ヘレナ
社の焔が消えて以来、議場には篝火が灯されるようになった。
慣れ親しんだ光が消えて、少々寂しさもあった。
しかしそれ以上に、喜びも大きかった。
姉弟と心を通わせることができるようになったからだ。
オリガは絵を描くことをやめなかった。
念でありのままを伝えるのと、風景や人や生き物を、紙に描くというのは別の楽しみがあった。
実際のものでなくとも良いのである。
絵は現実をモチーフとして描き、楽しむことができるのだ。
これには文学院や工芸院が同調した。
エルオールやエリシアムの住人は、意思の伝達能力が高いが故に、文字で記録したり図で表したりすることがなかったし、事実をありのままに伝えることが合理的だと考えてきた。
絵画という文化は発達しなかったのだ。
しかし今文学院が取り組んでいる詩歌は、合理性とは対極にある価値観である。
そんな彼らに絵というものは新たな視点を提供した。
オリガは文学院と工芸院を行ったり来たりしていた。
自分が取り組んできたことが評価されて、嬉しかったのである。
そんなある日、事件が起きた。
オリガは蓮の葉に留まる蜻蛉を描こうと、思案していた。
水の表現や、蜻蛉の体をどう描けば面白いだろうかと考えていると、オリガの周囲に、透明な蜻蛉が現れたのだ。
文学院の学生がそれに気づいて、皆にあれは何かと問い、オリガがそれに気づくと、透明な蜻蛉は弾けてしまい、床に小さな水たまりを作った。
これを聞きつけたカルネが大慌てで文学院に駆け込んできた。
多くのものはその現象がどういうものか知っていたが、初めて現実にそれを見た。
オリガは無意識に、危険な領域に踏み込んでいた。
念が物質に作用したのだ。
これはエルオールが竜から学んだ秘術であった。
竜も念を用いて意思疎通する生き物である。
この力が現実の物質にも作用することに最初に気づいた生物だった。
使い方を誤るとあまりに危険なので用いないでいたが、エルオールとの間にある契約を結んだ時、危機回避を目的に一人のエルオールに伝えたのだ。
竜を殺すために、である。
オリガが生きる時代から遡ること二千年以上前の時代のことだ。
当時のエルオールの人口はおよそ一万五千人ほどであった。
五千人程度の街が三つあり、それぞれの街で地域に適したものを採取し、互いに融通しあって生活していた。
海辺の街、平野の街、山の街があった。
彼等の社会は対話によって物事を決め、多くのものが納得できる結論を見出しながらゆっくりと進む緩やかな社会だった。
社会運営は市民の代表者が集まって作られる議会と、知識人集団である十人の元老院で決定された。
元老院は先の十年について方針を話し合い、その結論を議会が精査して、修正するか決裁するかを決めるのだ。
決める場合は民衆に説明してから決裁された。
社会的な身分はなく、あるのは役割であって、それを全うすることが良いこととされた。
食糧や物資は共有され、皆好きなものを好きなように食べた。
彼等エルオールの寿命は二百年ほどあり、大きな社会的な変化を好まなかったし、採集と農耕で十分衣食住を賄うことができた。
何より性格が穏やかだったので、問題が発生しにくかったのである
問題といえば、なかなか子を授からなかったことだったが、人口の増減は緩やかでさして大きなことではなかった。
しかしある日海辺の街で異変が起きた。
街が壊滅したというのだ。
被害の状況は念話で直ちに各都市に伝わった。
念話は距離に依存性がなく届けられるため、都市間での議論に重宝した。
その連絡網から、街の様子が判明した。
翼を持つ大きな生き物が、街を破壊していたのだ。
首は長く、鳥のような翼を持ち、一対の腕と脚を持ち、長い尾を備えていた。
その生き物が大きく吠えると、街の建物が崩れて、人が下敷きにされた。
そして逃げ惑う人を、食っていた。
凄惨な光景だった。
長い月日をかけて建設した都市は、いとも簡単に粉々に砕かれ、つい先ほどまで共に働いていたものが瓦礫に潰されたり、噛み砕かれて血を噴く四肢や内臓となって撒き散らされた。
あたりを叫び声と血飛沫と砂埃が溢れた。
逃げ出せたものは幸運だった。
多くのものは何が起こったのかわからないまま、肉の塊となったのだ。
平野の町と山の街の人々は、この生物に備えなくてはならなかった。
差し当たって、海辺の街の住民を保護するために、二つの街は男手を集めて救助に向かった。
街はひどい有様で、生き残ったのは三百名にも満たなかった。
五千人が住む街が三百人以下になったのであるから、まさに壊滅的被害だった。
彼等は海辺の街の再建のためにそれぞれ千名ほどを募り、海辺への移住を求めた。
海辺の街での活動がなくなると、海産物、特に塩の入手ができなくなってしまうのだ。
彼等は急いで仕事に取り掛かった。
また同時にその生物への防衛対策も行わねばならなかった。
二つの街から千人ずつを割り当てて、狩猟を任されていた者たちが中心となって、街を守る防人を組織した。
街は男手が足らず、食料の調達に難儀した。
議会と元老院は三つの街をあわせて運営するために、元老院と議会を統合した。
そして平野の街に議会を置いて運営することとなった。
元老院は二十名と防人代表者が一人合わさって二十一名、議会は五十人に一人の決め事を基に、二百六人が選出された。
まず最初にあの生物は何かという問いから始まった。
巨大な蝙蝠という主張や蜥蜴という主張が現れたが、翼が2つ、手足が2つずつという動物はいないという結論が出た。
六本なら昆虫かと思われたが、昆虫は手足が六本ある上に翅を複数枚持つため、昆虫にも該当しない。
新種ではないかという意見からそう定義し、竜と名付けた。
竜は長い首と尾を持ち、蜥蜴のような手足を持ち翼を備えている。
体の大きさは測れないが、体色は赤く、羽毛や鱗のようなものに覆われていた。
どこから現れたのか、どれくらいの数が生息しているのか、全くわからなかった。
防人は竜の対策のためにまずは街周辺に監視塔を設けた。
狩猟で使う槍や弓を増産し、訓練に明け暮れた。
また弓の原理を応用して、大きな金属製のモリを投射する道具を作り、監視塔の天辺に配置した。
矢や槍が届かなかったり、傷を負わせられなかったりした時のためだ。
金属のモリは槍のような形に造られたが、かなりの重量があったため、大型の射出機を設計して作った。
試作段階でかなりの飛距離を確認できたので、量産化された。
同時に射出角度を変更できる台座の設計も進めた。
これらの案は元老院で協議され、議会で採決し、人員を割り当てて進められた。
金属加工や石細工を担う部署が行った。
こうして復興と防衛が少しずつ進んでいった。
そんな折に、監視塔から竜発見の知らせがあった。
全ての人々が身構えた。
平野の街のほうだった。
建物に入っても破壊されて潰されるので、開けた場所に退避した。
監視塔から、地上から、矢を射掛けたが射程外で届かない。
届いても弾かれてしまった。
しかしモリ射出機はうまく機能した。
角度調整用の台座の可動域がまだ小さくて、的に当てるのが難しかったが、一回だけ命中させられた。
竜の飛行軌道が乱れ、不安定になっている様子が確認できたため、有効であったと報告された。
しかし被害は大きかった。
平野に戦力を固めたが、六百名の人員が命を落とし、監視塔も三つ破壊された。
防人代表は増員を提案したが、人員不足でかなわなかった。
食糧の調達など他の部門も人員が限界だったのだ。
その半月後に再度襲撃があった。
今回も平野に現れたが、前回の襲撃で学んだのか、投射機が使えない高度を使って攻撃されたため、部隊は甚大な被害を受けた。
千二百名が命を落とし、平野の街も襲撃で半壊し、二千五百人以上の死者を出した。
元老院は山間部への撤退を提言し、山間部を要塞化することになった。
その年エルオールの人口は短期間で半減した。
男女比で見ると男は3割まで落ち込んだ。
山間部に移住するにあたり、可能な限りの穀物と塩を確保した。
山に砦を作り、平野から投射機を移設した
モリを増産して襲撃に備えた。
半月過ぎた頃にまた、竜が現れたと報告があった。
平野からだった。
撤退に気づかれていないようだったが、砦の近くを飛んで、山脈の向こうに消えた。
それから暫くは襲撃は止んで、ひさしぶりに落ち着いた日々が続いたが、三月経ったある日、砦の周りに突如現れ、上空を周回していた。
防人たちは、高度を下げるのを待った。
山の斜面に高さを変えて投射機を設置したため、投射範囲が増えていた。
彼等は降りてくるのを待った。
しかし竜は砦ではなく、奥の斜面にあった住居を狙った。
住居が破壊され、人々が逃げ惑っていた。
防人は投射機の設置場所を逆側に移動させたが、街に打ち込むわけにもいかず、ひたすら機会を待った。
ある時竜は平野の方に向かっていった。
射線に街が入らない位置まで引きつけて、一斉射撃を行った。
十数発が命中した。
竜は悶えながら地に落ちた。
初めて龍を地に落とすことに成功したのだった。
地に落ちた竜は身体中から血を噴き出し、荒く呼吸をしていた。
そして突如咆哮したのだ。
何度も何度も咆哮した。
まるで誰かを呼ぶように。
陽が傾いてきた頃、ある者が空に新たな竜の姿を見つけた。
その竜は撃ち落としたものより一回り大きく、撃ち落とした竜のところに向かっていた。
防人たちは同じように引きつけて、一斉にモリを放った。
数本のモリが竜に命中し、竜は地に降りた。
大きな竜は、地上に横たわって血を吹いている竜を見て弱々しい声を出した。
泣いていたのかもしれない。
防人たちは力を合わせて投射機を運び、竜にとどめをさそうとしていた。
投射機を設置し、いざ始めようとした矢先、一人の女が両者の間に入り、皆に訴えた。
女は震えながら、涙ながらに言った。
『どうかやめて欲しい。街を見てくれ。夥しい数の同胞達が命を落とした。街は崩壊し、怪我人と死者で溢れている。これ以上続けたら、竜は殺せるかもしれないが、私たちの社会は再建できないほどの打撃を受けることになる』
冷静になってほしいと女は伝えた。
防人たちは彼女の念話に同調し、戦闘を止めた。
龍も動く気配がなかった。
その時、投射機が何かの弾みでモリを発射し、竜の背に突き刺さった。
竜は大きく悶え、尾を振り回した。
その時尾が、止めに入った娘を巻き込み、小さな竜に向かって弾き飛ばした。
娘は糸の切れた操り人形のように、力無く竜の血の中に崩れ落ちた。
防人たちは頭を抱え、項垂れた。
もう誰も、撃つ気などなかったのだ。
男たちは血に塗れた娘を抱き起こそうと近づいた時、大きな竜は娘に手を伸ばし、娘を両手で掴んだ。
そして小さな竜の首を咥え、力無く飛び去っていった。
防人たちは去ってゆく竜をただ見ていた。
体が冷えきって、凍えそうになって目が覚めた。
薄暗く、硬い岩の上で寝ていたようだ。
娘は起きあがろうとしたが、視界がぼやけ、腕に力も入らなかった。
頭がぼんやりした。
掌を額に当てると、熱があった。
ここが何処なのか、何故ここにいるのかも定かでなかった。
額に手の甲を当てたまま、上を見た。
ずっとずっと上の方に、光が見えた。
昼らしい。
ここは何処なんだろう。
どうなってしまったのだろう。
娘は思った。
すると、頭に念が届いたのだ。
『目が覚めたか』
娘は誰かと尋ねた。
『わたしはお前の敵だ』
敵、竜のことか?
『お前たちはそう呼ぶのか?』
『何故私の言葉がわかるの?』
『長い間、お前たちの対話を聞いていたからだ』
『そう、あなたたちは何? 何故私たちを襲うの?』
『お前たちも動物を食べるであろう。それと同じだ』
『それなら、互いが滅ぶまで殺しあうしかないわね。大勢死んだけど、あの竜を落としたもの。あなたも気をつけることね』
『我の子がすまないことをした。許して欲しい』
『許すですって? 貴方のせいでどれだけの同胞が命を失ったか、わかる?』
娘は震えながら声を振り絞った。
『すまなかった。我らは、体が成長し切る頃に飢えに襲われるのだ。記憶を受け継ぐまでは、ただの愚かな蜥蜴と変わらぬ。飢えが満たされるまで捕食しようとする』
『よくわからないわね。記憶を受け継ぐとはどういうこと?』
竜は娘に説明した。
竜は数百万年前に発生したのだという。
永い年月が経ち自分達より強いものがいなくなり、食物連鎖の頂点に立った。
どんな生物も、彼らを殺すことができなかった。
やがて彼らは数を増やし、生きるために多くの生物を捕食した。
そんなことが続くと、絶滅する種が後を絶たず、やがて彼らの食糧は限りなく少なくなり、ついには共食いをするに至った。
彼らは生きるために同胞を食った。
そして最後に残ったのは、兄弟三翼だけだった。
彼らは互いに食べたとしても、その先にあるのは絶滅であると知っていた。
だから、三翼共に最期を迎えることにしたのだ。
しかし何年経っても死ぬことはなかった。
飢えもしなかった。
あんなに食べることを求めていたのに、食べないと決めた途端、飢えが消えたのだ。
竜たちはすることもなく、眠り続けた。
どれほどの月日が経っただろう。
目の前にいる兄弟たちの羽や鱗が、剥がれ落ち、新しいものが生えてこなくなった。
そして、腹に違和感を感じた。
やがて腹から小さなものを出した。
鶏のような生き物だった。
その生物は出現してすぐに動き出し、捕食を始めた。
休むことなく食べ、眠り、次第に大きくなっていった。
身体が大きくなるにつれて、自分の姿に似てきた。
やがて自分と変わらぬ姿になると、かつて自分がそうであったように、手当たり次第の生物を食べ始めた。
竜は、新たに生まれた竜を止めたかった。
食い尽くせば滅ぶだけだと教えたかった。
食わなくても生きられると。
竜は自分の記憶を与えた。
すると捕食衝動が止み、大人しくなった。
その後しばらくして、元の竜は死を迎えた。
こうして竜は記憶を受け継ぎながら、他の生物と共存する術を得たのだった。
『今回は、我の複製が出現するのが遅れてしまった。子の機能が成熟するのは我が死を迎える頃だから。それで、このようなことになった。心から詫びたい』
娘はやるせない思いだった。
説明に恐らく嘘はなく、理解できたが、我々は絶滅の危機に瀕している。
『今回我々はあなたを殺してしまった。貴方の後継は現れないということね』
『それについて頼みがある』
『何でしょう』
『我々は胎内で自分の複製を作ることができるが、同時に卵も産むことができる。我々はもともと両性を持つ卵胎生の生物だ。我々は永い時間を生き、多くのものを見聞きし、考えてきた。主に我らが生きている、生かされている理由についてだが。結局、未だ答えは得られないままだ。お前たちが生まれる前に生きていた、お前たちと姿形のよく似た生き物もいた。彼らがどのように生き、どのように死滅を迎えたか、興味はあるか?』
死滅と聞いて、背に冷たいものを感じた。
『あります』
『そうであろうな。頼みたいこととは、これから生まれる卵が孵り、その者が大きくなった時、我の記憶を渡してほしいのだ。我の記憶の橋渡しを、お前に頼みたい。見返りとして、その過程で過去にお前達のような知的生命がどのように興隆し、絶滅していったかを知ることができるだろう』
『我々以前にも人がいたということですか?」
『複数いた。それらは幾度も生まれたり滅んだり、混ざり合ったりしてきた。我は時の流れの中では常に傍観者だ。我が知り得たものをうまく活用できれば、道が開けるやもしれん』
受け入れる他ないと思った。
『分かりました。しかし貴方がたがどれくらいの期間で記憶の継承が可能になるかが分かりません。私一代で足りるものですか?』
竜は娘の体を見ていった。
『記憶があるかどうかわからないが、お前は昨日瀕死の重症で死にかけていた。だが今はどうか、体は元に戻り、話もできるであろう』
確かに、止めに入った後の記憶がなかった。
そして自分が裸で寝ていたことに気づいたが、今は脇に置いた。
『我の血を浴びて、お前の体に我の血が入った。我らの血液には、老化したものは分解して元の姿に戻し、傷ついても再構築してやはり元の形に戻す作用がある。そのため我々は千年以上にわたって生きることができる。その力をお前は獲得した』
『では私の血を他のものに与えたら、皆生きられると?』
『それは薦めない。かつて私の血を啜り永い時を生きた者がいた。しかし彼は生きることに飽きてしまった。死を求めたが死ねないのだ。彼は考えることもやめて、狭い洞窟で膝を抱えてひたすら身体が朽ちていくのを待っていた。この力は時に祝福であり、呪いともなる。秘することを薦める』
彼女は俯いた。
どれくらいの時間だろう。
これから私は死ぬことなく生き続けるのか?
それがどういうことか、彼女には分からなかった。
『分かりました。提案を受け入れます。私が生きる限り、貴方の記憶は受け継がれるでしょう』
『ありがとう…、本当にありがとう』
竜は重たそうに体を起こし、横たわる命尽きた竜の骸に寄ると、それを喰らった。
凄まじい形相だった。
己の不注意を悔いるように。
泣いていたのかもしれない。
娘は静かに見守っていた。
『お前の名を聞いても良いか。他のものたちに伝えておく』
『ヘレナ』
『良い名だ。我に個体名はない。生まれてくるものには好きに名をつけると良い』
そう言うと、竜はしばらく眠りについた。
ヘレナは身体を擦り、寒さを凌ごうとしたが埒があかない。
眠る竜の鱗に触れると、暖かかった。
自分よりもずっと体温が高いのだ。
ふらつく脚を支えながら、ヘレナは竜の腕の中で眠った。
永い眠りだった。
再び目を覚ました時、竜はヘレナに時が来たと伝えた。
竜は彼女に光り輝く玉を与えた。
同時に、上手くゆかなかった時のために、竜を殺すための力を与えた。
極限の集中力と想像力が、世界の理に合致した時に発動する力だった。
ヘレナは光の玉から記憶を受け取った。
すると竜は卵を一つ産んだ。
握り拳ほどの小さな卵だった。
カルネはオリガをエヴニルへ連れて行った。
中腹の通路を辿ってゆくと、中に入ることができるようになっていた。
中は広い空洞になっていた。
「あなたはヘレナの過去を見たが、重要なものを受け取っていない。その力を制御するための知識です」
カルネは記憶を受け継いだ時のように、光の玉を発生させた。
「エルオールの少年を見た?」
オリガは頷いた。
「その力を使えば、彼のように仮死状態で意識だけを分離できるようになります。あなたがさっきやったようなことも、意図して行えます。ただ、訓練が必要ですから、これからあなたは母とここで暮らします」
オリガは不安そうな顔をして母に尋ねた。
「ずっとここにいなくちゃいけないの?」
「できるようになるまで、一緒にいます」
母は笑顔で言った。
「私も通った道です。あなたもすぐにできるようになります」
「できなかったら?」
「大丈夫。私はあなたのように無意識で蜻蛉を出したりできなかったわ。あなたは大丈夫ですよ」
母は手を差し伸べた。
オリガはその手を取った。
カルネから光が流れ、オリガへと流れて行った。
母の記憶が見えた。
自分が生まれた日から今日まで。
ずっと見ていてくれたんだ。
オリガは涙が溢れた。
首も座らない赤子が、母の胸に抱かれながら、炎の中で泣き叫ぶ子に必死で手を伸ばしていた。
赤子はただ泣き叫ぶだけだ。
母は赤子を守ろうとしていたのだ。
どれだけ時間が経っただろう。
母は胸に抱いた子がずっと手を伸ばしているのに気づいた。
ずっと炎の中の子に向かって伸ばしていた。
赤子が一際大きく泣いた時、炎の勢いが揺らいだ。
まさかと思った。
母は赤子を抱いたまま炎に寄ってみると、炎が避けた。
この子がやっている。
母はそれに気づくと、子を抱いたまま炎に飛び込んで、もう一人の我が子を抱いた。
強く抱きしめていた。
その時娘の手が息子の額に触れた。
すると、炎は嘘のように消えた。
息子はまだ生きていた。
母はようやく息子を胸に抱いて、乳を与えることができた。
母の涙が赤子に落ちるのが見えた。
ありがとう、お母さん。
アゼルを助けてくれて。
ずっと私を愛してくれて。
母の思いが記憶と共に流れてくるのだ。
アゼル、あなたもこんなふうだったのかな。
記憶の流れは螺旋を描いていた。
それらは光の粒が集まってできていた。
螺旋の流れが自分の周りを回っているように見えた。
ふと見上げると、それはずっと上まで続いていた。
違う、私が通り過ぎているんだ。
私の頭に入ってくるわけではないんだ。
見に行くことができるんだ。
時を飛び越えて過去を見ることができる。
書庫の鍵とヘレナが言っていた。
自分の螺旋の周りにも無数の螺旋があった。
それらは集まって、より大きな螺旋を描いていた。
オリガは涙が溢れた。
光の粒の一つ一つはきっと他の命だ。
それらは寄り集まって大きな流れを作る。
もっと遠くから見たい。
この流れはどこへ向かっているのか見たかった。
そう思ったが、流れから出ることはできなかった。
気がつくと、母に抱かれていた。
「大きな渦が見えた」
「そうね」
「あの光は命?」
母は頷いた。
「そう。セリム様が持ってきてくださった光の形を覚えてる?」
オリガは頷いた。
「あれは生命の循環を示している」
「循環?」
母は頷いた。
「一つ一つが人の命であったり、記憶なのよ。人も動物も、この星も、みんな生きているの」
「星?」
「そう、あなたもじきにわかるわ。始めましょう」
母に手を引かれ、奥へ進んだ。
ふと、この場所を見たような気がした。
オリガはこの空間を知っていた。
そうだ、この場所で産まれたのだ。
オリガは不思議な懐かしさを感じた。
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