第4話

 顔が青みがかっているのは私もだ。窓を覆うカーテンが空色だから、そこに弱々しい夕日が差して、教室全体がまるでプールの底から周囲を見渡したときみたいに薄い青色になってしまうのだ。私も茅森かやもりも同じ色に染まっていた。


「……あぁ、そう。スマホ、忘れちゃって」

「そうなんだ。おっちょこちょいだね」


 自席まで早足で向かって、机の中からスマホを取り出す。と、手を突っ込んだ際に、柔らかくて薄い紙状のなにかに触れた。

 取り出してみるとそれは、通信簿だった。こんなものを学校に忘れてしまうほど、私はずぼらな人間だっただろうか。私はそれとスマホを鞄にしまった。


 動作の一部始終を見ていた茅森かやもりが、私の近くまで寄ってきて言う。


芹沢せりざわ、もしかして通信簿も忘れちゃってたの?」

「そうみたい。あんまり良く書かれてなかったから、無意識のうちにショック受けて、通信簿なんかどうでもいいやみたいな気分でぞんざいに扱ってたのかも」


 酷いねぇ、先生がせっかく書いてくれたのに、と茅森かやもりが笑った。

 その笑顔が、いつもクラスで見る茅森かやもりとは異なる雰囲気を纏っていてから、胸が甘く締め付けられる。私は緊張が悟られないように言った。


「あれ、まだ学校内なのに『優等生モード』解除しちゃってていいの?」

「いいの。もうほとんどの生徒は帰宅するか部活に出るかしてるし、それに」

「それに?」

芹沢せりざわがそばにいるから」


 そう言って、茅森かやもりは私に指を差す。ふうん、とうわべではごまかしたもの、実のところ、私の心臓は早鐘を打っていた。ばかみたいに照れている私だ。


「ねぇ、今ヒマ? ちょっと喋ってこうよ」と茅森かやもりは私を誘った。

 彼女は私と違ってスカートを折って穿いたりしないので、ポケットがある。スマホで時間を確認して「まだ門限まで時間があるの」と言って、そこへしまった。


 ほとんど反射的に「いいよ」と答える私は、友人を駅前で待たせているという現状から、もう少し罪悪感を持つべきなのかもしれない。





× × ×


 茅森かやもりと私は二人で並んで、窓際の机の上に座った。私は普段からそういう大胆なことをしているけど、普段の彼女ならそんなことはしない。


 茅森かやもりに対する学内からのイメージといえば、背筋を伸ばして席に座り手元には文庫本って感じだろう。清楚でお淑やか、ってキャラ付けがされていて。

 物腰柔らかで、男女に分け隔てなく接することもできるから、その人徳に思慕を寄せる生徒が結構な数いるような気がする。私もその一人だ。


「ねぇ、通信簿見せ合いっこしようよ」と茅森かやもりが言い出したのが始まりで、私たちはお互いの通信簿を目に通しながら色々とダベっていた。期末は理系科目のテスト範囲が異様に広かったねとか、いまだに変格活用があやふやなんだよねとか。


茅森かやもりの『担任から』の欄、いっぱい褒められてる」


 私が紙面を眺めながら何気なくそう言うと、茅森かやもりは「だてに良い子ちゃんしてるだけあるね」と皮肉っぽくため息をついた。


 私は、茅森かやもりの『担任から』の欄を読み上げる。


『模範生としてクラスを引っ張ってくれているような存在です。多数の生徒とも交流があるようで、それは彼女本来のリーダーシップの表れといえると思います。

 授業態度や提出物の面もしっかりとしていますし、このままの姿勢で二学期以降も頑張ってほしいです』


 それを聞いた茅森かやもりは「今のわたしとは正反対だね」と肩をすくめる。「ほんと」と私が言ったのは、同調でもなんでもない根っからの本音。


 彼女が学内で常に発動している「優等生モード」を解除していいのは、学外や校舎の人気のないところか、私のそば。それが茅森かやもりのなかでできたルールらしかった。


 茅森かやもりとこうしてクラスメイトの目を盗んで好き勝手にダベる習慣は、先月の末ぐらいから続いていた。

 一ヶ月くらい続いているといっても、私と茅森かやもりは所属しているグループが違う。私はクラスでも発言権が優先される「一軍」な感じのグループで、茅森かやもりはお淑やかで静かな女の子が集まるグループ。種族違いの私たちが、白昼堂々教室内をつっきって話しかけにいくのは、なんとなく憚られた。


 私の近くには住吉すみよし水城みずきがいて、茅森かやもりの近くにも彼女の友達がいる。

 みんなでつくった世界観というか社交場というか、とにかくそういう「みんなの居場所」みたいなものを壊す権利は、私にも茅森かやもりにもあるはずがなかった。


 だから私たちは、放課後たまたま顔を合わせたときとか、昼休み偶然図書室で居合わせたときとか、日常の些細な隙間みたいな時間に人知れずひっそりと会っていた。


 私はお忍びデート感覚で勝手に盛り上がってしまっているんだけど、茅森かやもりのほうはどうなんだろう? 茅森かやもりは私のことをどう思っているんだろう?

 ……悪く思っていてほしくはないな。そんな考えがすぐに出てしまう私は、ばかみたいに恋する女の子だ。できるだけ会話が続くように言葉を選ぶ。


「小学校の頃の通信簿には、先生からなんて書かれてた?」

「えーっと、でも、ほとんど『勉強ができる』とか『みんなのお手本』とかそんな感じの言葉選びだったなぁ」

「ふうん、今とほとんど変わらないじゃん」


 優等生だからねぇ、と茅森かやもりは胸を張る。まぁ、芹沢せりざわもわたしのこと見習いなさいよ、という冗談も加えて。


「でも、通信簿でふつう気にするところって、成績欄でしょ。どうして『担任から』が気になるの?」

「んー……。小学時代からのクセっていうか、トラウマっていうか……」

「トラウマ?」


 茅森かやもりが不穏な言葉の響きに首を傾げる。


「うん。親が、むかしは通信簿を隅々まで見る人だったから、よく『担任から』に書かれたことで説教されることがあって……」


 小学時代を振り返ってみれば、不思議と鮮明に、当時の通信簿の「担任から」の欄に書かれていたことが思い出せた。 


 一、二年生の頃は、「活発で元気な子で、明るい性格ゆえにクラスでは人気者です」みたいなこと。

 三、四年生の頃は、「落ち着かないところがあってクラスの男子とたびたび衝突することがありますが、強い意志がある子です」みたいなこと。

 五、六年生の頃は、「積極的ではありますが、それが空回りすることが多い印象を受けます」みたいなこと。


 私が通っていた小学校は二年ごとに担任が替わる。当時は奔放な性格をしていたから、大人の目には気に食わない存在として映っていたのではないだろうか。

 授業中におしゃべりするわ、廊下は走るわ、クラスメイトとは喧嘩するわで、先生にも友達にも家族にも迷惑をかける。なまじ成績がいいことを自覚していて、それを鼻にかけている節もあったから、教師陣からの心証はあんまり良くなかった。


 そんな性格をしていたものだから、当然通信簿にもそういう風に書かれてしまう。

 自業自得ではあったけど、そのたびに親からお説教を受けたものだから、私のなかでは「担任から」から連想して、苦労した思い出が消えてくれない。

 私がなんとなく他人の「担任から」が妙に気になってしまうのは、たぶんそういう過去があるからなんだと思う。特に、好きな人のものともなればそれは。


 中学以降は、親は成績面をやけに気にするようになったため、小言を言われることがめっきり減った。

 年をとるごとに、成績欄に目がいきがちになっていくのがふつうなのに対して、私はいまだに「担任から」の欄にびくびくしている節がある。

 私の、小さくて些細な恐怖症にも満たない妙な観念。けどまぁ、この程度のものは人間誰しも持っている。コンプレックスとか、精神的な古傷とか。


 つまんない話になっちゃったね、と私はごまかす。ちょっと無理して笑えば茅森かやもりも同調してくれると思ってそうしたけど、彼女は笑ってはくれなかった。


 その代わり、といえば代わりなんだろうけど。


 茅森かやもりは。

 ぽむっ、と。私の頭に。


「え……?」

「い、いやなんか芹沢せりざわ、笑ってごまかした割には結構傷ついたような顔してたから」


 茅森かやもりは少し照れたような顔して、慣れない手つきで私の頭を撫でてくれていた。ぎこちなく動く手には心地良さなんてなかったけど、なんというか、すごく、すごく。


「……あんしんする」

「え? 芹沢せりざわ、今何か言った?」

「——……えっ、あっ、いや。な、なんでもない、ですよっ?」


 ぽけーっとしているうちに洩れたとろけた言葉が、危うく茅森かやもりに伝わりかける。なんとかごまかしたけど、語尾がおかしいぐらい不安定だった。

 なんだよ、なんでもないですよって。


 危ねぇ、と一人で安堵の息をつく。茅森かやもりからは「なんで疑問系?」くらいでセーブできたから、私の一人勝ち。その質問には答えず、私は彼女の手の感触に集中した。

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