いてもいい」といった風潮を完璧に築き上げていたため、わたしたち後輩もその空気に流され大いにハメを外した。……花壇の花が枯れても別にどうだっていいって感じで。
午前八時三十分。活動開始時刻。水やり当番だったはずの生徒は、わたし以外誰一人として出校してこなかった。待ち時間のあいだに読んでいた文庫本を閉じる。
今日も一人で仕事かなぁ、とため息をついたそのとき。勢いよく委員会室のドアが開く。はぁはぁ、と息を荒げ首元から健康的な汗を流す女子生徒が一人。
彼女は、椅子に座っているわたしを見つけると、にぱっと向日葵が咲いたみたいな元気な笑顔をみせた。
「おはよう、
くしくし、と目元を擦る彼女は、
少し目を凝らして見ると、
「そうなの。この学校って、長期休暇はちょっとぐらい遊んでても目を瞑ってくれるぐらいに校則が緩いでしょ? 先輩もみんな染めてたし」
昨日帰ってすぐ美容室行ったんだ、と嬉しそうに言う
彼女は照れたように赤くなった頬を搔きつつ、
「これ、
「そうね。
わたしと
わたしと
たとえば、今日この日に、当番を任されたきっかけだってそうだ。
『——ねぇ、
一緒の当番になって、間を取り持ってほしい、と。
そういう他人の色恋については、自分でも自負しているけど結構苦手な問題だ。
だけど「優等生モード」のわたしは、友人のお願いを袖にする勇気はなかった。断り切れず「夏休み第一週目ね。わかった」と微笑み、あぁ、またやってしまった、心の内で自分自身を罵った。
十分後、ちょっと切なげに笑う
「今起きたところなんだって。面倒くさいから行かないって」
* * *
夏掛けの校舎は、むわっと湿気と暑さばかりが籠もり、あまり人間が生活するのに適していない場のように思えた。
花壇は中庭にある。そこまでの道のりを歩いた感じ、どうやら北棟の特別教室を使用して補習授業をやっているらしかった。
補習の基準は、期末テストで赤点を取った生徒が強制的に参加で、それ以外は自分の意思によるものである。希望すれば、成績優秀者でも参加することができる。わたしは委員会活動で忙しかったし、長期休暇は羽根を伸ばしたかったので、補習には参加しなかった。
暗い鈍色の厚い雲。体積も大きくてときおりごろごろと鳴る雲たちは、見た目ばかり重そうなくせして空に浮かべるくらいに軽い。「そうだね」と遅れて
「そういえば
本当にそういえばって感じの話題だ。
でも、考えるまでもないことだったので、答えが自然と口から出た。
「はな」
「花?」
「枯らしたくないの。花壇の。先輩もみんな、別に枯れてもどうだっていいって感じで委員会サボってるけど、わたしはそんなことしたくない」
ふうん、と
それから、なんだかちょっと切なそうに笑った。
「
徒労。無駄。そんな自己否定的な言葉が頭に浮かばない日はなかった。けど、浮かんだその瞬間から、わたしは頭をぶんぶん振って悪い言葉を振り払った。
本当のところで、自分の本心に問いかけたとき、より良い世間体を求めているわけでも点数稼ぎでもなくて、わたしはやっぱり純粋にはなを枯らしたくないのだ。
だから、水やりはやめない。やめたくない。
「偉いね」と勝手な評価を下す
「
真面目。偉い。しっかり者。
あぁ、またこうなってしまうのか。先生にも、生徒にも、またそんな評価ばかりされてしまうのか。
わたしは夏休み期間においても、周囲からの強い水圧に潰されそうになってしまうのか、と息を吐いた。
客観的に見て、わたしは確かに、成績優秀で委員会活動に熱心な優等生だった。けどそれは本人の想定以上に賞賛されてしまうと、気疲れとひねくれの要因になる。
夏休み期間は、人と接する機会がめっきり減る。日常的に過剰な賞賛を受けずに、一人でゆっくりのんびりと羽根を伸ばす絶好な機会といえた。
だけど、今この瞬間だ。わたしの気疲れをさらに増長させるように、本人には悪意なんてないのだろうが、
海中から砂浜に上がって、水圧の感じない世界で暮らしたい。そこではまた気圧というものが存在しているのだろうけど、わたしにとっては水圧なんかよりマシだ。
綺麗な砂浜の上で、脱力して身体をのばし、気楽にひなたぼっこなんかして、ぐうたらしたい。……できればその隣に、
そんな考えが、ふっと脳裏をよぎって、ついつい顔が赤くなってしまう。中庭へ続く扉を開けて、花壇に並ぶ真っ白い花のもとへ。
「この花って、なんて名前か知ってる?」
「リーガルリリー。夏に咲くはななんだよ」
「ふうん」
* * *
中庭の花壇への水やりを終えても、緑化委員の仕事はまだある。校舎前の植木鉢への水やりもそうだし、ひとつひとつの教室を歩いて回って飾られている花瓶にも水をやらなくてはいけない。
校舎前に設置されているホースを片付けながら、「くたびれたぁ」と疲れ切った様子の
残るは、全教室にある花瓶の水やりだ。「帰りたい……」と後ろ向きになっている
わたしは、廊下手前側にある七組のほうから手を着けていく。ちまちまとした退屈な作業だけど、花を枯らさないためには必要なことだ。
七組と六組の花瓶を両手に掴み、水を捨てて綺麗なものを入れる。そして、それぞれをひとつずつ、もとあった教室に戻す。
わたしとは、やっぱり根本的なところで違う。
わたしは、対価がなくてははなに水をあげられない人間ではないし、そこに偉さとか世間体とかを求めているわけでもないのだ。
はなに水をやる。育ちすぎたからだをときたま剪定したり、土を触って今日は水をやるべきかやらないべきか考えたり、すくすく育っていくはなを花壇のそばでうっとり見つめたりするだけで、わたしの胸は穏やかに高鳴るのだ。
それだけでいい。慈しみと一種の片思いみたいな感情をはなに向けて、せっせせっせと水やりをする。ほんとうにそれだけでいい。枯れなければ、それでいい。
ほんとうに、それだけ。
たぶんわたしはそんな考えで花壇に向かっているんだろうなぁ、とか思いながらぽてぽて歩いて五組教室へ入ったとき、そこに人がいることに気づく。窓側の自分の席で座って教科書を開いている、腰まで伸びた黒髪のロング。
ときめきで声が出ないわたしの気配を察して、彼女は振り返った。
「あれ、
彼女は微かに青みがかった顔を微笑ませると、机上の教科書の上に手を置いた。ページの端に皺が寄り、そのことに気づいた彼女は「うわっ」と声をあげた。
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