第5話

 柔らかくすべすべした感触が、私の頭の上にある。私とは微妙に違う体温を持っていて、温度とはまた少し違う絶対的なあたたかさが感じられて。

 おっかなびっくりといった調子で彼女の手が動く。私の直感は正しく、やはり茅森かやもりは人を撫でることに慣れていないらしい。梳かれた私の髪がふんわりと持ち上がる。


 けど、すでに舞い上がってしまっていた今の私は、ちょっと貪欲だ。


「ねぇ、撫でるなら、ちゃんと撫でて……?」


 上目遣いで彼女を見れば、自然と唇が尖った。どうやら私は拗ねているらしい。

 茅森かやもりの、下手くそな頭の撫で方に。

 茅森かやもりの、不慣れで覚束ない手つきに。


 茅森かやもりに目を合わせにいく。泳いでいた彼女の目に、合わせにいく。

 視線が交じ合えば、頬を赤らめて茅森かやもりは私から目を逸らす。「たぶん今、変な顔してるから」とよくわからないことを言い、頭を撫でながら器用に自分の顔を隠す。


 それまでドキドキしっぱなしだった私の心はそこでようやく余裕を取り戻す。顔を隠す茅森かやもりがとても愉快で、自然といたずらっぽい笑みが浮かんだ。


茅森かやもりって、リードするよりリードされたいタイプ?」

「うーん……。彼氏とかできたことないし、全然わかんない」

「できたことないの? 意外。茅森かやもりってモテそうだから」


 私の幼少期からの常識からすれば、女の子同士で手を繋いだり頭を撫でたりするのは、結構ありがちなことだった。学校でも街中でもよく目にするし、私には何故か日常的に身体を絡みつかせてくる風変わりな友人だっている。


 好きな人から撫でてもらえるとなったら、それはもう嬉しい。住吉すみよしの絡みつきなんかはちょっと辟易してしまうけど、茅森かやもりからしてもらえるならそれは。

 

「ねぇ、茅森かやもり

「……なに?」

「もう少し、このままでいい?」

「……しかたないなぁ」


 茅森かやもりは諦めたような笑みをつくってから目を閉じた。そのまま、先程よりもっと慎重に、まるで割れ物を扱うような優しい手つきで触ってくれた。

 私も安心感に目を閉じた。たぶんこのときの私の顔は、林檎みたいに真っ赤だったと思う。それを隠してくれたのは、空色のカーテンから差した弱々しい夕日の光。


 撫でられながら、そこでふとカーテンが静かに波打っていることに気づいた。微かに開いた窓から入り込んだ風に揺られて、穏やかな起伏をつくっている。

 その隙間から見えた曇り空。鈍色の厚い雲は、どんどん校舎側に寄ってきて、夜とは違う暗さを濃くしていく。


 それからしばらく、二人で無言で、まったりと時間を過ごした。

 いや、まったりとしていたのは私だけなのかもしれない。茅森かやもりの手つきにはまだ少し震えが残っていたから、もしかしたら彼女は、うわべだけで笑っていて、その実、ずっと緊張の糸が張り詰めていたのかもしれない。


 だとしたら、私はちょっとわがまま過ぎる。

 人に不都合を押しつけて、自分ばかり享楽に浸って。それでは、小学時代の奔放な自分から何の成長もしていないことになる。


 今度は私が茅森かやもりの頭を撫でてあげよう。一方的に撫でられてばかりだと、その甘さに溺れてばかになりそうだった。

 甘さは自制して、もうちょっと多様な味わいを楽しめるように、私はちょっとだけ背伸びをして、「大人」を目指して。


 ねぇ、今度は私が撫でていい? 

 そんな風に、私が役割交代を申し出ようとした、そのときだった。


 夢見心地な世界に割って入るように、幸せな時間に水を差すように、機械的なメロディが教室内に響き渡った。

 それは、私のスマホの着信音だった。私も茅森かやもりもびくっと震えて、それからどういうわけか、今更いるはずもない周囲からの目を気にして、お互い身体を離した。


 通話に出ると、数十分前までに行動を共にしてたそいつの声が耳元に響く。


澪理みおり? 小読こよみとカラオケに移ったけど、あんたいつになったら来るの?』


 時間切れ。

 私は、もとの居場所に戻らなくてはいけないようだった。





× × × × ×


 茅森かやもりは、私が校舎を出た数分後に帰ると言った。窓辺の席に背を伸ばして座って読みさしの本を開いて、私に「ばいばい」と手を振った。

 切ない気持ちを引きずりながら、先程よりも暗さが濃くなった廊下を歩く。生徒玄関はやはり人気がなく、物悲しかった。


 靴を履き替えようと下駄箱に立ったそのとき、ふと昇降口の近くに制服姿の女の子がいることに気づいた。

 その子は私より頭一つ分小さくて、制服から伸びた手も足も驚くほど白かった。目鼻立ちがお人形さんみたいに精緻で美しく、地毛なのか染めているのか、綺麗なブロンドの髪をハーフアップに結っていた。


 見ず知らずの女の子の美貌にひかれて、思わず見つめるとすぐに違和感を抱く。

 彼女は、胸元にリボンをつけていなかった。


 この学校の制服において、リボンとは生徒の学年を象徴するもの。

 一年であれば、赤。二年であれば、青。三年であれば、緑。だけど、彼女はその象徴を持ってはおらず、リボンのない制服はどうにも妙な存在感を放っていた。


 ……なんて、じろじろ人を見ているから、目が合ってしまうのだ。


 色のない女の子はぽてぽてと私のもとまで歩いてくると、言った。近くで見て気づいたけど、大きくて綺麗なブルーの瞳だ。


「……すみません。ぼく、今日学校に入るの初めてなもので。職員室までの道のりを教えてくれませんか?」


 もしかしてこの子は転校生か何かなんだろうか。


 よくフィクションの世界にいる、よくわからないタイミングでやってくる転校生を彷彿とさせる。今日は夏休み前日。ふつう転校してくるなら、もうちょっと時期を考えて動くべきなんじゃないだろうか。


 今日編入試験を受けにきた、という線は頷けない。だって、この子はもうすでにこの高校の制服に袖を通しているのだ。だってのに、学年を象徴するリボンがない。


 だったら、もう試験はパスして、とりあえず在校生が少ない時間帯を見計らって校内見学にでもやってきた? だから、職員室までの道がわからない? リボンだけは、洋服屋のおっちょこちょいでまだできていない、とか? 

 ……ふうむ。


 自分の世界に没入している私の横で、女の子は「あの……」と不安そうに訊ねてくる。おっと、いけない。考え事は後にして、とりあえず今は困り事を解消しないと。


「えっと、職員室……だよね。いいよ、口頭で言っても混乱しちゃうだろうから、一緒に行ってあげる」

「いいんですか? ……わざわざ、ありがとうございます」


 女の子は大袈裟にぺこりと頭を下げた。その動作が仰々しくて可愛くて、おまけに体格が小動物みたいだったから、もうほとんど自然に彼女の頭に手が伸びた。


「あっ……」


 女の子はちょっと驚いたような顔をして、


「……ぼく、撫でられるの好きです」


 ほんと可愛いな、おい。


 私と女の子は手を繋ぎ、職員室がある北棟二階を目指して二人で歩き出す。校内はがらんとしてるけど、周囲から見れば私たちは姉妹として認められるだろうか。

 考えてすぐ、ないなと息を吐く。隣を歩く女の子が、とにかく美人すぎるから。


 金髪碧眼ってだけで、それはもうファンタジーの世界の住人みたいだった。長い睫毛も、厚い二重も、化粧をしなくても保たれる純粋な美しさもぜんぶ羨ましい。

 人気のない薄暗い校舎に今度は妙な高揚感を抱き始めて、この子と二人で、ふわふわっと不思議な浮力を得ながら、ファンタジーの世界にとけこんでいくようだった。


 北棟に入り、階段を上がる。生徒玄関からここまで来るのに、誰一人としてすれ違うことはなかった。

 職員室に着くと、女の子は先程の涙はどこへいったのか、にっこりと笑ってまた可愛らしい動作でぺこりと頭を下げた。


「本当にありがとうございました。この恩は絶対に返させてもらいますので」

「ぜ、絶対に? いいよ、たかが道案内くらいで」

「そうもいかないです。何かぼくに叶えてほしいお願いとかがあったら、何なりと言ってください。裸で逆立ちして校内一周でも、しますよ」


 そんな酷い願い事なんか頼まんよ。


「帰り道はさすがに大丈夫だよね? 今来た道を戻ればいいわけだから」

「はい。さすがに大丈夫です。ぼくの頭のなかに完璧に記憶されています」


 ならよかった。スマホを見れば、住吉すみよしからの不在着信が何件もきていた。


 そろそろ私は、本格的に自分の居場所に戻らなくてはいけない。茅森かやもりとの夢見心地な世界からも、この女の子とのファンタジーな世界からも、離れて。


 女の子は「それじゃあ、また」と、恋をしているわけでもないのに100%の完璧な笑顔を私に向けてくれる。本当に人間離れした美しい顔だ。これには住吉すみよしの「小森こもりくんバフ」がかかった笑顔も負けてしまうだろう。


 職員室から生徒玄関まで戻る。そこで、そういえば女の子の名前を聞いていなかったなぁと気づく。私も私で、名乗り出ることもなかったし。

 でも女の子は恩返しどうのこうのって口をついて喋っていたし、たぶん転校生だろうから、呑気に構えてもいてもきっとまた会えるだろう。同校の生徒と顔を合わせる機会なんていくらでもある。


 人助けをした後の居場所への帰り道は、妙に足取りが軽かった。茅森かやもりとのお忍びデートが中断されて切なさは少し残っていたけど、あの女の子に付与されたふわふわとした高揚感のせいで何もかも紛れてしまった。


 高揚感にあてられ、気楽に鼻歌をうたえば、もとの居場所でも、まぁなんとかうまくやっていけるだろうと思えるくらいの、浮力を私は得た。


 今度は、波にさらわれないように。


 駅前のカラオケまで、徒歩十分。走れば、きっと八分くらい。

 いや、今日は七分くらいで着けそうだ。

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